第七十七話:深淵の水龍と、黒き業火
試合開始の直前、それまで静かに闘技場の中央を見つめていたシズが、ふと俺たちに振り返った。
「……あっ、この試合は腕輪と模造刀は必要ない」
唐突なシズの言葉に、俺とクレアは目を丸くした。
シズは魔力を制御していた腕輪と木刀を躊躇なく回収する。
俺は表情を引き締め、シズに問いかけた。
「……それだけ、次の相手が強いってことか?」
シズはこくりと頷いた。
「……少なくとも、学生の領域じゃない。それにまだ底すら見せていない。……私が確かめてくる」
そう告げると、シズはいつになく厳しく鋭い表情を浮かべ、闘技場の中央で待ち構えるシャロットの元へと静かに歩み出した。
「シズ……大丈夫なのか?」
一回戦と準決勝で、相手を徹底的に叩き潰したシャロットの戦いぶりが脳裏をよぎり、俺は思わず声を張り上げた。
シズは一瞬だけ足を止め、肩越しに振り返る。
「……うん、大丈夫。安心して見てて」
そう言って軽く微笑むと、再びまっすぐ前を向いた。
隣のクレアは不安がる素振りすら見せず、「シズ、やっちゃいなさいッ!」と興奮気味に拳を振り上げている。
闘技場の中央。シズとシャロットは静かに対峙していた。
沈黙を破り、先に口を開いたのはクリムゾン・クロイツ先鋒のシャロットだった。
「今回はどっちなのかしら? すぐに降参するのか、それとも無駄に抗ってくれるのか……。私としては前者をおすすめするけれど。幼い子供を痛めつける趣味はないのよね」
クスリと鼻で笑うシャロット。だが、子供扱いされたことがカチンと頭にきたのか、シズはジト目で淡々と打ち返した。
「……私はもう十七歳。おばさんは余計な心配をしなくていい」
「お、おばさんっ!? 私だって十七歳よッ!」
「……ごめん。私を子供扱いするから、相応の年齢なのかと思った」
「この生意気な小娘が……ッ!」
シズは一切引く気がない。むしろ第一ラウンドの言葉の応酬はシズの完全勝利だ。
顔を真っ赤にして怒りで全身を震わせたシャロットは、身につけていた真っ赤な制服のローブを力任せに脱ぎ捨てた。
「この洗練された美しさを見ても、おばさんと言えるかしら!」
左手を細い腰に当て、堂々とポーズを決めるシャロット。
深紅の長い髪は色っぽく流れ、上半身は黒のレースと赤のビスチェのような甘美な衣装。下半身には足のラインを美しく際立たせる細身のパンツを合わせていた。高身長でスラリとしたスタイルが際立ち、洗練された華やかさとクールな格好よさを兼ね備えている。
しかし、シズは微塵も揺らぐことなくジト目のままシャロットを見つめた。
「……決めた。私が勝たせてもらう」
「ふふっ、ははは! そうこなくては! せっかくの決勝戦、派手に行こうじゃない!」
最終的に引き分けに終わった舌戦の余熱を抱えたまま、本番の死闘へと突入する。
『アイスライト杯決勝戦・第一試合・先鋒戦——試合開始!』
場内に響き渡ると同時に、先手を取ったのはシャロットだった。
対戦相手を瞬殺してきた無数の炎の刃が空中に現れ、シズを細切れにせんと一斉に襲いかかる。
それに合わせ、シズは静かに魔法を唱えた。
「——【アクアブレード】」
シャロットと同じく、空中に即座に生成された複数の水の刃。それが風を切って飛び、迫り来る炎の刃と正面から激突した!
