5.目覚め
痛いわ…。それにとても苦しいー⋯。
夢のなかでマーガレットは藻掻いていた。
呼吸をするたびに体のどこかがとてつもなく痛い。
なんとか痛みから逃れようと身動ぎすればするほど痛みは増して、あまりの痛みに呻けば今度は別の場所が激しく痛む。
「う…うぅ…」
思い通りにいかない体にパニックになりかけたところで、マーガレットははっと目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返しながら、痛む体に顔を顰めつつ、ゆっくりと体を起こす。
「…ここ、は……?」
頬を伝う汗をそのままに、ぼんやりと見覚えのない部屋を見渡した。
淡いクリーム色の壁紙に深みのある木目調の家具。大きな暖炉には火がくべられていて、木の爆ぜる小さな音が静かな室内に優しく響いている。
マーガレットはベッドから降りようと身動ぎしたが、あまりの痛さに息を詰めると、空気を抜くように細く息を吐き出した。
「…何をしていたのだったかしら…。確か、アルベルトをお迎えするために準備をしていて……」
痛みと寝起きでぼんやりとする思考を醒ますように額を軽く手で押さえると、冷たい手のひらに燃えるような熱さが伝わってきた。
ー…おそらく熱があるのだろう。
断片的に浮かんでくる記憶をなんとか繋ぎ合わせていく。
「…そうだわ。帰ってきたアルベルトを出迎えたら知らない女性がいて…。アルベルトが私との婚約を解消したいって…、国王陛下にも許可を取ったとか言いはじめて……、はぁ…思い出してきた」
マーガレットは思わず両手の中に顔を埋めた。
あのときの惨めな気持ちを思い出して、思わず唸る。
(ー…可愛らしい女性だったわ。小さくて、ふわふわしていて、思わず抱きしめたくなるような…)
あぁ…、駄目だわ。とマーガレットは呟いた。
気分が沈み込みそうな気配に慌てて頭を横に振る。
「お父様に早くお伝えしないとー…」
そう口に出して、マーガレットははっとした。
「ー…そうだわ。私、お父様に報告するために邸に帰る途中で賊に襲われて…」
必死で逃げて、最後賊に手を摑まれたことまでは覚えているが、それ以降の記憶がない。
不意にあの鼻につく臭いと男の体温を思い出して、一気に全身の皮膚が総毛立つ。
がばりと顔を上げて、もう一度周囲を見回した。
心臓が早鐘を打つ。
小ぢんまりとした部屋だ。
必要最低限の家具しかないが、どこも手入れが行き届いていて荒れた印象はない。
少なくとも賊が住んでいる気配は見当たらなくて、マーガレットは安堵の息をついた。
「あの男たちがこんなに素敵な部屋を準備してくれるはずがないもの。…きっと気を失ったあとに親切な人が通りかかって助けてくれたのだわ」
マーガレットが身を沈めている清潔なリネンからは、嗅ぎ慣れない青いハーブの爽やかな香りがしている。
シンプルな壁紙に大きな暖炉。壁一面に設置された広い窓が殺風景になりそうな部屋を優しく彩っている。
窓の外には深い森が広がっていて、木々の隙間から優しい陽の光が滲むように地面を照らしているのが見えた。
静かだ。
焚き火が爆ぜる音以外、何も聞こえない。
マーガレットは暫しの間、ぼんやりと窓の外を眺める。
ふと、静かな室内に控えめなノックの音が響いた。
「失礼します」
若い女性の声とともにひとりのメイドが部屋に入ってきた。
マーガレットよりも二、三歳ほど年上だろう彼女はマーガレットが起きているのを確認すると、驚いたように少しだけ目を瞠って、しかしすぐに何事も無かったかのようにニコリと微笑んだ。
「お目覚めになられていたのですね。お加減は如何ですか?」
「いいわ、と言いたいところなのだけれど…。まだ体中が痛くて起き上がれそうにないの。こんな格好でごめんなさい」
「痛くて当然ですよ。お医者様のお話では肋の骨が数本折れているとのことですわ。一体、どんな獣と戦ったんです?」
「獣?」
可笑しそうに笑うメイドの言葉にマーガレットは首を傾げた。
戦ったのは獣ではなく賊なのだがー…。でも、確かにあの野蛮さは獣といえるかもしれない。とマーガレットはひとり納得してメイドの言葉に頷く。
「突然襲われてしまって…。きっと逃げるときに転んでしまったから、そのときに折れてしまったのね」
「まぁ!面白い冗談ですね」
「?」
コロコロと面白そうに笑うメイドに困惑する。
マーガレットの言葉をメイドは何故か冗談だと受け取ったらしい。
そんなに変なことを言ったかしら…?と内心首を傾げつつもそれ以上は深く追求せずに、マーガレットは気になっていたことを訊ねた。
「私、ここに来たときのことをよく覚えていなくて…。あなたは何かご存知かしら」
「いいえ。詳しいことはなにも。旦那様がお連れしたお客様とだけお聞きしています」
「…そう」
メイドは持ってきた桶に浸していたタオルを固く絞ると、失礼します、とマーガレットの額を優しく拭ってくれる。
「気持ちいい」
「まだ少し熱がありますね。お食事のあとにお医者様から頂いたお薬をお持ちいたします」
「有難う」
食欲はございますか?という問いに緩く首を横に振る。
「助けて頂いたお方に御礼を言いたいのだけれど、取り次ぎをお願いできるかしら」
「承知致しました。ですが、まずはお食事とお薬を先に致しましょう。すぐにお持ちいたしますから」
メイドの手を借りながらゆっくりと体を起こす。
華奢な見た目からは想像もできないほど、強い力でしっかりと支えられてマーガレットは思わず感嘆した。
今、体を動かしたというのに痛みを全く感じなかった。
「凄いわ。あなた、とても力持ちなのね。」
「そうですか? 普通ですよ」
メイドがからりと笑う。
そうして彼女は、マーガレットが倒れないようにクッションを敷き詰めると「お食事の準備をしてまいります」と足早に部屋を出ていってしまった。
遠ざかって行く足音に耳を澄ませる。
足音が完全に聞こえなくなったのを確認して、マーガレットはふかふかのクッションに身を預けながら小さく溜め息をついた。
メイドがいなくなった部屋に、再び静けさが満ちる。
「ー⋯静かだわ」
こんなに静かな空間というのは、幼少の頃から王宮で育ったマーガレットにとっては初めての体験だ。
王宮はいつだって人の気配で溢れている。自室のなかですら、一人になれる時間は殆ど無かった。
それは警備上、仕方のないことではあるのだがー…。
本当はこんなふうに静かに過ごす時間が欲しかったのかもしれない。
「…早く帰らなくては」
窓の外の景色をぼんやりと眺める。
お父様へ報告して、あの賊たちについても調べなくては。領地内の安全の見直しも必要ね。それと私の新しい婚約者の選定と、お義姉様にも王宮を辞すお手紙を書いて。
それからー…。
マーガレットは目を閉じた。
頭の中をぐるぐるとやらなくてはならない事項が駆け巡る。今までこんなにゆっくりすることがなかったせいか落ち着かない。
こうしている間にも、マーガレットとアルベルトの婚約解消のために様々な人たちが対応に追われていることだろう。アルベルトはともかく、マーガレットがいないことでみんなを困らせているはずだ。
「七日…、いえ、五日でお暇しなくては」
無意識にこぼれた溜め息はマーガレットの心情を如実に表している。
静かな部屋でひとり、マーガレットはメイドが食事を持って戻ってくるのを静かに待ち続けた。




