第五章 酔っ払い太子の妃 五
見境も理性もない蛮人……あの酔っ払い太子に愛娘を託せようはずもない。
楊堅は酒を片手にため息をついた。
太子贇は若くして、すでに女を多数侍らせている。
しかも手に入れた女たちはもとより、臣下にさえも悪態をつき、下僕を罪なくして虐めて楽しむような人柄なのだ。
太子が悪辣に育ったのは、皇帝邕が甘やかして育てたからではない。
宇文護を反面教師としていたので、その教育はむしろ苛烈ですらあった。
罪があれば、わが子に対しても容赦はなく、太子であった彼は、素行の悪さがバレるたびに父帝に懲罰杖で殴打されたのだ。
それでも太子の悪行は収まらなかった。
物心ついたころには父帝はすでに臣下の傀儡。
心の中では常に父を侮蔑して過ごしてきたのだ。言うことなど聞くわけがない。
また、太子の生母は美しい女性ではあったが元々の身分が卑しかった。
そのため太子を生んだにもかかわらず皇后にはなれなかった。
そのことも恨んでいた。
生母そのものには野心はなかったので、折に触れては息子に道理を説き、歴史上の例を挙げて聞かせたが、
「母上。そうはおっしゃいますが、あの長く続いた『漢王朝』ですら、初期の皇后たちは得体も知れぬ卑女が多かったのです。
簡単に納得出来ようものですか。
母上が皇后位を得られぬばかりに、私までもが恥をかく」
と、思春期の猛るままに言い捨て、母まで泣かせる始末であった。
子育てをしたことが無いうちは、誰でもが理想論を語る。
良きことは褒め、悪しきことは罰する。
それだけで子供は真っ直ぐに育つと語るのだ。
しかし現実は子の『資質』にも『周りの環境』にも大きく左右される。
『孟母三遷』という言葉がある。
紀元前の高名な儒学者・孟子は好奇心が強く、幼い頃は周りを真似ることが多かった。
母は賢女で、孟子が教養ある人物に育つことを望んでいたが、その家は墓地のすぐ近くにあった。
そのため、孟子は間もなく近所の子供と『葬式ごっこ』をして遊ぶようになった。
それを危惧した母親は、市場の近所に引っ越すことにした。
すると孟子は『商人ごっこ』をして遊ぶようになった。
今の感覚で言えば、商人のまねをするのは中々良さそうである。
しかし、当時の中国では商人の身分は『卑しい』とされていた。
汗水たらして物を生産したり、国防のために武術に励むのと違い、他人の生産物を売り買いして益を得ていることが軽蔑の対象となったらしい。(敗戦して滅んだ国『商(殷)』の国民を祖としているからという説もある。のちに貨幣が流通すると大商人が現れ官職に就く者も稀ではなくなった)
そういうわけで、母は再度引っ越しを行い、今度は学校の近くに住んだ。
孟子は、そこの学生たちが行っている祭礼儀式や礼儀作法を真似て遊ぶようになった。
こんどは母も満足した。
孟子はやがて六経を学び、後に儒家を代表する人物となった。
環境とは、このように子供に影響を及ぼすのだ。
親が如何に賢明であろうと、望みの方向に導くため努力しようと、子の資質をよく見極めたうえで優れた環境を与えねば大成しないのだ。
孟子はきっと、引越しを重ねてなければ儒家にはなっていなかっただろう。
太子には、享楽を好む元々の質と、父が長く傀儡皇帝であったということから来る猛烈な劣等感があった。
そして宇文護亡き後の彼には『周りの大人が絶対に逆らえない』という『特別な環境』があった。
臣下にへいこらしていた父帝のようになりたくないという思いは強く、目下に対しては尊大な態度で振舞うのが常なのだ。
それこそが彼にとっての『立派な君主像』であったのだろう。
それでも皇帝も人の親。いかに我が子が酷くとも、歴史を顧みれば、思春期に悪童であった者が、長じて英雄となることもままあった。
漢の高祖劉邦なども若き頃は家業を厭い、酒色にふけっていたが後に大成した。
そのような稀有な例に望みをかけて熱心に太子を教育していたのだが、その一環として賢男賢女として名高い楊堅夫妻の長女を欲したのである。
「太子の悪行はそなたも知っていようが、奴はまだ若い。
経書にもあるではないか。
『十五歳にならぬ者は、過罪悪業はその身にあらず』と。
太子は今なら十四歳。あらゆる手を尽くしてみたいのだ。
母とも相談してみたのだが、そなたが独孤氏を娶ってより目覚しく男を上げたように、美しく賢い妃を娶ることで愚息も変わってくれるやもしれぬ」
そんなことを言うのだ。
「おそれながら麗華はまだ十二歳でございます。
太子殿下をお助けするほどの力はございませぬ。
殿下にはしっかりとした、教養のある年上の女人がよろしいかと」
まずは楊堅なりに、精一杯に抗ってみた。
もう出世のことなど、頭の隅にさえ存在していなかった。
「いや、教養がありさえすれば、どんな身分の者でも良いというわけにはいかぬのだ。
太子が遠慮の心を抱くほどの大貴族の娘でなくては、すぐに粗末に扱うだろう。
大貴族の娘の中に、そなたの娘ほど美しく賢い者はおらぬ。
朕もこのような無理を言うのは心苦しくてたまらぬ。それは母上も同じである。
しかし、太子があのようでは北斉の二の舞じゃ。どれほどの国民が苦しむことになるのだろう――それを思うと夜も眠れぬのじゃ。
楊堅よ、これはもう決定じゃ。
そのかわり、娘は必ず、太子妃にしてしんぜよう」
皇帝邕は楊堅の手を無理やり取ると、固く約束した。




