第5話
「あ……」
自身の手を持ち上げ、指先を動かす。
元通りに動く。
それに、自分の足下にしっかりと床の感触がある。
本来なら当たり前のことなのに、今はその「当たり前」がどうしようもなく愛おしい。
「クロートー、戻って来てきてたのですね。ああ、良かった」
アルベルトが安堵の溜息とともに言った。
顔を上げると同時に、彼に抱き締められていた。
「え?」
一瞬、何が起きたかわからなかった。
状況を理解すると共に、頬が熱くなるのを感じる。
「あ……」
「失礼いたしました」
アルベルトのほうは、常と変わりなく涼しい顔ですぐに離れた。
まだ静まらぬ鼓動を感じながら、改めて彼との距離の近さを認識する。
せめてテーブルを挟んだ席にするべきだろうか、そんなことを考えている内に、アルベルトが再び口を開いた。
「本当に、君が戻って来てくれて良かった」
はい、と言いかけて口を噤んだ。
先ほどまではカナヲから身体の主導権を取り戻したい一心だったが、今度はどうしようもない心許なさを覚えた。
カナヲはクロートーの評判を向上させた。
しかし、クロートー本人は何一つとして成し遂げていない。
全ての賛辞は、カナヲへと向けられたものばかりだ。
多くの者を落胆させてしまうことを思うと、今から気が重くなる。
「本当に、私で良いのでしょうか」
「何?」
アルベルトが鋭く振り返った。
その声には、いつになく剣呑な響きがある。
「カナヲ……あの、先ほどまで私の中にいた人格の元の名前ですが、彼女のほうが私よりずっと、その……全てにおいて、上手く……何て言うか……」
自分の言いたいことさえまともに言語化することができない。
アルベルトは数拍の後、「クロートー」と呼んだ。
「私の妻はただ一人、クロートー=フォン=パルフェンだけです」
「わ、私は血統と容姿以外に何の取り柄もない女です。今までもずっとそう言われてきました」
「では、そのような無礼を口にする者は、ヴィクター家の血筋になれるというのか」
静かな、それでいて厳かな声だった。
その意味を理解しかねたクロートーは、戸惑いがちに視線を持ち上げた。
こちらをじっと見つめるアルベルトと目が合って、心臓が大きく跳ねた。
そういえば、クロートーとしてまともに彼の目を覗き込んだのはこれが初めてだ。
「血統も容姿も、紛れもなく君自身のものだ。そして、それらは知識や技能と違って、後天的には決して手に入らない」
その言葉に、はっとした。
血統も容姿も、自分で努力して手に入れたわけではない。
そのことにずっと劣等感を抱いていたが、逆に言えばそれらはどんなに努力を重ねても手に入れることができない。
ならば、自分の最大の強みともなり得るのではないか。
そう気付いた瞬間、目の前に広がる世界が鮮やかに色付いた気がした。
アルベルトが穏やかな笑みを零した。
この人は、こんな風に笑う人だったのかと思うと同時に、今まで彼のことを何も知らなかった自分に気付く。
アルベルトは視線を宙に彷徨わせると、何やら不明瞭な呟きを漏らした。
やがて、ぽつりと、独白のように「今まで申し訳ありません」でしたと口にする。
クロートーはぎょっとした。
「そんな、どうしてアルベルト様が謝罪など……」
彼はすぐには答えなかった。
暫く視線を泳がせて、数拍の後に小さく嘆息した。
「パルフェン家は、陛下を守る盾にして剣。先祖代々、皇帝陛下に仕えて来た武門の家柄です。私自身、剣を振るうことは性に合っているため、特に不満を感じたことはありません。……が、そんな気質故に、ご存知の通り面白みのない堅物で、今まで女性と個人的に親しくなったこともないのです。気の利かぬ男でして、君が侍女や他の貴族からどのような扱いを受けているか、長らく気付けずにいました」
彼の言葉には、悔恨と自責の念に満ちていた。
先ほど口にした通り、心の底から申し訳ないと思っていることが伝わって来る。
クロートーは何と言葉をかけて良いかわからず、ぽかんとした面持ちで彼の横顔を見つめる。
「あの、意外でした」
「意外、とは」
殆ど無意識の内に零れた言葉だった。
だから、追求されると口籠もってしまう。
「アルベルト様が、その、あまり女性と親しくなったことがないとか。それに……」
「それに?」
その後に続く言葉は、更に強い抵抗を伴うものだった。
顔を伏せたまま沈黙を保つが、それでも強い視線を感じてしまう。
自分に向けられた眼差しに負けて、クロートーは続く言葉を紡いだ。
「それに、その。アルベルト様が、私なんかを気に掛けてくださっていたことも」
アルベルトは決まり悪そうに呻き、一拍置いた後で咳払いをした。
「夫が妻を気に掛けるのは当然です。とは言え、それも含めて本当に申し訳ない。昔から感情を表に出すのが苦手な上に、妻である君に対してどう接して良いか、距離感を掴みかねていました」
彼は言葉を一度切ると、僅かに逡巡したものの、そのまま続けた。
「この数ヶ月間、君のご両親とも何度か文のやり取りを行いました」
それは完全に初耳だった。
クロートーは大きく目を見開き、夫の顔をまじまじと見つめる。
「クロートーがまだ幼い頃、宛がわれた部屋にいると異臭がすると訴えたそうですね」
「……はい」
頷くと同時に、そのまま目を伏せた。
やはり両親は、自分のことを気の触れた子だと話したのだろうか。
「数ヶ月前、ヴィクター侯爵邸にて暖炉の火の不始末による小火騒ぎが置きました。その際、壁の一部を取り壊すことになったのですが、驚いたことにそこから死体が見つかりました」
