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無関係


 教室に入る。仲間とあいさつを交わして理央の隣に座る。彼女は視線をそむけた。

 黒板の前にモニターが下りている。後期のゼミでは卒業論文の進捗報告を順繰りに行っていた。発表者は緊張していたが、他の生徒は眠そうにしていた。

 今日のテーマは『労働人口にまつわる問題 イギリスと日本の比較』だった。鳴海はもの思いにふけって、ほとんど聞いていなかった。

 要領を得ない20分間の発表が終わり、質疑応答の時間になった。


「外国人労働者については書かないんですか」と質問が出た。


「はあ、考えてはいるんですけれど……それを入れると広げすぎになっちゃうんで」


「たしかに」と教授もうなずいた。「語るべき問題ではありますが、卒論に入れるのは勧めません。君たちを卒業させてあげられなくなる」 


 くすくす笑いが教室のそこかしこから聞こえた。鳴海は机にひじをついてペンを回した。


「まあ、この中に興味のある人がいるなら、資料はあるので貸しますよ。ほかに質問は?」


 質問は出なかった。教授はだれかを名指ししようとした。すると鳴海の左隣で、手がおそるおそる挙がった。


「ちょっとテーマとずれちゃうんですけれど」と彼女は言った。


「かまいませんよ」


 発表者ではなく教授がうなずいた。


「いまの質問で思ったんですけれど……在日コリアンの人たちについて入れたらどうですか?」


 教室の空気がやや固くなった。


「どうしてだい?」


「イギリスとアイルランドの関係と、日本と韓国の関係って似ていると思ったんです。そういう観点から考察したら面白いかなと」


「なるほど。いい観点だ。実際にそういった見方をする学者もいる。君はどう思う?」


 発表者がたじろいだ。「そうですね」と困り顔でつぶやいて、

「面白いとは思いますけど」


「けど?」


「もう解決した問題じゃないですか。それに関して経済学で考える必要ってありますかね?」


「ふむ」


「それにこの論文であつかうテーマは、少子高齢化社会という共通点をもつ現代に限られるので」


「すみません」鳴海は左手を挙げ、右手でリュックのひもをつかんだ。

「ちょっと体調わるくて」


 視線が彼に集まっていた。教授は心配そうに「行ってきなさい」と言った。


「ありがとうございます」


 鳴海は席を立った。理央の視線が頬にささっていた。教室を横切るあいだに議論が再開された。

 駆け足でトイレへと向かう。だれも居ないのを良いことに、鳴海は個室に飛びこんでしゃがみこみ胃の中身を吐きだした。荒く息をついて扉をしめる。もう一度吐いた。目のまえがゆがむ。倒れないように便器にしがみつくと寒気がした。風邪をひいたのかもしれないと、やたらと冷静な理性が告げた。精神的な混乱と身体的な不調が嘔吐をまねいたのだ。そう冷たく考えるほどに、目から涙がこぼれた。

 ようやく落ちついたのは、なにもかも吐きだしたあとだった。

 トイレットペーパーで口と目元をふく。妙な安堵感が身体を包んでいた。腰をあげる気になれず、両手で作った暗闇に顔をうずめた。


 小学校の記憶がよみがえった。

 幼稚園児がクレヨンで描いた絵のように色鮮やかで生命力のない記憶だった。


 夏休みが終わった翌々日は、最後の自由研究を学校へ持ちこむ日だった。父親と考えた特製ハンバーグのレシピを携えて教室に入ると、奇妙なオブジェや観察日記が各々の机に乗っていた。

 友達が集まってレシピを見せてくれとさわいだので、彼は自信満々に見せびらかした。


「におうよな」


 鳴海はふりかえった。背後から覗きこむ少年は、休み時間によく分からない問題を解いている児童だった。だれとも遊ばないのでいつもひとりだった。


「親が言ってたんだけど、佐々木って外国人なんだろ。で、うちで外国料理をだしてる」


 なにを言われているのかよく分からなかった。たしかにハンバーグは外国の料理だ。どの国か知らないが日本ではないはずだ。

 友達がその生徒をにらみつけた。


「鳴海んちはハンバーグ屋だけど」


「このあいだ食べいったけど。あんまおいしくなかった。てかさ、つけあわせにキムチってありえなくないか。ダサいよ」


「ダサくない」と鳴海はムッとして言いかえした。

「てか、俺ガイコク人じゃない。日本人なんだけど。なに勝手なこと言ってんの?」


 そのときの彼の笑顔を、今でも覚えている。とても嬉しいことがあったような、天真爛漫な笑みだった。

 その翌週に両親から話があった。友達はこれまでどおりだった。先生は少し気をつかってくれるようになった。あの生徒は、やはりひとりぼっちでよく分からない問題を解いていた。

