親の故郷
あかい夕日が立ち込める中、男の子が泣いていた。彼は睫毛が長くて、可愛い男の子だった。年齢も手助け、一目見だけでは男か女か判別がつかない。だが、彼の服装と、話し方から男の子なのだと思っていた。
私は母親がいなくなったと告げた彼に少しでも笑ってほしくて、こう言葉にした。
「大丈夫だよ。お祖母ちゃんがね、悪いことがあったらきっといいことがあるって言っていたの」
彼は驚いたように私を見る。
「私にも悪いことがあったから、きっと大丈夫。お願いしておくから。お母さんができますようにって。だから二人分の悪いことがいいことになるから、きっと素敵なお母さんができるよ」
私はその後、彼と一緒にお願いをした。彼にお母さんができますように、と。私にはお母さんがいるから、そんなことをお願いする必要がなかったのだ。
「じゃあ」
彼は何かを言おうとした。だが、次の瞬間、私の視界に飛び込んできたのは真っ白な壁だった。
少し遅れて、それが私の部屋の壁だと気づいた。
体を起こし、髪の毛をかきあげた。
すごく懐かしい夢だった。私が幼稚園の年長になったときだったと思う。あれからもう十年ほど経つ。
私はベッドから降りると、窓辺に行く。そして、締め切ったブルーのカーテンから窓の外を覗く。
彼らはあれからどうしているんだろう。
祖母が亡くなり、祖母の家は管理が難しいとのことで売却された。祖父は私が生まれる前になくなっていたので、顔も知らない。だから、身内がいなくなったあの土地に行くことは一度もなかった。当然のように彼らと偶然会うこともない。
私は彼に会いたいと思っていた。何も懐かしい記憶を語り合いたかったわけじゃない。謝りたかったのだ。お母さんが出来ればいいと心から思う気持ちは嘘ではなかった。だが、私は良かれと思い、今から考えるといい加減と言われてもおかしくない事を言ってしまったのだ。
私はリビングに行くと、用意された朝食を食べることにした。だが、お箸をとめると、洗い物をしている母親に声をかける。
「今、おばあちゃんの家ってどうなっているの?」
「急にどうしたの?」
「気になったから」
「今はスーパーができているらしいわ。広い家だったからね」
こげ茶色の廊下に、壁に天井に包まれたあの古い木造建築の家はないのだと実感し、息を吐く。あれから長い時間が流れている。
私がお茶を口に含んだとき、木原君がリビングに入ってきた。
母親は蛇口を捻り、食器棚からお茶碗を取り出す。木原君のごはんを入れるためだ。
「そういえば、木原君の両親もあそこの出身だったわよね」
母は父の出身地の名を告げた。
「両親か」
そう噛み締めるように言葉を発したとき、彼の表情が今まで見たことないくらいかげるのが分かった。彼は笑顔を絶やさない人だった。だから、その表情が妙に心に引っ掛かる。
彼は首を横に振ると、息を吐く。そして、いつもの笑顔を浮かべていた。
「そうですね。昔住んでいました」
その笑顔がどこかいつものものとは違っていたことは分かっていたが、気付かない振りをして、彼に問いかける。
「そうなの?」
「小学校入学して少ししてからこっちに来たからね」
意外だった。こんなところに共通点があるとは思わなかった。木原君と私の父が同郷なら、大学で親しくなったといっても違和感はなかった。世の中はどこで繋がっているか分からない。
思い返せば姉と一馬さんもそうだ。人と人との関係なんて案外そんなものなのかもしれない。
彼らのうち二人は私と同じくらいの年だった。ということはあの子のことを知っている可能性はあるのだろうか。
家を出てから、彼の子供時代のことを聞いてみた。
彼は笑顔で答えてくれた。
「昔は一馬と近所だったんだ。今は一馬もこっちに来たから、伯母さんが一人で住んでいる」
木原君の言葉から、一馬さんにはお父さんがいないらしいということを暗に気付く。
