配信19回目 地下街で信号が消える【後編】 ――貸しにしておきます
壁の向こうの旧通路は、今の地下街とはルールが違った。
案内表示は全部嘘で、正しい道は匂いで探すしかない。
あと、やっぱり死んだ。
壁を抜けた瞬間、空気が変わった。
温度ではない。匂いだ。コンクリートと空調の匂いが消えて、湿った石と古い塗料の匂いが来た。呼吸するたびに、鼻の奥にざらつきが残る。空気そのものが古い。何十年も入れ替えられていない空気を、肺に入れている感覚。
足元を見る。タイルが違う。今の地下街の均一なグレーではなく、少し黄色がかった、角の欠けたタイル。昭和の公共施設を思い出す色。足裏に伝わる感触も違う。今の地下街よりざらざらしていて、目地が広い。
通路は続いている。天井が今の地下街より低い。手を伸ばせば届きそうな距離。照明は裸電球。等間隔にぶら下がっていて、そのうちの半分以上は切れている。点いているものも、明るいというより「暗さの中に色がある」くらいの光量。オレンジ色の弱い光が、壁のタイルに丸く映っている。
壁には案内表示がある。
矢印。文字。出口の方向。トイレの方向。階段の方向。全部、きちんとしたデザインで、見やすいフォントで、色もはっきりしている。
だが、全部嘘だ。
「朔夜、聞こえる?」
『聞こえる。映像も来てる。画質は落ちてるが見える。案内表示が残ってるな』
「残ってるけど、これ今の地下街の案内表示じゃない。フォントが違う。色も違う。昔の案内がそのまま生きてる」
『昔の案内が正しい出口を指しているなら使えるが——』
「使えない。昔の出口は今は壁で塞がれてるから。この案内に従ったら行き止まりになるか、もっと奥に行くかのどっちかだよ」
『だろうな。案内表示は無視しろ。ぬいの鼻を使え』
ぬいが肩の上で鼻をひくつかせている。灰白色の毛が、裸電球の光でぼんやり光る。
「右が旧メイン通路。左は旧設備通路。人の匂いが右から来とる」
「じゃあ右」
「ただし、右のほうが匂いが濃いぞ。怪異の匂いもや」
「人がいるほうに怪異もいるってこと」
「当然じゃ。人のいるところに集まるのが怪異の性質ばい」
「ぬい、語尾がたまに九州になるの何」
「銭原のうつりじゃ。あの男と話すと移る」
「伝染るんだ」
「口調は伝染る。おぬしも朔夜の口の悪さが移っとるぞ」
「否定できない」
右へ進む。裸電球の光が途切れるたびに、数メートルの闇を歩く。スマホのライトを点けるが、光の範囲は狭い。壁と床が照らされて、天井は暗いまま。自分の足音が壁に反射して二重に聞こえる。いや——三重?
「ぬい、足音が多い」
「わかっとる。こっちのは生きとる足音やない。旧通路の記憶じゃ。昔ここを歩いた人間の靴音が残っとる」
「それ怖いんだけど」
「怖いが、危険ではない。攻撃はしてこん。ただの残響じゃ」
「ただの残響が一番怖いんだよ! 何もしてこない怪異が一番怖いんだよ!」
「うるさいのう。怖がるか黙るかどっちかにせい」
「両方やるから怖がりなんだろ!」
背後から、別の足音が聞こえた。
軽い。規則的。なゆの足音——いや、なゆの足音は普段しない。この足音は、わざと鳴らしている。
振り返ると、なゆが通路の少し後ろを歩いていた。白いコートが暗い通路の中でぼんやり浮かんで見える。
「ついてきたの!?」
「壁の外では業務確認ができませんので」
「外で待ってなさいって言ったよね!?」
「言われていません。言われたのは"邪魔しないで"です。邪魔はしていません」
「屁理屈の精度が高い!」
『鬼灯。出ろ』
通話越しの朔夜の声が低い。怒っている。
「夜見さん。私が中にいたほうが、影森さんの生存率は上がります」
『根拠は』
「私、こういう場所は詳しいので。何度も歩いていますから」
