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影森ゆらは今日も死ぬ ――死後も無理やり働かされます  作者: 勇者ヨシ君
第一章 死んでからが勤務時間――蘇生費は給料から引かれます(初春)

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配信23回目 「お前が配信しろ」【前編】

今日は所長がいません。

なのに案件は止まりません。

置き手紙が雑な時ほど、ろくなことがない。

 夜見よみよろず相談事務所のドアを開けた瞬間、私はまず、いつもの“ウザさ”がないことに気づいた。


 煙草のいや~~なにおい。

 安いコーヒー。

 配信機材の青い待機ランプ。

 壁に立てかけられた胡散臭い札。

 そういう雑多なものはちゃんとあるのに、いちばん邪魔な男だけがいない。


「……は?」


 思わず間抜けな声が出た。


 机の上に、メモが一枚。

 その横に、五百円玉みたいな薄い銀色の札が置いてあった。

 それは、硬貨のような丸みを帯びていて、表面には細かい傷状の呪文がびっしり刻まれている。

 どう見ても、見るからにロクでもない。


 私はメモをひっつかんだ。


 ――字が、ひどかった。

 ひどいという言葉では表現しきれない。ミミズが階段から落ちたあとに、そのままインクに頭から突っ込んで転げ回ったみたいな字だ。


 でも、読めるところは読める。


 ――お前が行け

 ――というか撮れ 配信しろ

 ――机のやつもってけ

 ――一回だけ

 ――死ぬなとは言わん

 ――俺が――


「いや最後なんだよ!」


 最後の一行だけ、紙の上で線が潰れていた。

 “俺が”の続きは、文字というより、紙を引っ掻いた跡に近い。そこだけインクが濃く滲んでいて、紙も少し破れかけている。


 雑、というより、急ぎすぎて止まれなかった字だった。


()()()()()……」


 そう呟いた瞬間、足元で()()が耳をぴくっと揺らした。


「汚い日ほど、ろくでもないのう」


縁起(えんぎ)でもないこと言うなって」


 私は机の上の銀の札をつまみ上げる。ひんやりしているくせに、しばらく触っていると指先が脈打つみたいに熱くなる。


「何これ」


胡散臭(うさんくさ)い」


「見たまんま」


 ぬいが尻尾を揺らしながら鼻をひくつかせた。


銭原ぜにはらの匂いがする」


「最悪じゃん」


 その時、事務所の奥から、静かすぎる声が降ってきた。


「その認識は、(おおむ)ね正しいです」


「うわっ!」


 飛び上がって振り向く。


 白縫しらぬいめいがいた。


 いつの間にそこにいたの。ほんとにやめてほしい。心臓に悪い。いやこの職場そのものが心臓に悪いんだけど。


 相変わらず、白っぽい無表情で、整いすぎた顔をしている。人間のはずなのに、人間の温度が薄い。

 ――人間、だよね?


 そんなことを考えながら

「なんでいるの」と私が言うと


「夜見朔夜を探しに来ました」冥がいう。


「こっちが聞きたいよ。朔夜(アイツ)、いないんだけど」


「ええ。分かっています」


「分かってんのかい!」


挿絵(By みてみん)


