味覚音痴
今日も旭は家にいなかった。
鳴海は電車を待ちながら考えた。彼を家に呼んだ日から3週間が経過していた。
ホームに学生たちが退屈そうに立っている。迷いこんだ枯葉をスニーカーの底で踏みつぶしながら、彼は咳きこんだ。今朝から体調がよくなかった。
あの日から旭との連絡が途切れた。もう3回目となった今回の来訪も、チャイムにはなんの反応もなかった。就活で忙しいのかもしれない。はたまた居留守を使われているのかもしれない。どちらにせよ彼は諦めはじめていた。
「ぼくは幸福になった」あの日、旭はそう言った。
「青い鳥は家にいた。ぼくは以前の生活が幸福であると思う。今までありがとう」
ホットケーキに手もつけず、すぐに立ちさろうとした。
鳴海はあぜんとした。そして我にかえると、すぐに店の外まで追いかけて、どうしたのかとたずねた。すると彼はくりかえした。幸福になった。もうだいじょうぶ。
戸惑った。自分の知る青山旭から逸脱した行いに思えた。
旭は手をふりはらった。そこで鳴海は不安になった。自分は、また彼の自主性を無視しているのではないか。
気がつくと彼は消えていた。
なんにせよ、これで良かったのだ。鳴海はそう思うしかなかった。
ユウキの家に報酬を受けとりに行かなければならない。卒業旅行の計画もまったくしていない。
友人たちに誘われていたが、旭の件に関して見通しが立たなかったため、返事を曖昧にしていた。
11月でもツアーの予約はとれるだろうか。自分からだれかを誘うべきだろうか。
それ以前に、誘わなくてはならないのだろうか。
大きな芋虫のような電車が到着した。座席の端に座って携帯をながめる。平日正午の車内は空いていRU。扉が閉まる。吊り広告には、どうでもいいことしか書かれていない。
ナポリタンはどうしているのだろう。旭はきちんと内定を得られただろうか。気にしたところで、所詮自分とは関係のないことだ。鳴海は唇をかんで、まぶたを下ろした。
校内が学生でにぎわう15時、理央は生協食堂の前で待っていた。16時からゼミが始まるので待ちあわせをしていたのだ。
あの日の喧嘩は曖昧に収束していた。あの後、ゼミで会った理央は平然としていた。それゆえに鳴海はあえて争いの火種を持ちだしはせず、いつもどおりに接していた。
そのはずだったが、今日の彼女は仏頂面だった。
鳴海を発見すると「おはよう」と言ったきり無言になった。食券を買って列に並び、アジフライ定食にソースをかける間もだんまりを決めていた。
テーブル席に対面で座った。
「なにかあったのか」と耐えかねて話しかける。
理央は両手を合わせて「いただきます」と言い、キャベツを口に入れた。
鳴海は眉間にしわを寄せて、かつ丼を食べはじめた。
「卒業旅行のことなんだけど」視線を定食に向けたまま、彼女は話しだした。
「フランス行こうって話してたじゃん」
「ああ」
一週間前にそんな話をした。正直なところ、どこでも構わなかったので会話の内容を覚えていなかった。
「やっぱりやめとこう」
彼女は押しころした声で言った。
「どうして?」
「いまの状況で、わたしと旅行へ行っても楽しくないでしょ」
鳴海はぽかんとした。
「なんでそんなこと言うんだ?」
「ほかの友達との旅行にお金かけたいでしょ」
なぜ急にそんなことを言いだしたのか見当もつかなかった。ただ彼女の不機嫌が心底うとましく思えた。
「わかった。じゃあやめとこう」
邪見にこたえると、理央は傷ついた顔をした。
「あのさ、やっぱり別れる?」
「はあ?」
「ぜんぜんわたしの気持ち、考えてくれないよね」
「理央の気持ちもなにも、俺はなにも言われてないんだが?」
敵対心が彼女の目に浮かんだ。
「だから、なにも考えてないって言ってるの。言わなきゃわかんないわけ?」
先日の喧嘩を引きずっているのだろうかと鳴海は考えた。姉たちの傾向にかんがみると、その可能性は高い。嵐がすぎるのを待とうと、黙って食事をつづけた。
すると彼女は低い声で「なんであのあと青山くんを呼んだわけ?」と言った。
鳴海は箸を落としかけた。
「あの日わたしを帰したあと、青山くんを呼んだでしょ」
「なんで知ってんの」
「答えてよ」