『何度も帳面を持って歩いた場所で、生存率が上がると言われても説得力がない』
「帳面を持って歩いたからこそ、どこで人が死ぬかを知っています。死ぬ場所を避ければ、生存率は上がります」
論理的だ。論理的だが、前提が不穏すぎる。「どこで人が死ぬかを知っている」から安全ガイドができる。死の帳簿管理者ならではの経験値。嬉しくない。
朔夜が通話越しに沈黙した。数秒。
『……影森。鬼灯の言うことは半分だけ聞け。全部は信じるな』
「半分ってどの半分」
『方向の指示だけ聞け。感情に関わることは無視しろ』
「感情って何の」
『いいから行け』
なゆが私の横に並んだ。距離は近くも遠くもなく、手を伸ばせば届くくらい。
「影森さん、この先で通路が分岐します。右に五十メートルほど行くと下り傾斜があって、その先で空間が広くなるはずです」
「なんでわかるの」
「再開発で沈んだ空間には共通するかたちがあります。旧メイン通路は必ず中央広場に繋がっていて、広場から枝状に通路が伸びています。昔の地下街は、今のように一直線ではなく、放射状に作られていました」
「……詳しいね」
「何度も歩いていますので」
「その"何度も"、全部仕事?」
「全部仕事です」
「仕事以外で地下に来たことは?」
「ありません。地下は、生きている人のための場所ですから」
言い方が少しだけ寂しかった。気のせいかもしれない。
――――――
なゆの言う通り、通路は分岐し、右に進むと下り傾斜があった。天井がさらに低くなる。壁のタイルが途切れて、むき出しのコンクリートに変わった。裸電球も切れているものが増えて、ほぼ暗闇に近い区間がある。
下る。下る。傾斜は緩やかだが、確実に深くなっている。
空気がさらに重くなった。匂いが変わっている。石と水の匂い。地下水が近い。壁に水滴が浮いている。指で触ると、冷たい。
「なんか、地下街っていうより洞窟っぽくなってきた」
「旧通路の深い部分は、昔の地下水路と接しています。この街は川が多いので、地下にも水の道があるんです」
「鬼灯さん、この街の地下に詳しすぎない?」
「帳簿管理に必要な知識です。人が死にやすい場所は、水と境界が近い場所です」
「また不穏な知識」
ぬいが「止まれ」と言った。
足を止める。
目の前に——空間が広がった。
地下広場。
旧通路の交差点だったらしい場所。天井が少しだけ高くなり、四方向に通路が伸びている。中央に、古いベンチが二つ。壁には色褪せた広告ポスターの跡。剥がれかけた紙の断片。タイル壁の一部が崩れて、その奥にコンクリートの地肌が見えている。
かつてここに人が集まっていた。待ち合わせをしたり、買い物帰りに座ったり、地図を見たりしていた。その気配が、何十年も経った今もうっすら残っている。残響ではなく、もっと弱い、痕跡のような。
広場の隅に、人がいた。
作業着姿の男。五十代くらい。清掃用具を抱えたまま、壁にもたれて座っている。目は開いているが、焦点が合っていない。三日間、ここにいる。
「大丈夫ですか!」
駆け寄る。男の手を握る。冷たい。でも脈はある。生きている。
「……出口が……」
「え?」
「案内表示の通りに……歩いたのに……出口に着かない……。何回歩いても……同じ場所に……」
「大丈夫。迎えに来ました。出られますから」
「案内が……嘘を……」
案内表示に従って歩き続けた結果、旧通路の奥に引き込まれた。出口だと思った方向は全部行き止まりか、同じ広場に戻ってくる。三日間、ここで座り込んでいた。水は壁の水滴を舐めて凌いだらしい。食料はない。
男を立ち上がらせる。体力は消耗しているが、支えれば歩ける。
「おぬし、この男、だいぶ境界に引っ張られとるぞ」
「引っ張られてるって?」
