配信57回目 最後の一本
今日は、死ぬことが、少しだけ怖い話です。
戻れる前提が消えると、人は足元から静かに崩れます。
そして、最後の一本がなくなります。
朝、目が覚めた瞬間から、喉の奥に白い何かが引っかかっていた。
痛いわけじゃない。苦しいわけでもない。ただ、昨日の続きをまだ身体のどこかが覚えているようで、薄くて冷たい違和感だけが芯に残っている。
枕元のスマホを開く。
通知はない。珍しくるな、幽々からもレインが来ていない。なのに、画面を見た指先だけが少し止まった。
メモアプリには、もう何も残っていなかった。
昨日見たはずの一文、**あそこ、少しだけ落ち着いた**は、きれいに消えている。消えているのに、その意味だけが妙に胸の奥へ沈んでいて、私は思わず顔をしかめた。
「……なんで消えてるの」
独り言を零して、布団から起き上がる。頭の奥がじわっと重い。昨日、落ちて、打って、死んで、現世に戻された。その全部が夢じゃなかったと、寝起きの身体がいちいち思い出させてくる。
学校へ着くと、るながすぐに顔を上げた。
「ゆらちゃ〜ん……顔しろいよぉ〜……」
「自覚ある。今日の私はだいぶ終わってるやつ」
「それ、だいじょうぶじゃないやつぅ……」
鞄を机へ置くと、幽々《ゆゆ》が静かに私を見た。
「……昨日から、ちょっと静かだね」
「私が?」
「うん。無理してる時って、もう少しうるさいから」
「分析が地味に的確……」
笑って流したかったのに、自分の声が少しだけ遅れて聞こえた気がした。
廊下の向こうが、白く見える。
窓の光じゃない。校舎の床でもない。番号札が並ぶ、静かすぎる通路。死後側で見た、あの白い場所が、一瞬だけ学校の廊下へ重なっていた。
「……えっ」
瞬きをすると、もう消えている。
朝の教室。ざわつく声。机を引く音。ここは、何もおかしくない。なのに、胸の奥だけがまだ冷たい。
授業中、ノートの端へ落とした視線で、私は固まった。
さっきまで板書を書いていたはずの余白に、細い字が一行だけ残っている。
**帰りたい**
「……は?」
慌てて指で擦る。鉛筆の跡が潰れて、文字は消える。けれど、書いた覚えのないその一言だけが、妙に自分に馴染んでいて気持ち悪かった。
帰りたい?
――どこへ?
家か。昨日より前か。
それとも、もっと別のどこか――。
その時、前の席の椅子がキーっと鳴って、私は現実へ引き戻された。るなが振り返って、不安そうに首をかしげる。考え事をしている最中に、授業が終わったようだ。
「ゆらちゃん、ほんとにへいきぃ……?」
「平気じゃないけど、死ぬほどじゃ――」
言いかけたところで、幽々が小さく言った。
「今日は、その言い方やめたほうがいい」
軽口で返せなくて、私は黙った。
―――――
放課後、夜見よろず相談事務所へ入ると、朔夜は昨日の怖い顔で端末を睨んでいた。
机の上には、古い図面、現場写真、蒐集商会の仮保全タグ、開きっぱなしのデータ。空気まで徹夜しているみたいに重い。
「とりあえずさ、昨日の請求、聞きたくない」
鞄も下ろさず言うと、朔夜は視線を上げないまま返した。
「言ってないだけで借金は増えてるぞ」
「最悪」
「――知ってる」
その返事の直後、部屋の温度がわずかに落ちた。
扉は開いていない。足音もない。
それでも、そこにいるのが分かる。
窓際に、鬼灯なゆが立っていた。白い帳面、薄いコート、感情を置き忘れたみたいに静かな顔。死後側では何度も見ているのに、現実の事務所に立っているだけで圧が違う。
「……来る時はノックとかしない?普通」
「必要ですか」
「人間の世界には必要だよ」
なゆは答えず、帳面を開いた。
私の名前のページ。
その白さの少なさに、喉が詰まりそうになる。余白が、ほとんどない。しかも昨日の記録の横に、細く削れたみたいな白い痕が一本だけ走っていた。
「なに、それ」
なゆの指先が、その痕を静かになぞる。
「あなたの猶予です」
「昨日の?」
「はい」
「……増えたんじゃなくて、削れてるように見えるんだけど」
「削りましたので」
言い方が軽すぎたので、意味を理解するのに時間を要した。
「誰のを」
なゆは私を見た。責めるでもなく、庇うでもなく、ただ事実だけを手渡す目だった。
「私の、書けた余白です」
息が止まる。
「今までの猶予は、帳尻の外側から引いていました。ですが今回は、それでは足りませんでした」
「ちょっと待って」
「もう、待てません」
なゆは帳面を閉じた。
「これが最後の一本です」
しん、と部屋が静まる。
胸元で、ぬいが小さく身を縮めた。
「次は、私も止められません」
「……次、って何」
「あなたがまた、向こうへ近づくことです」
「近づきたくて近づいてるわけじゃないんだけど!?」
「そういう段階の話ではなくなっています」
淡々とした声だった。
怒るより先に、寒気のほうが勝つ。
朔夜は何も口を挟まなかった。ごまかしもしない。それが、今日は何より怖かった。
「……じゃあ、私、次死んだら本当に終わるの?」
自分でも驚くくらい真っ直ぐな声が出た。
なゆはほんの少しだけ間を置いて、頷く。
「......はい」
その一言で、背骨の内側が冷たくなった。
死ぬのが怖いんじゃない。今までずっと、最悪でも戻れる前提があった。その前提が、今ここで音もなく消えたことが怖かった。
