第十一章 独孤皇后と二人の乞食女 六
楊堅は太極宮を歩きながら考えた。
今は中華は統一され、平穏が長く続いている。
人口もどんどん増えた。
夜盗群などの報告も、税が払えなくて身を持ち崩す流民自体が少なくなったため、大規模なものはほとんど姿を消した。
外敵に対する布陣も考えうる限り尽くしたし、外交においても心を配って対応している。
飢饉に備える義倉も国中に配した。
内憂は隋初より大幅に少なくなっている。
『それもこれも、お前の天晴な内助の功があってのことよ』
伽羅にそう伝えれば、嬉しそうに微笑んでくれるであろうか。
少々政務を早めに切り上げても、咎められぬであろうか。
いや、もう少し点数を稼いでおくべきであろう。
そう考えた楊堅は、こっそりと脇門から後宮に戻ることにした。
脇門にも当然、禁兵(近衛兵)が番をしているが、そこを過ぎれば先ぶれの者の手を煩わせずに、私的に妻を見舞うことが出来るのだ。
楊堅は皇帝であるが、
「自分で出来ることは、自分でするものです。
宮女たちも忙しいのですから」
と、日頃から言われていたので、出来るだけ『こそこそ』と私的に見舞おうとしたのだ。
慣れた長い廊下を楊堅は一人歩いていった。
厳格な時代であると起居注(皇帝の言葉、行動を記す官職の者)が常に付き従い、気の毒なぐらい私生活を筆記されてしまうのだが、この隋朝においては比較的緩かった。
楊堅は、後宮にて控えているはずの起居注にも見つからぬよう注意し、一人そっと歩き出した。
カツンカツンという沓の音だけが、小さく響く。
悪皇帝の使っていた旧都の後宮は眩しいほどの綺羅綺羅しさでであったが、今は質素を重んじて過剰な装飾はされていない。
落ち着いた雰囲気が漂うばかりである。
それにしても静かであった。全く誰ともすれ違わぬのだ。
楊堅は立ち止まって、不審げに周りを見まわしてみた。
質素好みの伽羅の意見を取り入れたので、後宮の宮女・宦官の数は極端に少なかったが、誰一人として見かけぬのは流石に稀であったのだ。
実はその日は良く晴れており、風も良い具合に吹いていたので宮女たちは衣装や書籍の曝涼(虫干し)を行っていた。
衣装の量はさほどでもなかったのだが、それなりに多くある後宮の、書庫や空き部屋に置いてある書籍の量が尋常では無い。
働く人員も少なく、かと言って気安く外部から応援を頼める場所でもなく、毎年虫干しの日は大変であったのだ。
後宮の建物から面する優美な内庭は、建物ごとぐるりと影壁(目隠し用の壁)に囲まれている。
外部からは遮断され、見えない造りとなっているのだ。
宮女たちはその内庭に段を設け、あるいは筵を敷き、忙しく立ち働いていた。
後宮に残っていた皇子皇女、伽羅でさえも手伝うのが常であったが、最近、最後の子供が成人して宮を出てしまっている。
伽羅も寝付いているので益々大忙しである。
女たちより力のある宦官も、当然のように駆り出されていた。
衣装はともかくとして、大量の書籍を動かすには男手が欠かせないのだ。
そもそも宦官という制度は、後宮の女性だけでは力仕事がこなせぬので、それを補うために出来たと言われている。
虫干しの習慣は日本にもあるが、もちろん古代中国より伝わったものである。
『後漢書』などにも虫干しの様子が記録されており、衣装、書籍だけでなく、保存食なども風に曝して湿気やカビ類、小虫などを払ったらしい。
それを称して『曝涼』と言う。
話戻って伽羅が寝付いて以来、宮女や宦官たちは入れ代わり立ち代わり様子を見舞うようになっていた。
心配してくれる気持ちはありがたいにしても、これではかえって落ちつけぬ。
丁度気候も良かったので、伽羅は後宮中の衣装・書籍の虫干しを行うよう、皆に命じたのである。
そうして後宮の建物内には、ほとんど誰も居なくなってしまった。
居なくなった者の中には尉遅熾繁の侍女も含まれていて、主の衣装を次々と干しながら、そこで他愛もないおしゃべりを楽しんでいた。
皇后が寝付いたことで最近は皆、欝々としていたのだが、日の光の下で働くと、やはり晴れやかな気分になるものである。
また、尉遅熾繁の侍女は後宮に住まうようになってすでに数年。
この頃には他の宮女たちともすっかり打ち解け、油断が生じていたと言えよう。
一方楊堅は、後宮を歩くうちに美しい琵琶の音が漏れ聞こえていることに気が付いた。
その曲は、かつて上官であった独孤信に招かれ、その席で伽羅が弾いていたものと同じである。
楊堅は懐かしく思いながら歩を進めていった。
伽羅はその曲を好み、結婚後も度々子供たちと弾いていたのだ。
「どうやら今日の調子は良いようだ。
きっとこのまま病も癒えることだろう」
楊堅は伽羅の病が良くなり、手慰みに琵琶を弾いているものと思い込んで喜んだ。
ところが琵琶が聞こえてくるのは、伽羅の居室からでは無いようだった。
むしろ遠い。
いぶかしく思った楊堅は、その音色を追ってとある部屋の前にたどり着いた。
足音をひそめ、そっと覗いてみると、琵琶を弾いていたのは、世にも美しい儚げな女人である。
そう、隠れるように後宮に住んでいた尉遅熾繁であった。