「三日もおったから、半分こっち側に馴染みかけとる。早く出さんと、この男も旧通路の住人になりかねん」
「急ごう」
ぬいが鼻をひくつかせる。
「帰り道は……来た道を戻るのがいちばん確実じゃが」
「でも来た道、けっこう長かったよ。この人連れて上り坂を戻れる?」
「もたもたしとると、あれが来るぞ」
「あれ?」
ぬいが耳を立てた。広場の四方の通路を順番に見回す。
「案内表示。こっちに来とる」
広場の東側の通路の奥——暗闇の中に、光が見えた。
案内表示の光だ。
矢印。出口→。
さっきまで消えていたはずの案内表示が、通路の壁に浮かび上がっている。白い光。蛍光灯の色。見やすい。わかりやすい。
そして、矢印がこちらを向いている。
「……来た」
「あれが本体じゃ。旧通路そのものの記憶が怪異化したもんや。"ここは地下街である"という記憶が、"正しい案内表示"を再生しようとしとる。ただし、あれの"正しい"は昔の地下街のもんじゃ。あの矢印に従ったら——」
「永遠に古い通路を歩き続ける」
「そうじゃ」
案内表示が一つ、二つ、三つと増えていく。通路の壁を埋めるように。出口→。出口→。出口→。全部同じ方向を指している。広場の奥へ。もっと深くへ。
「逃げるぞ。来た道を戻る」
男を支えて走り出す。広場の西側の通路——来た道。上り傾斜。
なゆが後ろについている。白いコートが暗い通路の中で揺れる。
走る。男が重い。足がもつれる。傾斜がきつい。裸電球が明滅する。
背後で、案内表示の光が追いかけてくる。
壁に次々と表示が浮かび上がる。出口→。でも矢印の方向は、私たちが走っている方向とは逆。戻れ、と言っている。奥へ来い、と言っている。
「見るな! 案内を見るな!」
ぬいが叫ぶ。
「あれを見たら従いたくなる! 光に引かれるのが人間の性質じゃ! 目を逸らせ!」
「見てない! 見てないけど光が視界に入る!」
「なら目を閉じて走れ!」
「目を閉じて走ったらぶつかるだろ!」
「ぶつかるか死ぬかの二択じゃ!」
「どっちも嫌!」
案内表示の光がさらに明るくなった。白い光。蛍光灯の光。見慣れた光。安心する光。暗い地下通路の中で、あの光だけがまともに見える。
——あの光の方向に行けば、出口がある。
そう思ってしまった。一瞬だけ。でもその一瞬で、足が止まった。
「影森!」
ぬいの声が聞こえる。朔夜の声が通話越しに聞こえる。なゆの声が——
「|見るな!」
なゆが叫んだ。
丁寧語ではなかった。短く、鋭く、命令形。
でも遅い。
私の目が案内表示を見てしまった。矢印の先。出口→。その文字の奥に、光の通路が見える。明るくて、広くて、人の気配がする。出口だ。あそこに行けば出られる。行かなきゃ。行かなきゃ——
足が動いた。案内の方向へ。奥へ。
ぬいが「だめじゃ!」と叫んで私の耳に噛みついた。痛い。でも止まらない。
清掃員の男も、案内表示を見てしまっている。男の体が私の手から離れ、ふらふらと矢印の方向へ歩き出す。
「おじさん、だめ! そっちじゃない!」
手を伸ばす。男の腕を掴む。引き戻す。でも男のほうが重い。
案内表示の光が目の前まで来た。
通路の壁一面が白い光に包まれている。蛍光灯。案内板。矢印。出口。全部が正しく見える。全部が嘘。
なゆが私と男の間に割って入った。白い手をかざす。手のひらから——光ではないが、光のようなものが漏れた。男の目が閉じる。意識が案内表示から切り離される。男がぐったりと崩れる。なゆが片手で男を支えた。
「影森さん、目を閉じて!」
「閉じ——」
間に合わなかった。
案内表示の光が、私の目から入ってきて、頭の中に直接流れ込んだ。地図。通路。矢印。方向。全部が書き換えられる。どっちが上でどっちが下か。どっちが出口でどっちが奥か。全部が逆転する。
