第八章 女帝 六
楊堅は名門武家に生まれた嫡男である。
血にひるむなどもってのほかであるが、夢を見たころの楊堅はまだ十歳にも満たぬ童であった。
しかも幼いころは病弱で、戦どころか狩りに出た経験すらもない。
返答に困っていると、老仙人は続けた。
「赤の道を行けば、お前は皇帝になれるだろう。しかも賢帝となって、世の中を明るく照らすこと間違いなしである。
しかし、白の道を行くこともできる。
争いから遠ざかって『わが身だけの幸せ』を願うなら、白の道を行くが良かろう。
民を救いたいと思うなら、屍を踏み越えて赤の道を行くがよかろう」
目覚めた楊堅は、この夢のことを父親に話した。
父楊忠はしばらく考え込んだ後、このように息子に申し付けた。
「ふむ。不思議な夢であるな、那羅延よ。
しかし夢は夢。ただの夢である。
その話は他言無用ぞ。よく心得よ」
那羅延というのは楊堅の幼名である。
ヒンドゥー教の神である『ナーラーヤナ(ヴィシュヌ)』を漢語に音写したものであるが、後に『那羅延』は『仏教の神』にも転じている。
当時大将軍であった父楊忠は、その夢を不審に思い、密かに占い師を呼びよせ、占わせた。
占い師の告げた内容は、ほぼ夢のままであったが、不敬にあたるのを恐れた楊忠はその件を握りつぶし、わが子にも夢など信じず、堅く秘するよう申し付けるのみで終わったのである。
幼い頃から現実主義だった楊堅は、父に言われるまでも無く、自身が皇帝になるなど『あり得るわけがない』と承知していた。
夢は夢。ただの夢である。不思議など信じない。
実は楊堅が病に寝込むたび、仏尼であった乳母が祈祷などをしてくれるのだが、効果はあるのやらないのやら。
一応ありがたく思い、そのたび感謝はしていたものの、懐疑的であった。
その代わり、薬湯などを真面目に飲めば、きちんと病は治る。
なので夢占いにも興味は薄く、そのうち、そんな夢を見たことさえ忘れ去っていった。
だが、先帝の暴虐の結果、王朝に忠誠を誓う廷臣は極端に少なくなっている。
皇帝も幼いうえ、資質に恵まれていない。
そのため、水面下では『天意に沿っている楊堅を新皇帝に据えるべき』と望む者が相当数いたのだ。
「だからこのような『不遜な夢』を度々見るようになったのだろうか?」
楊堅は首をひねっていた。
最初こそ不敬と思い、心に抱え込んでいた楊堅であるが、その夢をあまりにも度々みるので、ついに我慢しきれなくなった。
そこで、妻の伽羅にだけは夢の話を聞かせることにした。
伽羅は政治・故事・歴史に通じていて、生半可な文官よりも頼りになる。秘密も良く守る。
楊堅は、何事も真っ先に妻に相談するのが常なのだ。
「それはまた、不思議な夢でございますこと」
妻は潔癖な質で、公正である。
あの美しい顔に冷たい表情を乗せて『不敬』をなじられるやもしれぬ――――そう思ってびくびくしていた楊堅であるが、意外にも伽羅はそう言ったきり黙り込んだ。
楊堅を皇帝に。
まだまだ囁き声ではあったが、それを望む声が『多く』ある事は伽羅も把握していた。
現皇帝は、即位して一年。年はわずかに八歳。
この幼さなので酒も飲まぬし女で失敗することもない。そこまでは良い。
ただ凡庸な上、外の世界に無関心なたちであったため、決断が遅く、軍機をあやまることが多々あった。
いかに左大丞相の地位に昇った楊堅であっても、皇帝の『勅命』なく大軍は動かせない。
逆臣であった宇文護なら皇帝の意など気にもせず、もしくは皇帝を脅かしてでも勅命を引き出し軍を動かしただろうが、楊堅はそこまで思い切ることができなかった。
しかし悪帝の代に既に弱体化していた北周である。
臣下の忠誠は目に見えて衰え、度重なる大赦により規律はゆるみ、税を払いきれぬ民は重刑を恐れて盗賊に転身し、あらゆる地で跋扈していた。
さて官庫はどうか。
これも悪帝の浪費により空に近い。
加えて愚鈍な幼帝が足を引っ張ることで、更なる弱体化が猛烈な勢いで加速しつつあった。
また、宇文温に続いて、尉遅熾繁の祖父、尉遅迥がとうとう王朝に弓を引いた。
正確には『幼帝を操る楊堅倒すべし』との声を上げたのだった。