―――――
その夜は、早めに帰された。帰されたというより、このまま事務所に置いておくのが危ないと判断された感じで、そのやさしさなのかよくわからない行動に、余計に腹が立った。
駅のホームは人が少なく、蛍光灯だけがやけに白い。
風が吹く。アナウンスが流れる。どこにでもある帰宅時間の風景。
なのに次の瞬間、その全部が少しだけ剥がれた。
白線の向こうが、白い通路に見える。
番号札を持った誰かが、静かに順番を待っているような気配。駅のアナウンスは、行き先じゃなくて、呼び出し番号みたいに耳へ届いた。
――あっちのほうが静かだ。
その感覚が、自分の中から湧いたことにぞっとする。誰かに引っ張られたわけじゃない。ただ、自分で一歩、前へ出たくなった。
「影森!」
朔夜の声と同時に、肩へジクっとする鋭い痛みが走った。
「いっ!?」
ぬいが本気で噛みついている。ぬいぐるみの布の口でありえない勢いで食らいつきながら、胸元で喚いた。
「行くな、阿呆が!」
ほぼ同時に、足首へ冷たい圧が絡む。
「”位相固定”」
朔夜の低い声。
床へ縫い止められたように足が止まる。けれど身体だけじゃない。意識のほうがまだ前を向いていて、自分の意志と反した。白い通路の奥へ、静かなほうへ。
紙をめくる音がした。
「影森ゆら」
なゆの声だった。
ホームの端に、いつの間にか立っている。帳面を開いたまま、一行だけ線を引く。
その瞬間、視界の白がまとめて剥がれ落ちた。
現実の駅。黄色い点字ブロック。広告。遠くの咳払い。電車の接近音。うるさいくらい普通の音が、一気に戻ってくる。
膝が抜けた。
その場にしゃがみ込み、荒く息を吸う。
「は、っ……なに、今……」
「これで、本当に最後です」
なゆの声だけが、ひどく静かだった。
帳面の余白は、もうなかった。
―――――
事務所へ戻ったあと、なゆは立ったまま言った。
「本来なら、何度も帳面を閉じていたはずです」
責める口調じゃない。慰める口調でもない。ただ、事実だけが並ぶ。
「私は数える側です。止める側ではありません」
「……でも、止めた」
「はい」
なゆは私を見た。
「今回だけです」
言葉が重いというより、重くなる余地がもう残っていない感じがした。
「私は去りません」
その一言だけが、少し意外だった。
「ただ、もう同じ形では助けられません」
帳面を閉じる音が、やけに薄く響く。
なゆが消えたあともしばらく、私はソファに座ったまま動けなかった。肩にはぬいの噛み跡がじんじん残っている。
「……ねえ」
「なんだ」
「私、次、死んだら終わるの?」
朔夜はしばらく黙った。
その沈黙が、今日は何より答えだった。
「……そうなる」
「じゃあ、もう行かない」
「行かない、で済めばいいがな」
「何それ」
朔夜はようやくこちらを見る。
「今までは案件だった」
「は?案件?」
「ここから先は、そうじゃない」
胸の奥が冷たくなる。
「向こうが、お前を選び始めてる」
その言い方だけで十分だった。
私はもう、たまたま巻き込まれる側じゃない。何かが向こうから、私を見ている。呼んでいる。しかもその声は、だんだん私自身の気持ちみたいに自身に馴染み始めている。
――――
事務所からの帰り道、スマホは一度も鳴らなかった。
なのに家へ着いて画面を開いた瞬間、私は息を止める。
レインの下書き欄に、短い一文だけが残っていた。
**帰りたい**
今度は消せた。
消せたはずなのに、削除を押す指が止まってしまった。
何も考えたくなくて、ベッドへ倒れ込み、目を閉じる。
その直前、天井の木目が一瞬だけ、白い通路の番号札みたいに見えた。
帳面の紙をめくる音が、耳の奥で小さく鳴る。
ぱら...
ぱら...
私は布団を頭まで引き上げた。
それで何が防げるわけでもないと分かっているのに、そうするしかなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
配信57回目は、56話の余波そのものが怪異になる回でした。新しい派手な案件ではなく、「戻れないかもしれない」「しかも自分の内側が少しずつ向こうへ傾く」という怖さを中心にしています。
今回のポイントは三つです。
一つ目は、ゆらの中に「帰りたい」が自分の気持ちみたいに入り始めたこと。
二つ目は、なゆが自分の余白を削ってまで最後の一本を通したこと。
三つ目は、朔夜がもう“案件処理の一部”としてゆらを使い続けられない段階に入ったことです。
今回の登場人物メモです。
・影森ゆら
今回は死んでいません。ですが、そのぶん「次は戻れない」が真正面から刺さりました。もう死ねないのが恐怖です。
・鬼灯なゆ
記帳官。最後の一本を自分の側から削って通し、「次は止められない」を明言しました。
・夜見朔夜
いつも通り説明不足ですが、今までと同じ距離感ではいられなくなっています。
・ぬい
今回は珍しく、本気でゆらを止める側に回りました。噛みつき方はだいぶ雑ですが。
次は、今回の「最後の一本」と「帰りたい」の続きが、もっとはっきり形になる回です。
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