第87話「霧の奥の声」
「……あの先です」
その言葉を合図に、船は霧の中へと進んだ。
視界は白い。
風も弱い。
音が吸い込まれるような、嫌な静けさ。
「……何も見えないな」
ガルドが呟く。
だがカイナは首を振る。
「見えてるよ」
「え?」
「波が変だ」
短い言葉。
だがその声は確信している。
レオンはただ一言。
「進め」
船がゆっくりと霧を切る。
全員が目を凝らす。
情報はない。
通信もない。
頼れるのは――感覚だけ。
エリスは手すりを握りしめる。
「……怖い」
思わず出た言葉。
自分でも驚く。
今までこんなことは言わなかった。
だが今は違う。
見えない。
分からない。
それでも進まなければならない。
その時。
「音だ」
カイナが言う。
全員が耳を澄ます。
微かな音。
軋み。
木のきしむ音。
「……船だ」
ガルドが剣を抜く。
「警戒しろ」
霧の奥。
ゆっくりと、影が浮かぶ。
一隻。
止まっている。
だが。
「……おかしい」
エリスが呟く。
「何がだ」
レオンの問い。
「静かすぎる」
誰も動いていない。
人の気配がない。
「……接近」
船が近づく。
距離が縮まる。
そして――
見える。
「……!」
エリスの息が止まる。
船はあった。
だが。
甲板には誰もいない。
縄は切れ。
帆は裂け。
血の跡が残る。
「……襲われたのか」
ガルドが低く言う。
カイナは首を振る。
「違う」
一歩踏み出す。
隣の船へ飛び移る。
レオンとガルドも続く。
エリスも躊躇いながら渡る。
足音が響く。
異様な静けさ。
「……人がいない」
本当にいない。
だが。
「ここにいたはずだ」
エリスの声。
船はまだ温かい。
ついさっきまで人がいた。
その時。
「……声」
誰かが呟く。
全員が止まる。
確かに。
微かに聞こえる。
「……助け……」
船の下。
船倉。
レオンが頷く。
「開けろ」
ガルドが扉を蹴破る。
中は暗い。
湿った空気。
そして――
「……いた!」
人影。
数人。
縛られている。
口を塞がれ。
動けない。
「生きてる!」
すぐに縄を切る。
水を与える。
「……大丈夫か」
船員が震えながら頷く。
「……見えなかった」
掠れた声。
「何も……」
エリスが近づく。
「何があったの?」
船員は震えながら言う。
「声がしたんだ」
沈黙。
「通信じゃない」
「頭の中に……直接」
全員が凍る。
「……何を言われた」
レオンの低い声。
船員は目を閉じる。
「ここは危険だって」
「航路が違うって」
「戻れって」
一拍。
「……だから」
声が震える。
「皆、従った」
沈黙。
「でも」
顔を上げる。
「気づいたら……」
周りに誰もいない。
その言葉が、重く落ちる。
エリスの手が震える。
「……誘導された」
レオンは静かに言う。
「情報じゃない」
「認識そのものを」
カイナが低く呟く。
「厄介だね」
ガルドが歯を食いしばる。
「どうやってる……」
その時。
エリスの目が大きく開く。
「……違う」
小さな声。
「これ」
「通信じゃない」
全員が彼女を見る。
「“信じさせてる”」
沈黙。
「見えない情報じゃない」
「見える現実を、書き換えてる」
レオンの目が細くなる。
「認識操作か」
エリスは頷く。
「だから……」
言葉が震える。
「見えないんじゃない」
「見てない」
空気が凍る。
その瞬間。
背後で音。
全員が振り向く。
霧の中。
また一つ。
影が現れる。
今度は船ではない。
人。
黒い外套。
ゆっくりと歩いてくる。
「……やはり来たか」
静かな声。
記録院の男。
エリスの呼吸が乱れる。
「あなた……」
男は微笑む。
「これは実験だ」
一歩。
また一歩。
「どこまで“信じるか”」
その言葉で。
すべてが繋がる。
「……あなたが」
エリスの声。
男は頷く。
「我々は情報を扱う」
一拍。
「だが本質はそこじゃない」
目が鋭く光る。
「人は、何を信じるかで動く」
沈黙。
レオンが前に出る。
「だから操るのか」
男は答える。
「導く」
その言葉。
だがそれは。
「同じだ」
エリスが言う。
男は笑う。
「なら証明してみろ」
一瞬。
空気が張り詰める。
「彼らを導け」
縛られていた船員たちを見る。
「恐怖の中で」
「正しい選択を」
その挑発。
エリスの目が揺れる。
だが。
「……やる」
小さく。
だが確かな声。
その瞬間。
戦いの形が決まる。
剣ではない。
情報でもない。
「信じる力」
それが試される。
霧の奥。
戦いはさらに深くなる。
ついに「認識そのもの」が戦場になりました。
ここから一気にテーマの核心へ入っていきます。
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次話、エリスの本当の勝負です。




