第九章 隋王朝 五
さて、夫婦仲の問題は解決したが、心に棘を刺す別の『内憂』は突如発生した。
楊堅夫妻の三男に『俊』という若者が居る。
これは楊堅が帝位につく十年ほど前に生まれた息子であった。
「あの子は本当に優しい子でございますわね」
楊俊がまだ十代半ばの頃、伽羅は目を細めて度々こう言っていた。
はっきり言って『自慢の息子』である。
両親の教育の甲斐あって、楊俊は文学好きにして性格は優しく、むやみな戦いや殺生は好まなかった。
兄たちと比べて『武』はあまりぱっとしないが、その分優しさは飛びぬけていて、巣から落ちたひな鳥を助け、飛べるようになるまで育ててやったことすらもある。
「ここまで国が安定すれば、少々『武』に劣るとて問題はございませぬ。
北周二代目の明帝様も『武』にはご興味を抱かれぬ方でしたが、お優しく、政務に秀でた方でございました。
俊もきっと、教養の深さを活かし、嫡子の勇を助け、私ども亡きあとも仲良く過ごしてくれることでございましょう」
妻の微笑みに、楊堅も日々の疲れを忘れ、うなずくばかりであった。
そこまでは両親の教育の成果が立派に現れていたのだが、子育てというものは、思わぬところで思わぬ方向に進むことがある。
楊俊は性格が優し過ぎたのか、やがて仏教に傾倒していったのだ。
それは丁度、国策として仏教を広めていたせいもあるようだ。
楊俊自身も思春期独特の一途さで、いつのまにかのめり込んでしまった。
「父上、母上、わたくしは皇子として安穏と過ごすより、御仏に仕えとうございます。
出家をお許しください」
今まで楊俊の優しさに目を細めていた両親だが、さすがに目をくわと開いて驚愕した。
「父上も御仏とのご縁の深こうございましょう。
お生まれになられた場所は馮翊(陝西省大茘県)の般若寺。乳母は仏尼で、父上の幼名は『那羅延』でございましたね。
これは仏教の『那羅延天』から来ているとか。
仏教を手厚く保護なさっている父上様でございますから、きっと此度の願いもご理解いただけるものと思っておりまする」
と、少女めいた美しい顔でにっこりと笑う。
那羅延天はむしろヒンドゥー教から来ており、ヒンドゥー教の神『ヴィシュヌ』の異名を漢語に音写したものが『那羅延天』である。
仏法守護の主神、帝釈天などもやはりヒンドゥー教から来ているが、インドラ神と言えば耳にしたことのある方も多いだろう。
仏教と微妙に混ざってしまっているので、仏教経典にも仏教壁画にも度々登場している。
那羅延――ヴィシュヌ神は地上世界に悪が満ちたとき、善き人々の守護者として地上に顕現(目に見える形で 現れること)すると言われている。
幼き頃を悪皇帝の治世で過した楊俊にとって、父帝はそんな尊敬すべき存在であった。
一方の楊堅は、夢占いが当たった後には多少の『不思議』を信ずるようになったものの、基本、現実主義者のままであった。
大事なのは『政務の細々とした段取り』で、その他では妻の機嫌を窺うことに忙しくて、自身をそのような神秘的存在とはとらえていない。
むしろ過去には私度僧(認可の無い僧)が増えすぎて国家財政を悩ませたので、皇帝邕と共に仏教を弾圧した側である。
そもそも、すがるなら神仏よりも妻が良い。現実的な策をささっと提示してくれる。
神頼みより、よほど当てになるのだ。
仏教を広めているのも、実は伽羅に勧められたからに過ぎなかった。
「領土には数多の民族が寄り集まって住んでおりまする。
風習や考え方の違いによって問題が起きることも多いとか。
多民族の心を『平和的にまとめるため』の手法として、仏教は最適かと思いますわ。
あなたさまなら、むやみに私度僧を増やすことなく、上手く取り入れて活用なさることでしょう」
そう妻が微笑んだから検討を始めたのだ。
ただ楊俊は年若く、父が仏教を弾圧したのも皇帝邕のころ。
つまり政治に関心を示すこともない幼少時だったので、よく覚えていない。
更には父母ほど苦難にも直面してこなかったため、どことなく夢見がちであった。




