二話
「神南の氷の淑女」こと黒崎玲奈が、実はアニソン好きの中二病で、かつ驚異的なポンコツであるという致命的な秘密を知ってから、一週間が過ぎた。
私の日常は、静かで平凡なものから「放課後限定のコント」へと様変わりしていた。
「……高橋くん、覚悟しなさい。今日の私は一味違うわ」
放課後、夕陽がオレンジ色に染める旧校舎の音楽室。
鍵をかけて二人きりになった瞬間、黒崎さんはいつもの「完璧なマドンナ」の佇まいを捨て去り、ドヤ顔で制服の胸を張った。
彼女の手には、怪しげな黒い水筒が握られている。
「この中に封印されているのは、私が昨夜、血の契約(徹夜)のもとに調合した『漆黒の聖杯』……! さあ、これを飲むがいいわ!」
「要するに、手作りの飲み物ってこと?」
「言い方を淡泊にするんじゃないわよ! 毒が入っていないか、あなたが毒見をしなさいと言っているの!」
相変わらずのツンデレと中二病が混ざった独特な言い回しだ。
彼女はカッコよく水筒のフタをシャキンと開け、私に差し出そうとした。
……が、まさにその瞬間。
「我が暗黒の恵みを――きゃああっ!?」
勢い余って自分の制服の袖口を水筒のフタに引っ掛け、豪快に手元を狂わせた。
溢れ出た褐色の液体が綺麗に放物線を描き、彼女のブレザーの胸元とスカートへ一直線にダイブした。
『ベチャッ!!!』
「「…………」」
静まり返る音楽室。
胸元をビショビショに濡らした黒崎さんは、手に持った空の水筒を見つめたまま、フリーズしていた。
「……あの、黒崎さん」
「……あ、甘い……冷たい……服がベタベタする……」
「『漆黒の聖杯』の正体、アイスココアだったんだな」
「笑わないでよバカぁぁぁ!!」
涙目になった彼女が、案の定ポカポカと私の腕を叩いてくる。
相変わらず猫パンチ以下の威力だ。
「たく、大人しくしてろよ」
私はため息をつきながら、自分のカバンからハンカチと、予備で持っていた部活用のスポーツタオルを取り出した。
「ほら、ブレザー脱いで拭きな。シャツまで染み込む前に」
「う、うぅ……私が『氷の魔導士』じゃなかったら、今頃凍死しているところよ……」
「ココアで凍死はしないだろ。ほら、前髪にもついてる」
私はタオルを彼女の頭にかぶせ、濡れた前髪と頬を優しく拭いてやった。
普段は誰も寄せ付けない「完璧な淑女」が、タオルを頭に乗せられたまま、小さくなって私を見上げている。
距離が、近い。
夕陽の光が彼女の濡れた瞳に反射して、綺麗に煌めいていた。
私が顔を拭く手を止めると、黒崎さんはハッと気づいたように頬を真っ赤にし、視線を泳がせた。
「……た、高橋くん」
「ん?」
「あの……優しくしてくれて、ありがとう……」
蚊の泣くような小声。
いつもの中二病な強がりはどこへ行ったのか、素の彼女が覗く。
(……こういうところ、本当にズルいよな)
冷めているはずの私の胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなるのを感じた。
「……別に。毒見の礼だよ」
「毒見できてないじゃない! 全部私がかぶったんだから!」
「あはは、確かに」
照れ隠しに怒る彼女の姿が可笑しくて、私は思わず口元を緩ませた。
制服をある程度拭き終えたあと、黒崎さんは気分転換とばかりにグランドピアノの椅子に腰掛けた。
「ふん、今日のところはハプニング(不覚)を許してあげるわ。お詫びに、私の『聖なる旋律』を聴かせてあげる」
彼女は真剣な表情になると、すっと背筋を伸ばした。
鍵盤に伸びる細く美しい指先。
静けさの中に響き渡ったのは、前回の激しいアニソンとは違う、どこか切なく流れるような美しい旋律だった。
(……やっぱり、めちゃくちゃ上手いな)
彼女のピアノには人を惹きつける力がある。
学校では「完璧なマドンナ」として常に他人の目を気にし、家では厳しい親の期待に応えるために努力していると、この一週間で少しだけ聞いた。
このピアノだけが、彼女が唯一「本当の自分」を解放できる場所なのだ。
曲が終盤に差し掛かったとき、私はふと鍵盤の端に手を伸ばし、彼女の旋律に合わせてシンプルな高音のコードを叩いた。
「え……?」
黒崎さんが驚いて私を見る。
「昔、妹の付き添いで少しだけ習ってたんだ。簡単な伴奏くらいなら弾ける」
「高橋くん……ピアノ弾けたの……?」
「まあ、黒崎さんみたいに上手くはないけどね。連弾、してみる?」
私が微笑むと、黒崎さんは目を丸くしたあと、どこか嬉しそうに照れくさそうに微笑んだ。
「……ふふん、私の『暗黒の旋律』について来られるかしら?」
二人で並んで座る、ピアノの丸椅子。
少し狭くて、肩と肩が触れ合う距離。
そこからは、二人だけの秘密のセッションだった。
彼女が奏でる力強く愛おしい主旋律に、私が寄り添うように音を重ねていく。言葉なんて交わさなくても、音が重なるたびに、お互いの心が少しずつ近づいていくのが分かった。
曲のラスト、二人の手が同時に最後の鍵盤を押し込む。
美しい余韻が、放課後の音楽室に溶けていった。
「……すごかったわ、高橋くん。私以外の音と混ざるの、すごく楽しかった」
黒崎さんは鍵盤を見つめたまま、心底嬉しそうに呟いた。
学校での仮面でも、中二病の強がりでもない。ただの等身大の「黒崎玲奈」の笑顔だった。
「そりゃよかった。また合奏しよう」
「うん……! 絶対よ、約束なんだから!」
感動的な余韻の中、彼女は勢いよく立ち上がり――
『おふっ!?』
案の定、自分の長すぎるスカートの裾を踏んづけ、豪快に私の膝の上へとダイブしてきた。
「ぶふっ!?」
「きゃああっ!? ご、ごめんなさい! 私ったらまた感動の雰囲気を台無しに――」
私の膝の上で、顔を真っ赤にして慌てふためく黒崎さん。
胸元からは、ほんのりと甘いココアの匂いがしていた。
「……黒崎さん」
「な、なに……!?」
「やっぱり君、最高におちゃめだな」
「おちゃめって言うなー!!」
夕焼けに包まれた音楽室に、二人の笑い声がいつまでも響いていた。




