一話
私立神南高校2年・高橋 蓮は、どこにでもいる平凡で影の薄い男子生徒だ。
特別目立つ運動神経もなければ、華やかな交友関係もない。教室の隅で静かに本を読み、大きな問題も起こさずに一日を終える。そんな「その他大勢」の高校生活を、私はそれなりに気に入っていた。
一方、同じクラスの黒崎 玲奈は、私とは住む世界が違う存在だった。
透き通るような肌に、艶やかな黒髪ロング。全国模試でも常に上位をキープする頭脳を持ち、誰に対しても丁寧で柔らかな笑みを絶やさない。周囲からは「学園の完璧な淑女」と称され、男子生徒たちの憧れの視線を一身に集めていた。
接点など、一生あるはずもなかった。
あの日、雨が降り頻る放課後の特別校舎で、偶然「ある事故」が起きるまでは。
雨の音だけが廊下に響く放課後。忘れ物を取りに旧校舎へ戻った私は、誰もいないはずの音楽室から流れてくる激しいピアノの音色に足を止めた。
鍵盤を叩く圧倒的な技術と繊細なタッチ。だが、その旋律はどう聞いてもクラシックではなく、とある人気アニメの疾走感あふれる主題歌だった。
不思議に思い、少し開いていたドアの隙間からそっと中を覗き込んだ私は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、いつも上品に佇んでいるはずの黒崎玲奈だった。
彼女は学校のブレザーを乱雑に脱ぎ捨て、ブラウスの袖を腕まくりしていた。そして、あろうことか頭には巨大な黒猫の耳カチューシャを装着し、右目には漆黒の眼帯を装着した姿で、グランドピアノを狂おしいほどの情熱で弾き倒していたのだ。
「……くっ! 静まれ私の右手……! 今ここで『聖なる旋律』を解き放てば、この校舎の封印が解けてしまう……!」
曲を弾き終えた彼女は、鍵盤の上に突っ伏すようにして、カッコいい(と本人は思っている)ポーズで一人呟いていた。
(……見ちゃいけないものを見てしまった)
私は冷や汗を流しながら、音を立てないように静かに後ずさりした。しかし運悪く、雨で濡れていた廊下の床に足をとられ、派手に体勢を崩してしまう。
『ガシャーン!!!』
掃除用具入れの金属バケツを巻き込んで転倒する大きな音が、静まり返った廊下に激しく響き渡った。
次の瞬間、音楽室のドアが勢いよく開く。
「だ、誰だっ! 闇の監視者か……ッ!?」
猫耳カチューシャと眼帯をつけた黒崎さんが、鋭い表情で躍り出てきた。だが、地面に倒れ込んでいるのがクラスの地味な男子・高橋蓮だと気づくと、その動きがピタリと止まった。
「あ、高橋……くん?」
「……どうも。高橋です」
「な、なぜここに……というか、どこから見られていたの!?」
「『聖なる旋律を解き放てば』の決めポーズのあたりからフルコンボで」
「見てたあああああ!!」
完璧なマドンナの仮面が、音を立てて砕け散った。
彼女の顔は、一瞬で茹で上がったカニのように真っ赤に染まる。
「ち、違うの! これは違うの! 私はただ、日頃のストレス発散にピアノを……ううん、そうじゃなくて! これは魔界の呪いが私に語りかけてきて――」
パニックに陥った彼女は逃げ出そうと踵を返したが、焦りのあまり自分の制服のスカートの裾を力強く踏みつけてしまった。
『おふっ!?』
一切の無駄がない完璧な美しいフォームで宙を舞い、そのまま音楽室の床へスライディング。勢い余って教卓の脚に頭をぶつけ、上に重ねてあった楽譜の山がハラハラと彼女の頭上に舞い散った。
「……痛い……頭から楽譜が……私、消滅するの……?」
「消滅しないよ。ただの紙だから」
頭に『ねこふんじゃった』の楽譜を乗せた学園のマドンナが、ポロポロと涙目になりながら教卓の下から這い出てくる。
そう、彼女の「秘密」はあまりにも強烈だった。
完璧な淑女の裏の顔は、「重度のアニソン好き中二病」。そして、カッコつけようとするたびに物理法則と運命に裏切られる「超弩級のおちゃめなポンコツ」だったのだ。
「……高橋くん」
放課後、人目のない階段の踊り場。
顔を真っ赤にした黒崎さんが、涙目で私の前を遮っていた。小さな肩が、恥ずかしさと不安でプルプルと震えている。
「お願い……今日のことは、誰にも言わないで……! 完璧なマドンナのイメージが壊れたら、私、恥ずかしすぎて転校するしかないの……!」
必死に頭を下げる彼女。普段の威厳や凛とした雰囲気は微塵もない。
「言わないよ。別に他人の趣味をと言い触らすような趣味はないし」
「ほ、ほんとう……?」
顔を上げた彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。私は少し気恥ずかしくなりながらも、素直な感想を口にした。
「それに……すごくピアノ上手かったよ。アニメの曲だけど、正直カッコいいと思った」
本気でそう思って伝えると、黒崎さんは目を見開き、一瞬ぽかんと呆然とした。
やがて私の言葉の意味を理解したのか、彼女の顔がみるみるうちに耳の先まで真っ赤になっていく。
「……高橋くんって、普通に話すとすごく優しいのね」
「え? そうか?」
「う……うるさいわね! とにかく、秘密を守ってもらうための『口封じ』よ! 明日からの放課後は私と一緒にいなさい! 監視してあげるわ!」
ツンとすました台詞を吐きながらも、指先は照れくさそうに制服の裾を強く握りしめていた。
それ以来、放課後になると私たちは二人きりで誰もいない音楽室や旧校舎に集まるようになった。
黒崎さんは相変わらず、カッコいいポーズでアニソンを弾いては鍵盤に指を挟んで「ふぎゃっ!?」と情けない悲鳴を上げたり、自作のお弁当(中身はプロ級の絶品スイーツ)を持ってきてはドジを踏んで教卓の下に突っ込んだりしている。
学校では決して見せない、ポンコツで、素直で、誰よりも愛らしいおちゃめな素顔。
「高橋くん、あーんしなさい! 毒が入ってないか確認よ!」
「自分で食べられるって……」
「いいから! 闇の契り(あーん)を拒否する気!?」
真っ赤な顔でイチゴタルトを差し出してくる彼女。
学園のマドンナと平凡な男子高校生――本来なら交わるはずのなかった二人の、二人だけの秘密の放課後。
「……君といると、退屈しないよ」
「な、何言ってるのよバカ……!」
冷めていて、でもどこか愛おしくてクスッと笑える時間が、今日も静かに流れていく。
……直後、開いていた窓から風に乗って飛び込んできた大きな「どんぐり」が、黒崎さんの猫耳カチューシャの上に綺麗に着地した。
「……ふっ」
「だから笑うなー!!」




