配信48回目 旅館の裏の間取り【後編】 ――泊まれなかった部屋が、まだ客を待っている
後編です。
温泉旅館で死んだ私は、死後もだいたい勤務扱いでした。
しかも今回は、泊まれなかった人たちが残る場所に落ちます。
最初に戻ってきたのは、湯気のにおいだった。
ひのきみたいな、湿った畳みたいな、古い旅館の朝を閉じ込めたような匂い。なのに、息を吸うほど喉が冷える。
「……最悪」
目を開けた私は、長い廊下の真ん中に立っていた。
赤い絨毯。壁の木枠。障子風の照明。遠くで、食器が触れ合うみたいな乾いたカチャカチャ音。修学旅行の夜に見たはずの旅館、そのままの空気だ。
でも、何かがおかしい。
客室札が、二〇一、二〇一、二〇三、空室、準備中――みたいに、順番も意味も壊れてしまっている。窓の向こうは真っ暗で、廊下の角を曲がっても、また似たような廊下が続いていた。
しかも、どこにも人の気配がないのに、笑い声だけが、遠くからする。
修学旅行生が騒いでいるような、楽しそうな声だけが。
「死んだあとくらい、普通の廊下にしてくんないかなぁ?」
言ってみるけど、返事はない。
代わりに、館内放送みたいなノイズが遠くで鳴った。
『本日のご宿泊は――』
そこで、ぶつりと切れる。
私は唇を引き結んだ。
ここは旅館の中じゃない。旅館に似た、別のどこかだ。
すぐそばで、聞き覚えのある静かな声がした。
「また死んだの?」
振り向くと、薄い光の中に玻璃がいた。相変わらず、こっちが死んでる時だけ会うと安心するのか不安になるのか分からない顔をしている。
「聞き方ひどくない?」
「今回は、部屋じゃなくて宿に落ちちゃったんだね」
「宿?」
玻璃は、長い廊下の先を見たまま言った。
「ここは、泊まれなかったものが残る場所」
「なにそれ、怖」
「来たのに泊まれなかった。案内されたのに、部屋に着けなかった。名前はあるのに、宿泊が成立しなかった。そういうの、場所に残ることがあるよ」
「いや、説明をさらっと済ませるな」
「だいじょうぶ。今回も、たぶん迎えは来る」
「その“たぶん”が信用できないんだって!」
言い返す前に、玻璃の輪郭はふっと薄れ、そのまま消えた。
「待って! もうちょい! せめて帰り道だけ!」
空間がしん、と静まり返る。
私はひとりになって、廊下を進んだ。
襖を開ける。
誰もいない座卓。冷えたままの湯飲み。人数分あるはずなのに一本足りない歯ブラシ。浴衣の帯だけが畳まれて置かれている部屋。障子の向こうに見えるのは庭じゃなく、別の廊下。
どの部屋も、途中までしかない。
来た。案内された。風呂へ行った。夕食の時間になった。
そこまではある。
そこから先だけが、きれいに抜けていた。
「……これ、幽霊とかいるんじゃない」
自分の声が、妙に小さく響いた。
「泊まる予定の存在だけ残ってるんだ」
その時、廊下の突き当たりにあった古い姿見に、白い扉が映った。
現実にはない。鏡の中だけにある、白い扉。丸いノブ。白っぽい、小さなシールみたいな跡。
「うわ、出た」
るなが見たって言ってたやつと、よく似ている。
嫌な汗が出る。死んでるのに。
鏡を避けるように進むと、帳場みたいな場所へ出た。古いフロント。鍵箱。宿帳。帳面の上には、水に濡れた紙のにおいがこびりついている。あまりいい気分ではない。
私は宿帳を開いた。
学校名。人数。到着時刻。部屋割り。
記入はされている。案内済みの印もある。
でも、その先がない。
帰館も、就寝も、退出も、何もない。
来た記録だけがあって、泊まった記録がない。
「……ほんとに、そこだけ抜けてる」
ページの間から、白い札が一枚、はらりと落ちた。
旅館の備品じゃない。紙質が違う。妙に新しくて、事務的で、清潔すぎる。
そこに書いてあった文字を見て、私は息を呑んだ。
仮保全
接触履歴あり
要再査定
「は?」
心臓が、嫌なふうに冷える。
「なんでここに、これがあんの……」
旅館の怪異の中に、別の誰かの札が混ざっている。
その時、鏡の中にだけ、ベージュのスーツの袖が映った。
細い指先。名札のついた胸元。営業用の、やわらかい声。
『接触履歴、確認済みです』
「っ……!」
背筋がぞわりと粟立つ。
『仮保全中につき、損耗は軽度推奨――』
「やめて」
振り返った時には、もう何もいなかった。
鏡の中の白い扉だけが、少しだけ開いている。
その向こうから、知らない団体客の笑い声がした。楽しそうな、修学旅行みたいな声だった。
でも、足元の廊下は沈み始めていた。
帳場の床が、湯に溶けるみたいに揺らぐ。客室札がかたかた鳴る。館内放送が、今度は低く歪んだ。
『本日のご宿泊は――未成立――未成立――』
「やばっ」
私は白い札を握りそうになって、寸前で止めた。
触るな。そういうやつだ。
代わりに宿帳を抱え込んだ、その瞬間だった。
―――
現実側では、救護用に空けられた部屋の前で、夜宵るなが半泣きになっていた。
「ゆらちゃん、ゆらちゃん、起きてよぉ……」