炎と水が衝突し、激しい水蒸気を噴き上げながら互いに相殺されていく。
……だが、僅かに打ち漏らした炎の刃が一刀だけシズの頬を掠めた。鋭い切傷から鮮血が流れ落ちる。
シズは指先で軽く頬の血に触れ、冷ややかにその赤い色を確認した。一方のシャロットは、攻撃をかすらせたことに余裕を深め、感心したように目を細める。
「へぇ……やるじゃない。大抵の人間は今ので終わるのだけれど。魔法が苦手なアイスライト人にしては、なかなかお上手なのね?」
だが、シズはフッと小さく口元を緩めた。
「……何がおかしいのよ!」
その余裕にシャロットが苛立ちを露わにする。シズは無表情のまま告げた。
「……あなたの魔法、なんか変だから一回直接受けてみただけ。……もう分かったから大丈夫」
「大丈夫ですって……!? なら、これはどうかしら!!」
激昂したシャロットは、激しい炎の弾幕を次々と繰り出した。
爆炎の槍、渦巻く火柱、追尾する火球——どれもが人を死に至らしめる過剰な威力を誇る凶悪な魔法だった。
しかし、シズはその全てを完璧に予知しているかのように、精度の高い水の魔法で寸分違わず相殺していく。全く無駄のない、息を呑むほど微細な魔力制御。
魔法が通用しないと悟ったシャロットは、相殺の瞬間に発生する濃密な水蒸気を煙幕として利用し、一気に視界を奪って近接格闘へと切り替えた。
水蒸気を突き破り、シズの死角から放たれる鋭い拳と蹴り。
しかし——シズは軽やかな足さばきと最小限の回避動作で、その全てをいとも易々と見切ってみせた。
「……その体術、さっき見た」
「くっ……! この……化け物めっ……!」
俺は、シズが見せる魔法の圧倒的な精度と多彩さに息を呑み、感嘆するしかなかった。まさに俺のあこがれる魔法そのものであった。
あれほど圧倒的だったシャロットの攻撃を、完全に手玉に取っているのだ。
やがて——万策尽きたシャロットは荒い息を吐き、膝に両手をついて自嘲気味に笑った。
「……ふふっ、ハァ……ハァ……認めるわ。あなたは私より強い……。……でも、負けるわけにはいかないのよ!」
シャロットは決意を固めた瞳で、両手を天へと高く掲げた。
次の瞬間、闘技場全体の空気が熱されるような感覚を覚えた。
赤黒いおぞましい魔力が、彼女の両手の先に凄まじい密度で凝縮されていく。漆黒の炎が、真っ赤な業火の周囲を激しく渦巻き始めた。
な、なんだあの魔法は……!?
俺は思わず喉を鳴らした。
エミリーさんの屋敷であらゆる属性・階級の魔法を学んだ俺ですら、見たことも聞いたこともない不気味な魔法。背中に冷たい氷を押し付けられたような、嫌な予感が全身を駆け巡る。
「危険だシズっ! 逃げろーーーッ!!」
俺は喉がちぎれんばかりの声で叫んだ。だが……。
「……もう遅いわっ! 【カラミティ・インフェルノ】!!」
シャロットが解き放ったのは、空間そのものを焼け焦がすような邪悪なる大業火。
放つと同時に、全魔力を絞り尽くしたシャロットはその場に前のめりに崩れ落ち、気を失った。
しかし、解き放たれた黒炎は、全てを燃やし尽くさんとシズに向かって一直線に突き進む!
くそっ……俺が打ち消す!!
シズを救うべく腕を掲げ、魔法を唱えようとした——その時。
シズが両手を左右にスッと優雅に広げる姿が視界に飛び込んできた。そのあまりにも凛とした佇まいに、俺は自然と掲げた手を下ろしていた。
シズの周囲を、目が眩むほど美しく澄み渡った青白い魔力が大渦となって駆け巡る。
「——【アビスストローム】」
……これも、俺の知らない魔法だった。
シズの身体を中心に、深く濃厚な青き水流が、巨大な龍の輪郭を形作って舞い上がった。
邪悪な大業火と、深淵の水龍が真っ正面から激突する。
闘技場全体が激しく揺れ動き、天地を激震させる凄まじい爆発音が響き渡った。
直後、膨大な水蒸気が濃い霧となって闘技場内を完全に覆い尽くす。
やがて熱された闘技場を冷やすように雨となり、場内へ降り注いだ。
雨が上がり、霧が徐々に晴れていく。
そこには——最初に掠めた頬の小さな傷以外は服の乱れもないシズだけが、静かに佇んでいた。
対戦相手のシャロットは、石畳の上に気絶したまま倒れ、ピクリとも動かない。
『そ……そこまでっ! 勝者——ハンター代表、シズーーーッ!!』
勝ち名乗りが響き渡り、静まり返っていた闘技場に爆発的な歓声が沸き起こったのだった。