「あの辺りって変わった? お祖母ちゃんが生きていた間は何度か言ったけどそれっきりで」
彼は寂しそうに微笑んでいた。それから互いに何も話さなかった。まるで、お互いに話をすることを避けているのではないかと思ってしまうほど、後味の悪い沈黙だった。
私はなんとなく、天を仰いだ。青く澄んだ空がどこまでも広がっている。あのときの悲しみを帯びた空の色とは違う色、だ。あのときの彼は今はどうしているんだろう。笑ってくれているんだろうか。
夢の影響か、木原君と一緒にいるのにあれ以来十年以上会うことのなかった彼のことばかり考えていた。
晴実は私の返答を聞いて、呆れたような声を出す。
「まだ言ってないの?」
「なかなか言い出せないよ」
晴実から映画のチケットをもらって一週間が経過していた。ふと、彼女に映画に誘ったのか聞かれ、「まだ」と返答をしたところだ。
「早くしないと上映が終わっちゃうよ」
「まあ、ロングランをするみたいだからいいんじゃないの?」
百合は小説を手に、冷めた口ぶりで伝える。
「この子はそう思って絶対に伸ばし続けるからね。軽い気持ちで言えばいいのに」
それは彼女だから言えるんだろう。彼女は野木君を誘ってどこかに遊びに行くこともたまにあると言っていた。だが、彼は私が思ったようにかなり気まぐれなところがあるらしく、誘っても付き合ってくれるのは半分ほどだそうだ。そういう晴実からすると、私のしていることはまどろっこしいことかもしれない。
「晴実が野木君を誘えば?」
「だめだよ。あの人は。行かないで終わりだし」
百合に木原君と行けばというと、百合からも晴実からも責められるし、一馬さんと一緒に行けばなんて論外だろう。それ以前に百合が恋愛映画を嫌っている。
「捨ててもいいんだけどさ、それって昔の文学作品が原案になっているらしいから、木原君も好きだと思ったんだけど」
私ははじめて聞く言葉にその映画のチケットを見た。だが、聞いたことのない題名だった。
「上映は七月まではやっているみたいだけど、早目がいいと思うよ」
百合はそういうと、読んでいた本にしおりを挟み、パタンと閉じていた。
私は学校帰りに、木原君の横顔を見ながら、五度目のトライをした。
「木原君って映画好き?」
やっと自然に言葉が出てきた。それを聞くために今まで四回詰まっていたのだ。
「好きでも嫌いでもないかな」
「どういうのを見たりするの?」
彼は難しい顔をする。
「一馬に連れていかれた時に適当に見るくらい」
「恋愛とかは」
「恋愛って苦手なんだよね」
私の周りには恋愛ものが苦手な人がやけに多い。
彼も興味がなかったのか、そこでぽつりと会話が途絶え、木原君にい出せないままだった。
私達が家の前に行くと、トラックが家の前にとまっていた。私は木原君に声をかけると、家の前に行く。そして、不在通知らしき紙を握っている運送会社の制服を着た男性に声をかける。宛先には木原君の名前が書かれており、差出人は彼の両親だった。
サインをすると、鍵をあけたばかりの荷物を家の中に入れてもらう。すぐにトラックは走り去っていく。
「そういえばお菓子を贈るって言っていたからそれかも」
木原君は荷物を玄関に置き、段ボールを一度リビングに運ぶ。お菓子であれば自分の部屋に持っていくのは二度手間になると考えたのかもしれない。
私はテレビ台の隣においていたカッターナイフを彼に渡す。それでガムテープを切っていく。そして、黄土色のダンボールをゆっくりと開けた。
そこには綺麗な包装紙と袋に包まれたお菓子がいくつかと、洋服、アルバムがその端に入れてあった。
「アルバム?」
「何でこんなものを送って来るんだか。置いてくるよ」
彼は短くため息を吐くと、真っ先にそれを取り出す。それを手にリビングを出て行こうとした。自分の洋服よりもそれを人に見られたくなかったんだろう。