 冥は私の手元の札をしげしげと見る。


「それは《戻りもどりせん》ですね」


「知ってるんだ……」


銭原呪助ぜにはら じゅすけ製の簡易帰還具です。一度だけ、戻ることはできます」


「生き返れるってこと?」


「そこまでは言っていません」


「じゃあ何で“戻り銭”なんだよ!」


「.....銭原ですから」


 納得したくないのに、銭原ですから、で納得してしまうのが腹立つ。


 私はもう一度メモを見る。


 お前が行け。

 というか撮れ。配信しろ。


「……どうせどっかで見てんでしょ、あいつ」


 口に出したら、少しだけ本当にそう思えた。


 たぶんこの壁の向こう。

 たぶん別のカメラの先。

 たぶん私がキレるの待ってる。


「見てたら出てこいっつーの……」


 でも返事はない。


 その代わり、スマホが震えた。真琴まことからだ。


『来た? 朔夜さんから連絡だけ来た。“(配信)立てとけ”って』


「はぁ!?」


『しかも案件も来てる。廃病院の肝試し失踪。若い子のグループが帰ってこないって。警察に行く前の、微妙にやばい相談ルート』


 私はメモを見て、スマホを見て、冥を見る。


「……これ、最初からそのつもりだった?」


「でしょうね」


「うざい」


 思わず机を叩いた。


「なんで人を使いっぱしりみたいに……いや実際バイトなんだけど! せめてちゃんと説明しろよ!」


『――で、配信どうする?』


「やるしかないでしょ、こんなん!」


『了解。タイトルは?』


「知らない!」


 でもすぐに、私は机のメモを見て、ため息をついた。


「もうこれでいいや……『配信23回目。お前が配信しろ』」


『最悪のタイトルきた』


「黙れ!」


―――――


 廃病院は、私が住んでいる中京大都市の外れにある小さな私立病院だった。


 今は閉鎖されて十年以上。

 フェンスは破られ、駐車場には雑草が膝くらいまで伸びている。外壁は灰色にくすみ、割れた窓の奥は夕方なのに妙に暗かった。


 救急搬入口の古い看板だけが、まだ白く浮いている。


 そこで私は、カメラを自分に向けた。


「はいどうも、ブラックバイト女子高生です。本日の案件は、廃病院です。所長はいません。代わりに雑な置き手紙だけ置いて失踪しました。許しません」


 配信画面に、コメントが流れ始める。


《きた》

《ゆらちゃん単独回!?》

《所長どこ》

《手紙の字きたなすぎて草》

《あいつイケメンだし腹立つ》

《ゆらちゃんラブ》

《今日ビジュいい》

《隣の美人誰?怖すぎ》

《戻り銭って名前からして怪しい》

《パラノーマル・アクティビティみたいな場所来たな》

《いやREC寄りだろこれ》


「映画みたいって言ってるやつ、だいたい安全圏から見てるだろ」


 カメラの向こうで真琴が音声だけで笑う。


『コメントは元気だねえ』


他人事(ひとごと)だと思ってるからでしょ」


 病院の正面玄関前で、冥が立ち止まった。視線は暗い窓のさらに奥を見ている。


「……二つあります」


「何が」


「夜見の痕跡です」


 胸の奥が、嫌な感じに縮んだ。


「近いのと、深いの。片方は、こちら側に寄せてある」


「説明が抽象的すぎるんだけど」


「説明している時間がありません」


 冥は病院の左棟を見た。


「私はあちらを見ます」


「は!? 一緒じゃないの!?」


「ずっと一緒にいると、貴方が余計な善意を出します」


「何その言い方!」


 冥は私の抗議を無視して続ける。


「白衣を見ても、近づかないでください。名前を呼ばれても返事をしないでください。怪我をしたらすぐに離脱してください」


「離脱できる状況ならとっくにしてる!」


「それと」


 冥は珍しく、少しだけ真面目に私を見た。


「夜見を見つけても、すぐ近づかないでください」


「……は?」


「見つけたそれが、本当に夜見なら別ですが」


「なにそれ怖っ!」


《冥さんその言い方やめて》

《一番いやな忠告》

《説明してから行けw》

《白衣NGって何》

《病院で白衣NGは詰み》

《ゆらちゃん終わったくない?》

《冥さん一緒にいて案件》


「私もそう思う!」


 でも冥は、そのまま左棟のほうへ消えた。


「ほんとに行った……」


『ゆら、大丈夫?』


「大丈夫じゃない。ぜんっぜん大丈夫じゃない」


 そう言ったところで、玄関のガラスの向こうに、明るい声が響いた。


「うわ、マジで配信してるやついるじゃん」


 中から出てきたのは、大学生くらいの若いグループだった。男二人、女二人。スマホ、ハンディカメラ、コンビニ袋。いかにも“ちょっとノリで来ました”って感じの軽さが全身から出ている。