足が動く。勝手に。案内の方向へ。奥へ。
「影森さん!」
なゆの声が遠い。
通路の奥から、冷たい手が伸びてきた。白い手。細い指。壁から伸びる腕。旧通路の——記憶の中に残っていた、最後の住人の手。
首に巻きついた。
「っ——」
冷たい。息ができない。
ぬいが噛みついている。爪を立てている。でも軽すぎる。振り払われる。
「あ……」
朔夜の声が聞こえる。通話越し。遠い。
『影森! 映像が——切れ——』
最後に見えたのは、なゆの顔だった。
笑っていなかった。
初めて見る表情。穏やかでも事務的でもない。ただ——手を伸ばそうとしていた。
視界が暗くなった。
――――――
真っ暗。
音がない。匂いもない。温度もない。
あ、死んだな、と思った。
慣れてきている自分が嫌だ。何回目だっけ。帳面に正の字が増える。また一本。
暗闇の中で、白い手帳が見えた。
誰かが持っている。白い指。きれいな手。
なゆだ。
私のそばに立っている。立っている、というか、この暗闇の中に一緒にいる。生死の境目のような、どこでもない場所。
「影森さん」
声は穏やかだった。でもいつもの笑顔はなかった。
「……死んだ?」
「はい」
「何回目?」
なゆが手帳を開いた。正の字を数える。
「八回目です」
「増えたなぁ」
「増えましたね」
なゆがペンを出した。細い銀色のペン。正の字を一本、書き足そうとする。
——止まった。
ペン先が紙の上で止まっている。
「書かないの?」
「……」
「書かないと、帳簿が合わないんじゃないの」
なゆが私を見た。薄い琥珀色の瞳。暗闇の中でかすかに光っている。
「影森さん」
「うん」
「今回は——貸しにしておきます」
「え?」
「帳簿には記録しますが、清算対象には含めません。猶予枠の特別処理です」
「そんなのできるの?」
「私の裁量範囲内です。ただし、一度だけ。次はありません」
「なんで」
なゆは少し考えた。この人が考える時間を取るのは珍しい。いつもは即答するか、答えないかのどちらかだ。
「……あの通路の中で、あなたは清掃員の方を庇いました。自分が逃げれば助かったのに、男の人を引き戻そうとして、逃げ遅れた」
「それ、私がバカだっただけじゃん」
「はい。帳簿上は、非合理的な行動による死亡です」
「ひどい分類」
「ですが」
なゆが手帳を閉じた。
「非合理的な行動で死ぬ人は、帳簿管理をしていると、ごくまれにいます。自分が逃げれば助かるのに、誰かのために残って死ぬ人。帳簿上は"処理しづらい案件"です」
「処理しづらい」
「はい。なぜなら、その死は本人の選択だから。奪われたのではなく、使ったんです。命を。誰かのために」
「大げさだよ。そんなかっこいいもんじゃない」
「かっこよくはないです。帳簿的にも非効率です。でも」
なゆが微笑んだ。今までとは少し違う笑顔。事務的ではない。もっと——柔らかい。
「だから、貸しにしておきます」
「……ありがとう。なのかな」
「ありがとう、で大丈夫ですよ」
「じゃあ、ありがとう」
「どういたしまして。——では、戻してもらってください」
「え?」
「蘇生は夜見さんの仕事です。私の管轄ではありません」
「管轄が分かれてるんだ」
「分業です」
「お役所仕事だね」
「帳簿管理は常にお役所仕事です」
暗闇が少しだけ明るくなった。遠くから、光が差してくる。
朔夜の蘇生だ。
――――――
「がっ……!」
空気が肺に流れ込む。痛い。冷たい。全部戻ってくる。体の重さ、首の痛み、床のタイルの感触。
咳き込む。
「げほっ、げほっ……」
「応急蘇生。緊急対応料金」
朔夜の声。低い。怒っている。いつもの「赤字だ」とは違うトーン。本気で怒っている。
「映像が切れた」
「……ごめん」
