第一章 虎殺しの少女 十
伽羅が婚約者候補の『楊堅』と初めて顔を合わせたのは、父より話を勧められて十日後のことであった。
独孤信の言うとおり、嫁ぎ先候補となった『楊家』は、大変に良いお家柄であった。
相手親である楊忠は、独孤信の持つ部下のうちの小物ではない。元帥の一人である。
つまり、人もうらやむ名門貴族なのだ。
楊忠は戦場を駆けていた昔を振り返っても、独孤信のそば近くで勤めていた部下であった。
娘の性格が少々奇異でも楊家の親子なら丸め込めると踏んだのか、それとも、愛娘を気心の知れた部下の息子にさっさと嫁がせることによって、いつまでも手の内に置こうというのだろうか。
婚儀の相手となるやもしれぬ本人。つまり『楊堅』という男は楊忠の嫡男であった。
今年十六歳になったばかりの若者で、伽羅とは似合いの年である。
これまた独孤信の派閥に入っており、若くして大将軍の地位を得ていた。
ところが独孤信には思うところがあったのか、娘には結婚相手の詳しい素性は明かさなかった。
将軍位にある『楊堅』という若者であると伝えたのみであった。
「楊将軍は武勲こそまだまだであるが、中々に見込みのある若者だ。
書に対する情熱も、お前に引けを取るまい。
どうだ、これなら文句はなかろう?
散々苦労してお前のために見つけてやったのだ。
この父に感謝し、精々『妲己』のように楊堅をたぶらかし、言いなりにして見せい」
はははと楽しそうに笑う父に向ける娘の視線は冷たい。
ちなみに婚約はまだ確定したわけではなく、まずは内々の顔合わせから始めるらしい。
当時の貴族社会では、花嫁花婿が顔も合わせず、親の勧めるまま婚儀の席に着くことが多かった。
これは格段の配慮と言っていいだろう。
独孤信は自分の客として、楊堅を屋敷に連れ込んだ。
「さてさて楊将軍。よくおいでになられた。
酒も珍味もたっぷりと用意しているが、酔う前にまずは琵琶などをお聴きくだされ」
父に呼ばれ、伽羅はしずしずと客間に入っていった。過剰に飾り立てられることについては断固抵抗したが、さすがに今日は絹の衣裳である。
ちなみに、上半身にまとう合わせが「衣」と呼ばれ、下半身にはくスカート状のものが「裳」と呼ばれている。
「娘の伽羅だ。お恥ずかしいことに娘らしいたしなみには欠けるが、琵琶だけは母譲りの才があったとみえて中々のものなのだ。
まあ、他の楽器はさっぱり上手くならないのだがな」
伽羅は一言も二言も多い父をキッとひと睨みしたが、そこは貴族の娘、楊堅に丁寧な挨拶をしつつ未来の夫候補の姿をそっと伺い見た。
楊堅は、背の高い若者であった。長身の父と並んでも見劣りはしないだろう。
しかし武将にしては随分ひょろりとしている。
十六歳であれば、まだまだ伸び盛りなのでこれは仕方がないのだろう。
がっしりと男らしくなっていくのは、もう少し先のことになると思われた。
顔の見栄えは残念ながらさほどではなかった。まあ、普通というところ。
だが伽羅にとって、そんなことはどうでも良い。
父のような美しい面を持つ者は稀であると心得ていたのだ。
しかし誠実そうな、それでいて才も有りそうな瞳は気に入った。
伽羅を見て、頬を染めた姿もなんだか微笑ましく、上手くやっていけるのではと思われた。
安心した伽羅は、裳裾を乱さぬように美しく座り、梨形胴の琵琶を弾き始めた。
このタイプの琵琶は西暦三五〇年頃にインドから中国の北方に伝わったと言われている。
当時は横弾きで、後の隋・唐代にはさらに幅広く流行することとなった。
楊堅は、琵琶の音色さえ耳に入っているのかどうかわからぬ様子だ。
ただ一心に、魂を奪われたかのように伽羅を見つめていた。
その様子を見ていた父は、しばらくすると伽羅に向かって口を開いた。
「伽羅よ、琵琶はもうよい。切り上げて、楊将軍に庭などを案内して差し上げてはいかがかな。
紅葉にはちと早いが、 秋の花々が盛りを迎えて美しいと家人たちが言い立てておったぞ?」
父は婿候補殿の乗り気なようすを見て、二人っきりになれるよう気を利かせたのだ。
ここで一気に親睦を深めてもらおうという親心である。
さて、ここで問題がひとつ発生した。
楊堅は、この年になっても妾の一人も持たぬだけあって、女あしらいなど全く出来ぬ男であったのだ。
気の利いた言葉も出てこない。伽羅の父とは全く違うタイプである。
頬を染めたまま戸惑って、伽羅の後をただついてくるばかりである。
そこで仕方なく、伽羅の方から親しく声をかけてみることにした。