 その中の金髪に近い茶髪の男が、私を見て笑った。


「え、女子高生? なに、コラボ?」


「違います」


「配信者?」


「まあ一応……」


「うわ、ガチじゃん。てかこんな時間に一人で?」


「一人じゃないし、そういう問題じゃなくて」


 私は反射的に病院の中を見た。

 空気が、変だった。風がないのにビニールカーテンが揺れていて、暗い廊下の奥から、きい、と車輪みたいな音がした。


「……ここ、早く出たほうがいい」


 私がそう言うと、若者たちは顔を見合わせて笑った。


「は?」


「いや、冗談じゃなくて。もうダメだから。ここ、いるから」


「いるって何が?」


「説明しづらいけど、とにかく」


「じゃあ女子高生のお前はなんでここにいられるんだよ」


 その一言で、喉が詰まった。


 説明できない。


 私は“平気”だからここにいるわけじゃない。

 来たくて来てるわけでもない。

 逃げられるなら逃げたいし、帰れるなら今すぐ帰りたい。


 でも、そう言ったところで、この手のバカはたぶん聞かない。


「……平気じゃないし」


「じゃあ帰ればよくね?」


「帰れるなら帰ってるっつーの!」


 思わず怒鳴ると、女の子のほうが少しだけ引いた顔をした。けどもう一人の男が笑いながらスマホを向けてくる。


「やば、キレてる」


「キレるよ!」


《いや女子高生のお前はなんでいるんだよは正論》

《説得力なくて草》

《でもその兄ちゃんら死にそう》

《フラグ立てるな》

《戻れって言ってるやつはだいたい正しい》

《TikTok勢っぽい》

《ゆらちゃん負けるな》

《病院ナメるやつから死ぬ》


 私は舌打ちした。


 本当に最悪だ。


 でも、このまま背を向けたら、たぶんこいつらは死ぬ。

 それを分かっていて、一人で外に出るのは、もっと最悪だ。


「……ああもう」


 私はカメラを持ち直した。


「ついてく。だからせめて、勝手に散らばらないで」


「え、マジで一緒来るの?」


「言っとくけど、面白半分ならやめたほうがいいから」


「はいはい」


 はいはいじゃないんだよ。


―――――


 病院の中は、古い消毒液のにおいが薄く残っていた。


 床はところどころ剥がれ、案内板は黄ばんでいる。受付カウンターの向こうにはカルテ棚が並んでいて、中身はほとんど空なのに、なぜか一段だけ紙束が残っていた。風もないのに、その紙の端だけがぺら、ぺら、とめくれている。