 ハンバーグのつけあわせは、ナポリタンになった。




 チャイムが鳴ってからトイレを出た。何事もなかったような顔で口をゆすぎ、教室へ戻る。


「あ、鳴海」仲間たちがふりかえった。

「おまえ大丈夫か。顔色最悪だぞ」


「風邪ひいたっぽい」


 鳴海は肩をすくめて笑顔をうかべた。

「理央」


 声をかけると、ノートをバッグにしまっていた彼女がふりかえった。怯えが目元に影を作っていた。


「悪いんだけど、さき帰ってるわ」


 彼女は混乱した表情でうなずいた。


「うん、じゃあな」


 鳴海はきびすをかえした。はりついた笑顔を顔から消し、廊下を歩く。奇妙な深海生物が心臓の代わりに埋まったような気がする。頭と手足が妙に冷え、顔面は熱い。

 大股で階段をおり校舎の外に出る。駅に向かって歩く。頭がぼんやりしてきた。

 そのとき背後から「鳴海!」と叫ぶ声が聞こえた。

 理央は倒れこみそうな勢いで鳴海の腕にしがみつき、しゃくりあげながら「ごめん」と謝った。


「本当にごめん」


 鳴海は彼女を見おろした。


「あなたの同級生から聞いて。ごめん、勝手に。でもそういうつもりじゃなくて、さっきのは本当にそう思って。傷つけるつもりじゃなかった」


 駅の改札へ顔をそむける。つかまれた腕が重い。


「わたしはそんなふうには思ってないし、その、そう知ったから、よけいにさっきみたいに思ったの。もっと取りあげるべきっていうか、みんな知るべきだって」


「それで?」鳴海はあっけらかんと聞いた。

「復讐のつもり?」


「ちが」


 腕を振りはらった。想像以上の力がこもったのか、理央はよろけて尻もちをついた。周囲がぎょっとしてふたりを見た。


「ふざけんな」


 彼は笑った。


「まえに理央、言ったよな。めんどくさいって。自分のことで精一杯だって。じゃあ口はさむなよ。だまってろよ」


 理央は言葉をのんだ。


「でも」


 涙が彼女のほおを伝った。


「わたし、彼女じゃん……」


 彼女がしゃくりあげるたびに、彼の笑顔は引きつった。


「なんで話してくれないの。悲しかったよ。信用してもらってないんだなって思った。わたし、そんなやつに思われてたの?」


 野次馬の視線が刺さる。面白がるような目線にくらくらしてきた。


「なんで俺がだまってたのかも、わかんねえんだ」


 絞りだされた声はカラカラに乾いていた。攻撃的で冷笑的な、あの児童と似た声だった。


「言っとくけど、おまえらにその言葉は絶対に言われたくない。なにかを話さなきゃいけない立場になったことあんのか? なんでいちいち説明して、同情買って、自分のいないところで議論されないといけないんだ? 意味がわからないんだよ。なんで話さなきゃいけないんだよ」


 鳴海はせきこんだ。倒れそうだった。だが理央はすでに倒れていた。彼女は泣きぬれて小さくなっていた。

 もう無理だな。なんとなくそう思った。駅へと歩をすすめる。彼女は追ってこなかった。




 最寄り駅で降りる。身体の節々が痛みを訴えていた。鳴海はぎくしゃくと歩きながら、この状態のまま旭の家には寄れないと考えた。。寒さが身にしみた。一階のロータリーに生えているモミの樹に電飾が飾られている。橙と紫と青の三重奏になった夕暮れが体にのしかかった。