「ごめんで済むか。あと十秒遅れてたら間に合わなかった」
「でも、おじさんは……」
「鬼灯が外に出した。お前が死んだ後、鬼灯があの男を抱えて壁まで走った。俺が"境界切断"で壁を開けた。男は出た。お前は——中に残ってた」
「なゆ……鬼灯さんが、おじさんを?」
「ああ。そのあと壁を開け直して、お前の体を引きずり出した。蘇生は俺がかけた」
つまり、なゆが清掃員を救出して、なゆが私の体を回収して、朔夜が蘇生した。
なゆがいなかったら、男も私もあの通路の中に残っていた。
「…………」
「何か言え」
「……鬼灯さんに、お礼言わなきゃ」
「お礼」
「だって助けてもらった」
朔夜の顔が——嫉妬ではなく、もっと複雑な何かを浮かべた。怒り。安堵。苛立ち。それと、たぶん、ほんの少しだけの悔しさ。自分が中にいれば助けられた、という。
「……蘇生費は通常の倍だ」
「倍!?」
「緊急対応料金だ。壁を二回開けた分も含む」
「私が死んだの私のせいじゃないんだけど!」
「案内表示を見たのはお前だ」
「見るなって言われても光ってたら見るでしょ!」
「見るなと言われて見る人間は、教育コストの高い労働者だ」
「教育コストで命を語るな!」
ぬいが私の胸元から這い出してきた。潰されかけていたらしい。毛がぺしゃんこになっている。
「おぬし、今回も死んだのう」
「うん」
「学習せんのう」
「学習しても避けられない死がある」
「それを言い訳と呼ぶのじゃ」
「言い訳じゃないよ。物理的に無理だったの」
「まあ、生きとるからよい。あと、わしの毛並みを戻す方法を考えてくれ。潰れた」
「自分でなんとかして」
――――――
旧通路の怪異は、朔夜が外から"霊路閉鎖"で通路の接続を断ち、"再帰封止"で案内表示の再生を止めた。完全消滅ではない。根っこは残っている。だが、案内表示が現行通路に浸食するのは止められた。
「根本的に潰すには、旧通路の記憶ごと焼く必要がある。"記録焼却"クラスだ」
「今は無理なの?」
「金が足りない。管理会社の予算では一時封止が限界。完全焼却は別案件として再依頼してもらう」
「つまり、またこの案件に来る可能性がある」
「ある。地下は深いからな」
清掃員の男は槙野に引き渡した。三日ぶりの地上。朝日が差している。男は「報酬は入りますか」と管理会社の担当者に聞いていた。担当者は「入ります」と答えた。この人は報酬がもらえる。闇バイトの子はもらえなかったのに。世の中は理不尽だが、今回は少しだけまともな理不尽だ。
槙野が男を車に乗せながら、私を見た。
「影森。怪我は」
「死にました」
「…………」
「蘇生されたので大丈夫です」
「その報告の仕方をやめろ。俺の胃が持たない」
「すみません」
槙野は本当に胃が痛そうだった。この人を巻き込んで申し訳ない気持ちがある。でも他に報告の仕方がわからない。
――――――
朝方。地下街の出口。空が白み始めている。
なゆがまだいた。
出口の横の自販機の前に立っている。白い髪が朝の光を拾って、薄い藤色に見える。コートに汚れひとつない。旧通路の中を走って、男を抱えて壁まで運んで、私の体を引きずり出して——それでこの清潔さ。人間じゃないことがよくわかる。
私はなゆの前に立った。
「ありがとう。おじさんを助けてくれて」
「業務の延長です」
「私の体を運んでくれたのも?」
「帳簿に記載した対象の遺体を放置するわけにはいきませんので」
「遺体って言わないで。蘇生されたし」
「失礼しました。一時的に停止していた肉体、です」
「それも嫌な言い方だよ」
なゆが少しだけ笑った。いつもの事務的な笑顔ではない。もう少しだけ——人間寄りの笑い方。
「……さっき、中で、"貸しにしておきます"って言ったよね」
「言いました」