 若者グループの撮影係らしい男が、ハンディカメラを回しながら笑った。


「雰囲気えぐ」


「なにこれマジで映画じゃん」


「ね、パラノーマル・アクティビティの病院回みたい」


「いやRECじゃない?」


《うわ病院はダメだって》

《映画ネタ言ってる場合か》

《でも分かる》

《ナースコール鳴ったら終わり》

《白衣出たら即逃げろ》

《雰囲気は最高》

《最高じゃねえよ》


「コメント欄もだいぶ他人事だな」


 私がぼやいた、その時だった。


 ぴんぽーん。


 どこかで、ナースコールの音が鳴った。


 全員が止まる。


 今の、聞き間違いじゃない。


「……鳴った?」


 女の子の一人が、小さく言う。


 ぴんぽーん。

 ぴんぽーん。


 今度ははっきりと、右手の病棟奥からだ。


「行ってみる?」


 茶髪の男が、まだ少し面白がった声で言った。


「やめて」


 即答した。

 本当にやめてほしかった。


「いや、でもさ」


「やめてってば。呼ばれてる感じするし、こういうの絶対よくないから」


「呼ばれてる感じって何」


「分かんないけど分かるの!」


「いや怖……」


 そのくせ、若者たちは結局そっちへ歩き出す。


「待って!」


 私は追いかけるしかなかった。


 右病棟の奥は、入った瞬間に空気が変わった。

 寒いとかじゃない。むしろ空気は重くてぬるいのに、皮膚の内側だけが冷えていく感じだ。


 病室番号のプレート。

 半分開いたカーテン。

 倒れた点滴台。

 床に落ちた注射器のキャップ。


 そして、開け放しの病室の向こうに、人影が立っていた。


「……いた」


 撮影係の男が、嬉しそうな声を出す。


 病院の入院着みたいな薄い服。

 髪はぼさぼさで、俯いている。

 細い。若い。大学生くらい。たぶん、先に肝試しに来て帰ってこなかったグループの一人だ。


「おい、大丈夫すか?」


 茶髪の男が一歩近づく。


「やめて!」


 叫ぶのと、そいつが顔を上げるのが同時だった。


 目が、変だった。


 焦点が合っていない。

 なのに、見ている。

 生きてる人間の目じゃなくて、診察台の上の物を見るみたいな、温度のない目だった。


《近づくな》

《いや違う》

《その目だめ》

《なにこれ、マジモン!?》

《パラノーマル・アクティビティみたいじゃん》

《いやRECの憑かれ方だろこれ》

《目が死んでる》

《助かったやつじゃない》


 その“生存者”が、口を開いた。


「……動かないでください」


 声は若い男のものなのに、言い方だけが妙に古くて、低かった。


「まだ、開いています」


「は?」


 次の瞬間、その男が異常な速さで前へ出た。


「うわっ!?」


 茶髪の男の胸ぐらを掴み、そのまま病室のベッドへ叩きつける。マットレスがばしんと鳴った。女の子が悲鳴を上げる。


「おい、やめろって!」


「固定が必要です」


 無表情のまま、憑かれた男はベッド脇のベルトを引っぱり上げた。

 茶髪の男の手首に巻きつける。ありえない力で締める。皮膚がきしむ音がして、男が本気の声で叫んだ。


「痛っ、いってえ! やめろ、やめろって!」


「処置途中です」


「ふざけんな!」


 撮影係の男が止めに入った、その瞬間。


 病室の奥にあった点滴台が、誰も触ってないのに倒れた。


 がしゃん、と派手な音。

 女の子たちが振り向いた、その一瞬の隙に、憑かれた男が茶髪の男の頭をベッドの手すりへ叩きつけた。


 鈍い音がした。


 本当に嫌な音だった。

 肉より先に、骨に響く音。


 茶髪の男の顔が、変な角度に沈む。

 鼻血じゃ済まない量の血が、白いシーツの上にだっと広がった。


「……え」


 誰かが、そう漏らした。


 でもそれが誰の声か分からない。


 私は半歩遅れて、ようやく現実に追いついた。


「ほら言ったでしょ!!」


 喉が裂けるみたいな声が出た。


「だから出ろって言ったのに! 走って! もうスマホとかカメラとかいいから走って!!」


 空気が変わる。


 さっきまで笑っていた若者たちの顔から、冗談が全部消えた。


 女の子の一人が泣きながら後ずさる。


「や、やだ、なにこれ、なにこれ!」


「走れって!!」


 私が腕を引いた、その時。


 病室の外、廊下の奥から、きい、とまた車輪の音がした。


 ゆっくり。

 規則正しく。

 何かを運んでくるみたいな音。


 それが一つじゃないと気づいて、全身の毛が逆立った。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 きい。