 吐いた息のなかに見慣れた顔を見かけた。

 青山旭だった。彼は隣を歩く女性の話にあいずちを打っていた。

 彼らは身を寄せあって駅の構内に吸いこまれていく。鳴海は歩みをゆるめて、その光景を見送った。

 早足で歩きはじめる。息苦しさを感じた。ポケットから片手をだして首筋にふれると、汗ばんでいた。


「だいじょうぶ」と独りごつ。精神的な弱さは肉体の不調が原因だ。滅入った気分も体が良くなれば治るだろう。

 家に到着する。両親や姉たちが「おかえり」と言った気がした。自室に直行し、乱暴に布団をひいて体を投げだす。寒気がして、毛布を引きよせる。

 急に涙が出てきた。こんな年になってと思ったが、流れるままにしておいた。扉がノックされたが、応えないでいると気配ごと消えた。

 目を閉じる。

 このまま地球が滅んだらどれほど楽だろうか。

 そんなことを考えていると、先ほどの旭の姿が思い浮かんだ。彼は幸福そうだった。

 布団に頭をうずめて歯をかみしめる。あいつらと変わらない。見捨てられて当然のクズだ。




「ぶっ」


 顔になにかが当たって、鳴海は起床した。息苦しい。右手をのばすと肩や首がぴきぴきと痛んだ。指にやわらかな感触がする。

 まぶたをあげると、視界一面がオレンジ色だった。

 彼はばたんと両手を落とした。その体制のまま黙っていた。するとナポリタンは顔の上から下りた。


「鳴海、ナニを真昼間から寝ている。ダメ人間」と言った。


 額に片手を置いて、ぼんやりとナポリタンを眺めRU。朝日に照らされた触手の塊は、ひさしぶりに見ると、まさに熱に浮かされた悪夢そのものの見た目をしている。


「まあいい、ヒマなら調度よい。ユウキが呼んでいるぞ」


「……なんでアンタがわざわざ」


「旭は手が離せないのだ」


 鳴海は昨日の光景を思いだして、そうだろうなと思った。


「悪いけど、風邪ひいてんだ。今度な」


 ぼそぼそ告げて布団にくるまる。すると腹のあたりに重い羊羹を乗せたような感覚がした。ナポリタンが布団の上で跳ねる。


「今度とはなんだ。オマエの不調などドウデモよい」


 鳴海は無視を決めこんだ。


「おい鳴海」


「……」


「旭はマダ幸福になっていないぞ」


「……」


「あれはウソだぞ」


 聞こえないふりをしつづける。するといつのまにか眠ってしまったのか、次に目が覚めるとナポリタンは消えていた。

 時計はもう13時をさしていた。携帯を手にとりバイト仲間に連絡する。よほど体調の悪そうな声をしているのか、夕方のシフトを交換してもらえた。

 メッセージを確認する。だれからも連絡はなかった。

 布団から半身を起こすと背中が痛んだ。自室を出てすぐに加奈子に遭遇する。

 彼女はこちらを上から下までながめて「だいじょうぶ?」と言った。


「ひどい顔だけど」


「もともとだよ」と返して一階に降りる。顔を洗おうと洗面所へ向かう。縁のさびついた鏡に、げっそりした顔が映っていた。

 昨日のことがまざまざと思いだされた。蛇口から流れ落ちる水と一緒に、彼自身のなにかが下水道へ吸いこまれた。もう手の届かない場所に行ってしまった。そしてそれら全ては、もはやどうでもいいことだった。

 またあのころと同じ状態に戻ったのだ。そう鳴海は思った。教室の片隅でドリルをめくる日々もそれほど悪くはなかったと自分を納得させる。


 ――でもあのときは、反対側の席にもうひとりいた。


「なるちゃん」鏡に由美の顔が映った。

「もしひまなら、お買い物」とそこまで言って、目を丸くする。


「どうしたのよ」


「どうもしないよ」


 彼女は視線をさまよわせて、迷った末に彼の肩をそっと叩いて居なくなった。

 鳴海は顔を洗って二階へ戻った。

 目元に腕を乗せて光を遮断する。もうなにも考えたくなかった。


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