「あれ、大丈夫なの? 帳簿上」
「大丈夫ではありません。私の裁量を少し超えています。上に報告すれば問題になります」
「じゃあなんで」
「…………」
「なんで貸しにしてくれたの」
なゆが自販機のボタンを押した。温かいお茶が出てきた。それを私に渡す。
「のどが渇いているでしょう。蘇生直後は脱水しやすいですから」
「質問をお茶で流さないで」
「流していません。優先順位の問題です。まず水分、次に説明」
「じゃあ説明して」
「…………非合理的な死に方をする人を、帳面に書くのが嫌だったんです」
「嫌」
「はい。嫌、です。業務用語にはない感情ですが」
「それって——」
なゆが別のボタンも押した。もう一本。缶コーヒー。ブラック。
「こちらは夜見さんに」
「え、朔夜にも買うの?」
「一晩中外で待機されていましたから。蘇生もされましたし」
「……なゆ……鬼灯さん、なんで朔夜にまで気を遣うの。朔夜、あなたのこと嫌ってるのに」
「嫌われていることは知っています。でも、影森さんの蘇生をしているのは夜見さんです。影森さんが生きて帰ってこられるのは、夜見さんのおかげです。それは事実ですから」
「……」
「私は帳面に書く側で、夜見さんは帳面を書き直す側です。立場は違いますが、影森さんのことを見ているのは——」
なゆが言いかけて、止めた。手帳を胸元にしまった。
「お茶、冷めますよ」
「今いいところだったのに」
「いいところではありません。業務外の発言は控えます」
「都合のいい時だけ業務に戻らないで!」
朔夜が地下街の出口から出てきた。疲れた顔。一晩中、壁の外で封域を維持していた。
私となゆが自販機の前で並んでいるのを見て、足が止まった。
「……何してる」
「お茶もらった」
「誰に」
「鬼灯さんに」
朔夜の目がなゆに向いた。なゆは缶コーヒーを差し出した。
「夜見さん、お疲れ様です。ブラックでよろしいですか?」
「…………」
「お嫌いでしたか?」
「嫌いだ」
「コーヒーが?」
「お前が」
「承知しました。コーヒーはここに置いておきますね」
なゆが自販機の横に缶を置いた。朝の光の中で、白い手がすっと引かれる。動作がきれいだ。無駄がない。
朔夜は缶を見て、数秒黙って、それから拾い上げた。
「……拾うのかよ」
ぬいが呟いた。私も思った。
朔夜は缶を開けながら歩き出した。
「帰るぞ」
「うん」
「鬼灯。もう帰れ」
「帰ります。業務は終了しましたので」
「二度と来るな」
「次に影森さんが案件に入られた時に、また参ります」
「来るな」
「業務ですので」
朔夜の背中が一段と険しくなる。
十メートルほど歩いたところで、朔夜がぼそっと言った。
「あいつから物をもらうな」
「お茶だよ。百二十円の」
「金額の問題じゃない」
「じゃあ何の問題」
「…………」
答えない。でもその横顔は、地下街の怪異を相手にしている時より、ずっと険しかった。
缶コーヒーは飲んでいた。嫌いと言いながら飲んでいる。この男は。
――――――
事務所に戻って、後処理。
朔夜は管理会社に請求書を送り、真琴に「アーカイブ用映像の切り出し」を依頼した。非公開記録だが、一部は編集して配信素材にするらしい。
「今回、ゆらちゃん死んだんですね」
真琴の声が、通話越しに平坦だ。もう慣れている。慣れないでほしい。
「死にました」
「何が原因ですか」
「案内表示を見た」
「案内表示で死ぬバイト、労基に相談したほうがいいですよ」
「労基に行ったら怪異案件のほうを先に問題にされそう」
「それはそう」
ぬいがソファの上から呟いた。
「おぬし、今回鬼灯がおらんかったら、おっさんもおぬしも終わっとったぞ」
「……わかってる」
「あやつが男を運び出して、おぬしの体も引っ張り出した。朔夜は外からしか手が出せんかった。中に入って動いたのは鬼灯だけや」