「……え?」
それはあまりにも突拍子のないことに思えて、我が耳を疑った。
アルベルトは淡々と続ける。
「そう、君が異臭を訴えた部屋です。死後十年以上は経過していて、当時行方不明になった使用人である可能性が高いとのことです。……ごく一部の、極めて敏感な感覚を持つ者は、他者が気付かないことにも気付くというのを聞いたことがあります。おそらく、君もそういった気質の持ち主なのでしょう。ヴィクター侯爵夫人も、文の中で後悔の念を綴っておられました。娘が幼かった頃、自分の無知故に他より劣る者と決め付け、ずっと娘の持って生まれた気質や性格を理解しようとしなかったと」
「……お母様が?」
驚くよりも、すぐには信じられなかった。
苛烈な気性を持ち、夫以上の敏腕でヴィクター家を切り回す母にとって、長女である自分はいつも頭痛と悩みの種だった。
アルベルトが嘘をついているとは思わないが、この件についてはまだどう受け止めるべきかわからない。
「……つまり」
暫くの間、思案するクロートーを見守っていたアルベルトだが、ややあってからそう切り出した。
「あの者、カナヲと言いましたか。彼女は確かに、多くの者の心を掴んだかもしれない。しかし、だからと言って他人の身体と人生を奪っても良いという理由にはならない。先ほども言った通り、それはクロートー自身のものなのだから」
「……はい」
「そして、君には君の……クロートーにしかない魅力や素養を、いくつも持っているではありませんか」
「私に……?」
正直、そう言われてもすぐには納得できなかった。
魅力や素養と聞いても、どういう部分を指すのか全く見当が付かない。
しかし、アルベルトは自分の言葉を確信しているようで、力強く頷いた。
「ヴィクター邸で、件の部屋がある棟の清掃を行った者の中には、具合を悪くした者も決して少なくない。死臭を感知できないまでも、身体に受ける悪影響からは逃れられなかったのでしょう。そして、誰かが君の言葉に真剣に声を傾けていれば、もっと早くに改善できていた筈だ」
「それは……」
クロートーは大いに困惑した。
しかし、口から零れそうになった否定の言葉を直前で呑み込んだ。
自分だけでなく、アルベルトのことまで否定してしまうことになる、そう感じた。
「それに、君は食べ方がとても綺麗だ。特に魚料理など、とても上手く身を取って食する。それに、侍女が片付けてくれるからと身に着けていたものを放置せず、丁寧に扱っているでしょう。ああ、それに物をとても大切にするというのもありますね。次から次へと新しいものを手に入れ、飽きたからと言って目下のものにばらまくような行為は品がないと常々思っていたのです」
「は……」
はい、言おうとしたが上手く言葉にできなかった。
アルベルトが言ったことは、いずれも確かに身に覚えのあることばかりだ。
心掛けている、というほどでもない、クロートーにとって自然と身に着いた、当たり前の習慣である。
変化が苦手なクロートーは、新しいものになかなか馴染めず、同じものを長く愛用する。
それに、使ったものをほったらかしにするのも苦手だ。
この性質について、今まで神経質だと否定的な評価を受けたことはあっても、彼のように言った人は初めてで、大いに戸惑ってしまう。
でも……。
クロートーは、ドレスの裾を強く握り締めていた。
今まで感じたことのない、温かな気持ちが胸を満たしていくのを感じる。
「私は、てっきり……アルベルト様にも、呆れられているものだとばかり……」
「どうして? 私は、君ほど面白い女性に会ったことがありませんが」
「お、面白いというのは……?」
意外な言葉に目を瞬かせていると、アルベルトはくすりと笑みを零した。
「まさかドレスのままで木登りをする女性がいるとは思わなかった」
「あ……」
思わず言葉を失った。
決まり悪さのあまり、相手の顔を直視することができず、視線を彷徨わせる。
ほんの一瞬の出来事、それもさほど明るくない場所でのことだから、まさか顔を覚えられていたとは思わなかった。
「あ、あの節は本当に失礼いたしました」
「いやぁ、本当に。あんな姿を見られていたと知った時は、苦悶しましたよ」
「え? あ……」
あんな姿、というのが何を意味するのかすぐには理解できなかった。
自分のしでかした粗相があまりにも衝撃的すぎて忘れていたが、あの時の彼は酷く気鬱な様子だった。
アルベルトは苦笑を浮かべる。
「先ほども言ったように、昔から賑やかな場所や人が得意ではないのです。社交の場など、今でも大嫌いです」
何の躊躇いもなくそう断言した。
それから、目を細めてクロートーを見つめる。
「カナヲのように元気な女性は、多くの者に好まれるでしょうが、私としては伴侶にするのは遠慮したい。……君といる時は、不思議と煩わしさを感じない。おそらく、我々は根本的な部分がよく似ているのです」
「私と、アルベルト様が……」
クロートーが小さく呟くと、その言葉を肯定するようにアルベルトが肩にそっと触れた。
その手の温かさも、ちゃんと伝わってくる。
改めて、この身体は自分のものなのだと実感する。
そう、パルフェン公爵夫人という立場も含めて。
「クロートー」
「は、いっ」
「……今後とも、よろしくお願いします。私は、これから先も君と共に在りたい」
クロートーの心臓が、一際大きな鼓動を打った。
小さく息を呑み、それから頷く。
「私もです。アルベルト様」
そう言って、彼の手に自分の手を重ねた。