第一章 虎殺しの少女 十二
楊堅は観念したように言葉を絞り出した。
「強い女性が良いと申し上げました。
私は今でこそ健康ですが、幼少の頃は体が弱かったのです。
病に寝付くたび、仏尼であった乳母が枕元にて経をあげ、仏の力にすがって何とか生き延びて参りました。
十歳を超えぬうちは女の様に屋敷の奥深くで過ごしたのでございます」
伽羅はそれを聞いて自分の幼少時を思い返していた。
果たしてどのようであったろうか。
そうだ、よく怒られる子供であった。
両親や乳母が何と言っても部屋を抜け出し、召使や奴婢の子供と裾を乱して庭を駆けまわったものである。
子供であるので、喧嘩なども時にはした。それも、取っ組み合いの。
木に登るのも上手なもので、まさに男児のようであったのだ。
そのことについて、母はもちろん、鷹揚な父ですら心配した。
いや、卑しい身分の子供たちと親しく交わることについてではない。独孤信の若き日々は、実は伽羅の行いと似たようなものだったのだ。
青年期にはならず者とすら親しく遊ぶ有様だったので、基本、無位無官の者にもおおらかだ。
最初は愛娘が屋敷の子供らと駆け回る様子を面白がって、より自由に駆け回れるように男児用の胡服すら与えていた。
男性用胡服は上衣にズボンという、洋式を思わせる二部式の衣服で構成されている。
伽羅や独孤信のルーツである遊牧騎馬民族が古くからまとっていて、それは伝統的な漢服とは違い、乗馬や騎乗速射に適するように発達していったため大変活動がしやすい。
古くは趙の武霊王が自軍を強くするため、わざわざ反対を押し切って胡服を導入していたほどだ。
しかし、幼い娘の取っ組み合いの喧嘩を目の前で見て、独孤信は流石に心配をし始めた。
伽羅が怪我を負うことももちろん心配だが、屋敷の子供たちは主の娘である伽羅に対しての遠慮がある。
むしろやりすぎて、屋敷の子供たちに怪我を負わせることについて心配した。
伽羅は心根は優しいのだが、なんせ、遊牧騎馬民族の血を色濃く受け継いだ娘である。喧嘩となると周りが見えなくなることもあった。
相手も子供なので同様だ。
伽羅が怪我をさせられた場合は、たとえそれが軽いものであったとしても家長として、その相手を断罪しなければ示しが付かない。
身分低き子供たちを一方的に裁かねばならぬことも彼は恐れた。
独孤信は噛んで含めるように娘を諭したが、何せ五つ、六つの子供である。神妙にうなだれても言うことを聞くのはほんの数日で、召使や奴婢の子供たちと再び遊び始めるのだった。
そこで父は、発散の一つとして伽羅に読書の楽しさと弓を教え、一緒に狩猟にも伴うようになったのである。