「わかってるよ」
「わかっておるなら、ひとつだけ言うとくぞ」
ぬいが琥珀色の目を、まっすぐ私に向けた。小さな体。ふわふわの毛。でも目だけが、今、鋭い。
「あやつは"貸しにしておく"と言うたんやろ」
「……なんで知ってるの」
「おぬしが死んどった間、おぬしの体のそばにあやつがおった。手帳を開いて、ペンを持って、でも書かんかった。しばらくそうしとって、手帳を閉じた。それからおぬしを壁まで運んだ」
「……見てたんだ」
「見とった。あのな、おぬし」
「うん」
「帳面に書かんかった理由が、業務じゃなくなっとる」
朔夜は何も言わなかった。聞こえていたはずだが、何も言わなかった。缶コーヒーの空き缶を握り潰して、ゴミ箱に投げた。入った。
私はお茶の缶を見た。自販機で百二十円。鬼灯なゆが買ってくれた、温かいお茶。
あの人は「貸しにしておく」と言った。帳簿に書かなかった。業務規定を曲げた。
なぜか。
「非合理的な死に方をする人を帳面に書くのが嫌だった」。
嫌。
死を数え続けてきた存在が、ひとつだけ数えたくなかった。
それは業務じゃない。
ぬいの言う通りだ。
あの人の帳面に、私の名前がある。正の字が並んでいる。でも今回の一本だけが——書かれていない。
空白。
その空白が、百二十円のお茶より、ずっと重い。
――帳簿の余白は、減っている。
でも今回だけ、一本分の猶予ができた。
鬼灯なゆが、私にくれた猶予。
「次はありません」とあの人は言った。
次は、死ねない。
*****
■今回の登場人物
・影森ゆら
旧通路に潜り、清掃員を救出しかけ、案内表示を見てしまい、死んだ。蘇生後の第一報告は「死にました」。蘇生費は緊急対応料金。死神からお茶をもらい、帳簿の一本を貸しにしてもらった。
・夜見朔夜
一晩中外から封域を維持し、境界切断を二回かけて壁を開け、蘇生をかけた。嫌いと言いながら缶コーヒーは飲んだ。お茶の件は金額の問題ではないらしいが、何の問題かは最後まで答えなかった。
・ぬい
匂いで道を選び、案内表示を見るなと叫び、ゆらの死体のそばでなゆの行動を見ていた。「帳面に書かんかった理由が、業務じゃなくなっとる」。この霊獣、たまに本当に鋭い。あと毛並みが潰れた。
・鬼灯なゆ
旧通路に同行し、道を教え、清掃員の意識を守り、案内表示の怪異に「終了」処理をかけた。ゆらが死んだ後、帳面にペンを持ったまま書かなかった。「今回は貸しにしておきます」。その一言が、たぶんこの回でいちばん重い。お茶は百二十円。朔夜にも缶コーヒーを買った。
・槙野恒一
清掃員を受け取った。ゆらの「死にました。蘇生されたので大丈夫です」報告で胃を痛めた。
・毒島真琴
「案内表示で死ぬバイト、労基に相談したほうがいいですよ」と至極まっとうなことを言った。
■今回の話の解説
旧通路の怪異は、「案内表示を信じると奥に引き込まれる」構造でした。ナビや案内に従って歩く日常の行動が、地下では死に直結する。見慣れた光に従いたくなるのは人間の本能で、それを利用する怪異です。
ゆらは死にました。清掃員を庇って逃げ遅れ、案内表示を見てしまい、旧通路の記憶に捕まりました。
ただし今回、なゆが「貸しにしておく」と帳簿への記載を猶予しました。業務規定を曲げてまで。理由は「非合理的な死に方をする人を帳面に書くのが嫌だった」。これはなゆの感情変化の転換点です。死を数えるだけの存在が、ひとつだけ数えたくなかった。
ぬいはそれを見抜いています。「帳面に書かんかった理由が、業務じゃなくなっとる」。
そして朔夜は、嫌いと言いながら缶コーヒーを飲みました。
この三人の距離が、少しずつ、ねじれながら近づいています。