教師たちは、浴場で転倒した生徒の事故として動いている。保健の先生が慌ただしく行き来し、旅館の従業員が青い顔で頭を下げていた。
その騒ぎの端で、白澤幽々だけが、別のものを見ていた。
浴場の案内図。
廊下の角度。
鏡の曇り方。
床の勾配。
それらが、さっき一瞬だけ、合っていなかった。
幽々はポケットから、小さな符を取り出した。
朔夜に渡されていた、薄い紙片だった。
『案内図と実際の構造がズレたら使え』
『影森は突っ込む。るなは拾う。お前が連絡役だ』
あの時の声を思い出しながら、幽々は小さく呟く。
「……ほんとに、こういう時だけ当たる」
指先は少し震えていた。でも、ためらわずに符を折る。
白い熱が走る。
その少し離れた場所で、車を降りた朔夜が顔を上げた。
旅館の外観を見た瞬間、目つきだけが変わる。
「……やっぱりやりやがった」
符の気配を取って、低く吐き捨てる。
「……先に拾いに来てやがる」
―――
ゆらの胸元が、熱を持つ。
あ、幽々の符だ、と分かった。
次の瞬間、脳内に低い声が響いた。
『影森。名簿を閉じろ』
「朔夜!」
泣きそうなくせに、声が少し怒っていた。
「遅いんだよ!」
『死んでから文句を言うな。白い札は触るな。帰路だけ見ろ』
「毎回説明が足りない!」
でも、その声が聞こえた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。
現実側と繋がったのが分かる。
廊下全体が軋む中、朔夜の術式が旅館の構造へ食い込んでくる気配がした。
『表の間取りに噛ませる。余計な部屋を見るな』
「誰がいたの、これ!」
『営業だ』
「は!?」
『一番会いたくない類のな』
鏡の中の白い扉が、ゆっくり開く。見えないはずの向こうから、浴衣姿の影が何人もこちらを向いていた。顔がない。部屋に入れなかった客たちだ、と直感で分かる。
私は反射的に宿帳を閉じた。
ばん、と音が鳴る。
同時に、朔夜の声が鋭く落ちた。
『”境界切断”』
『”媒体遮断”』
『”位相固定”』
旅館の空間が、映像の早戻しみたいに閉じ始めた。
廊下が縮む。客室札が剥がれる。湯気が引く。笑い声が止まる。帳場の向こうに並んでいた影が、宿帳の中へ吸い込まれるみたいに薄れていく。
鏡の中の白い扉だけが、最後まで抵抗するみたいに残った。
「閉じろ……!」
私が叫んだのか、朔夜が言ったのか分からない。
ノブがひとりでに回り、扉がゆっくり閉まる。
その隙間から、あの営業女の声だけが滑り込んだ。
『またご縁がありましたら』
「二度とあるか!」
言い返した瞬間、視界が白く弾けた。
―――
次に気づいた時、私は救護用の布団の上で咳き込んでいた。
「げほっ……!」
喉が痛い。頭も痛い。生き返った後の、最悪の全部盛りだ。
「ゆらちゃん……!」
るなが、泣いた顔で抱きついてくる。温かい。生きてる側の体温だ。
「重……いや、ごめん、軽い、軽いから泣くなって……」
「ゆらちゃん、しんじゃったかと思ったぁ……!」
「思うな。縁起でもないから」
その少し後ろで、幽々が静かに座っていた。顔色は悪いけど、目だけはちゃんと起きている。
戸口のあたりで、朔夜が言った。
「……使ったんだな」
幽々は白くなった符を見下ろしたまま、小さく返す。
「あなたが使えって言った」
朔夜は少しだけ黙った。
それから、手の中の白い札を見た。
仮保全。接触履歴あり。要再査定。
私は上体を起こしながら聞く。
「……蒐集だね」
朔夜は札を指先で折り、低く答えた。
「人が死んだあとに値段をつける連中だ」
「なにそれ、相変わらず、最悪」
「今回は、旅館の怪異そのものより、お前のほうを見てた」
その言い方が、妙に腹の底に沈んだ。
修学旅行の夜くらい、普通に終わってほしかった。
温泉入って、騒いで、ちょっと寝不足で帰るだけの、そういう夜でよかったはずなのに。
なのに向こう側は、もう、こっちの予定なんか待ってくれない。
布団の脇の鏡が、わずかに曇っていた。
その表面に、丸いノブみたいな水滴の跡がひとつだけ残っているのを見て、私は目を逸らした。
■今回の登場人物
・影森ゆら
修学旅行で温泉旅館に来たのに、裏の間取りへ落ちた主人公。死後もだいたい勤務中。
・夜見朔夜
相変わらず説明不足だが、今回は旅館の外から構造そのものを切りに来た。
・夜宵るな
見えていないのに、一番泣いていた親友。こういう子を巻き込むから怪異は腹が立つ。
・白澤幽々
保険符を使って、現実側からゆらへ道を繋いだ連絡役。静かに一番仕事をした。
・玻璃
死後側の案内役。今回も説明は最低限だったが、要点だけは外さない。
■今回の話の解説
後編では、旅館怪異の正体を「来たのに泊まれなかった」「宿泊記録だけが成立しなかった」残留として描きました。
また、怪異そのものとは別に、ゆらの死後接触へ別組織の“札”が刺さっていたことで、第二章後半へ向けた不穏さを一段強めています。
本来なら楽しいで終わるだけのはずの、修学旅行の夜すら普通に終わらないのが、この作品のひどいところです。