 きい。

 きい。


 ストレッチャーか、ベッドか、車椅子か。

 とにかく“運ぶもの”の音だけが、暗い廊下の奥から近づいてくる。


《逃げろ》

《走れ走れ走れ》

《荷物捨てろ》

《やばいやばいやばい》

《先生来る》

《“処置途中”って言ったぞ今》

《白衣いる》

《後ろ見んな》

《朔夜どこだよ》


 私は女の子の腕を引いて廊下へ飛び出した。


 その瞬間、撮影係の男が悲鳴を上げる。


 振り向く。


 そいつの足首を、床に落ちていたはずの点滴ホースが何本も絡みついていた。

 いや、ホースだけじゃない。ベッドの脇から伸びた拘束帯みたいな白い帯まで、蛇みたいにうねって足に巻きついている。


「うそだろ、うそだろおい!」


「足抜いて! 靴脱いで!」


「抜けねえって!」


 その横で、さっきまで泣いていた女の子の片方が、急にぴたりと泣き止んだ。


 顔を上げる。


 目が、同じだった。


 焦点の合わない、冷たい目。

 口だけが、かすかに笑う。


「次の患者を」


「……っ」


 その子が、廊下に落ちていた金属トレイを拾った。

 そして何のためらいもなく、足を取られた撮影係の男の顔面へ振り下ろした。


 がん、と、また嫌な音がした。


「やめろおおっ!!」


 私が叫ぶ。

 でも叫んだところで止まらない。


 金属トレイ。

 二回。

 三回。


 顔の形が壊れ始めて、血が壁に飛んだ。

 女の子の制服の袖が赤く染まる。なのに本人は、まるで点滴の速度でも調整してるみたいな無感情な顔で、トレイを振り下ろし続ける。


《やば》

《無理》

《止めろって》

《これ配信止めろ》

《最高じゃねえよ》

《ゆらちゃん逃げて》

《もう助からん》

《マジで病院回痛い》


「走れ!!」


 私は残った女の子の背中を押した。


 泣き声。

 足音。

 鉄の車輪の音。

 どこかでまた鳴るナースコール。


 病院全体が、急に“起きた”感じがした。


 廊下の向こう、曲がり角の先に、白衣の裾だけが一瞬見えた。


「……っ!」


 冥の忠告が頭をよぎる。


 白衣を見ても、近づかないでください。


 だけど遅かった。


 隣の女の子が、その白衣の影を見てしまった。


「せ、先生……?」


 返事をした。


 その瞬間だった。


 女の子の首が、ぎく、と不自然に止まる。

 次に振り向いた顔は、もう半分別人だった。


「大丈夫です」


 大丈夫じゃない声で、そいつが言う。


「すぐ終わります」


「やめ――」


 言い終わる前に、女の子の手が私の首を掴んだ。


 人間の女の力じゃない。

 指が喉にめり込む。呼吸が止まる。視界が揺れる。私は必死で爪を立てるけど、相手は微笑んだままだ。


「固定します」


 もう片方の手で、壁際の車椅子を引き寄せる。

 ごん、と背中をぶつけられ、そのまま腕をねじられた。肩が嫌な音を立てる。痛い。痛い痛い痛い。


 ぬいが飛びついて噛みつく。

 女の子の腕に食らいつくけど、一瞬で振り払われて壁に叩きつけられた。


「ぬい!!」


《だめ》

《逃げて》

《朔夜来いよ》

《冥さんどこ》

《固定が必要ですってコメント混ざってない?》

《まだ終わっていません》

《動かないでください》

《処置を続けます》


 コメント欄の最後の何行かが、私の背筋を凍らせた。


 誰かが混ざってる。


 視聴者じゃないものが、向こうからこっちを見てる。


 女の子の手が、私の頭を車椅子の金属フレームへ押し付ける。

 ぐら、と視界が傾く。


 そこへ、もう一人。


 さっき憑かれた生存者の男が、血まみれのメスを持って近づいてきた。


挿絵(By みてみん)


「開きます」


「やめろ」


「戻します」


「やめろって!!」


 喉を絞められながら叫んだ瞬間、メスが脇腹に入った。


 熱い、より先に、理解不能な感触が走る。

 刃物で切られるってこういう感じなのかと、どうでもいいことだけ妙に鮮明に分かった。


 声にならない息が漏れる。

 手が震える。

 視界の端で、血が自分の制服を濃く染めていくのが見えた。


 もう一回。


 今度は浅くじゃない。

 なぞるみたいに開かれて、体の中身が外気に触れた感じがした。


 痛い。

 痛すぎて逆に静かになる。


 耳の奥で、きい、きい、と車輪の音が近づく。

 白衣の影が、ようやく私の正面まで来る。


 顔は見えない。

 でも分かる。


 あれが、たぶん本体だ。


「……ほんとに、いないの……?」


 朔夜に向けたつもりの声は、血と一緒に喉の奥へ落ちた。


 誰も答えない。


 代わりに、白衣の影の向こうから、低い男の声がした。


「まだ終わっていません」


 そこで、首の横に、硬いものが振り下ろされた。


 たぶん金属。

 たぶん器具。

 何かは分からない。


 でも一撃で、世界がひっくり返るみたいに暗くなった。


 スマホが床へ落ちる。

 血で濡れた画面の向こうで、コメントだけがまだ流れている。


《え》

《ゆらちゃん》

《止まって》

《これ特撮だよな!?》

《まだ映ってる》

《朔夜どこだよ》

《処置終了》


 最後に見えたのは、自分の血で赤く滲んだ配信画面だった。


 その瞬間、私はたぶん、ちゃんと死んだ。


つづく

ここまで読んでくださってありがとうございます。


今回は、朔夜さくや不在の書き置きから始まる、廃病院案件の前編でした。

最初はただの肝試しノリだった若者たちが、本物の怪異に触れた瞬間に空気ごとひっくり返る感じを意識しています。

そして今回も、ゆらはちゃんと最悪な死に方をしました。


■今回の登場人物


影森かげもりゆら

 死にたくないのに、結局いちばん危ない場所まで行ってしまう女子高生。今回は「早く逃げろ」と正しいことを言っていたのに、誰にも信じてもらえなかった不憫枠。


夜見よみ朔夜さくや

 顔はいいが性格と雇用環境は終わっている怪異相談屋。今回は不在のまま書き置きだけ残したが、その字の汚さにはちゃんと理由がある……かもしれない。


白縫しらぬいめい

 静かな看守役。今回はゆらと別行動を取りつつ、別棟で朔夜と病院側の異常を追っている立場。いるだけで空気が冷える人。


・ぬい

 相変わらず口は悪いが、今回はちゃんと「やばい」と分かっていた側。小さいのに、こういう時だけ妙に勘がいい。


・肝試しグループの若者たち

 軽いノリで来たせいで、本物に正面から踏み込んでしまった人たち。ホラーではこういう「まだ大丈夫だと思ってる時間」がいちばん危ないです。


■今回の話のポイント


今回の怪異は、ただの病院霊ではなく、

“まだ治療が終わっていない”と思い込んでいる側の恐怖を下敷きにしています。


だからこそ、幽霊そのものが飛んでくるより、

憑依された生身の人間に押さえつけられたり、処置みたいな名目で壊されるほうが、嫌で痛くて怖い。

前編ではそこを強めに出しました。


後編では、


・病院に残った真相

・朔夜が何をしていたのか

・《戻りもどりせん》の正体

・そして、ちゃんと請求されるゆら


あたりが見えてきます。


次回もたぶん、ゆらはろくな目に遭いません。

よろしくお願いします。

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異世界最強の節約勇者
異世界ゲームバー転生おじさん(42)
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