彼は混乱していたが「友達だからだよ」と反射的に答えた。
「正直、あのときすごい理央に苛ついていた。だからちょっと友達に会いたかったんだ。それがダメなのかよ」
「友達?」理央は侮蔑を口元に浮かべた。
「青山くんはそう思ってないみたいだけど」
空気が凍りついた。鳴海は顔色をなくした。手が震えたので箸をトレイに置く。理央の頬は怒りで赤くなっていた。
「それどういう意味」冷静を保つよう努力しながら、たずねる。
「とりあえず聞くけど。俺が旭を呼んだってどうしてわかったんだ」
「……たまたま道ですれ違ったの」と彼女は冷たく言った。「青山くんと仲良くしてるって聞いてたし、もしかしてと思って話しかけた」
後悔が鳴海を襲った。
「なにか言ったんだな」
「べつに」と顔をそむける。
「鳴海のこと友達だと思ってるのって聞いたら、わからないって言われた。それだけ」
――わからない。
単語がくるくると脳内を旋回する。
「ほかになにか言ったのか」とたずねる語尾がぶれた。
理央は顔をひきつらせて「ねえ、なに考えてんの」と言った。
「いいから答えろよ」
「やっぱりそういうことなの」
「そういうことって」
「わたし、そういうのに偏見ないほうだよ。でも浮気は浮気だよ」
「あのさあ!」
椅子が大きく鳴った。学生たちが起立した鳴海をふりかえった。
「おまえ、なんなの。妄想もいいかげんにしろ」
彼女はひるんだが、すぐに気を取り直して鳴海をにらんだ。
「妄想もなにも青山くんは、ああ言ってたんだよ。そういう理由で、わたしのことなんてどうでもよくなったんでしょ」
「違うって。理央、自分で言ってておかしいと思わないのか」
「でも青山くんって、すごくかわいいじゃない」
鳴海は絶句した。頭痛がしてきて、ひたいに手を当てる。食べ終えたどんぶりを見おろす。たいして美味くないのに、どうして食べているのだろう。
彼は席に座りなおした。こぶしを両ひざに乗せて「理央」と呼びかける。
「言っておく。それは旭にめちゃくちゃ失礼だ。アイツがわからないって言ったのは、本当にそう思ったからだ」
「なにそれ。友達じゃないってこと?」
「ああ。俺が一方的に友達だって主張したから困惑したんだ。そういうことだと思う」
鳴海は真剣な表情で続けた。
「だからアイツの名誉を傷つけるようなことは言うな」
「……べつに悪いことだなんて言ってないじゃない。わたしが言ってるのは、浮気はダメだって」
「論点をはき違えんじゃねえよ。俺はアイツのことを知りもしないのに、勝手に話すなって言ってんだ」
やや強い口調で言うと、彼女はショックを受けたようだった。同情の気持ちは一切湧きあがってこなかった。きっと旭は、彼女から言いつのられたのだろう。そう思うと、やるせなさと後悔が胸をしめつけた。
「結局、私が悪者なの?」彼女はつぶやいた。
「普通のことを望んでいるだけだよ」
「俺にかまわれたいなら俺に文句言えばいいだろ。旭はまったく関係ない」
理央の目から焦点がなくなった。「別れようか」と言う。
「なんかもういいや。鳴海、わたしのことなんて本当にどうでもいいんだね」
彼はリュックを手に立ちあがった。理央はなにも言わなかった。
鳴海は食堂を出ると二号館の横にある喫煙所に立ち入った。リュックの底からつぶれたタバコの箱を出す。最後に吸ったのはいつだったかと思いだしながら、隣の学生に火を借りて一本口にくわえる。隅にしゃがみこんで灰を地面に落とす。
なんだか寒気がする。腕をこすって、壁と壁にはさまれた夕暮れを見上げる。
理央の言葉がリフレインする。煙がまずく思えた。たまらず口から離して息をつく。
鳴海は旭に電話をかけた。出ない。ため息をついてメッセージアプリを開く。自責の念がちくちくと胸を刺す。深呼吸をして冷静になろうと試みる。
行動を変えるしかないのだ。 鳴海は立ちあがってタバコを灰皿に押しつけた。ゼミの開始まであと十分を切っていた。
ゼミが終わったらすぐに理央と話し、それから旭の家へ行こう。また居留守を使われるかもしれないが今回ばかりは粘らなければ。
自分が変わればいい。うまくやればいい。鳴海は歩きながら、暗示をかけるように言い聞かせた。




