第十章③ フェルナンド
ついに運命の日を迎えた。
牢の鉄格子越しに差し込む朝の光がいつもより柔らかく見える。
フェルナンドは小さな陶器のカップを両手で抱え、最後の晩餐ならぬ最後の朝食の紅茶を口に運んだ。香り高いスパイスが鼻孔をくすぐり、微かな甘みが舌に広がる。カルダモンとシナモン、クローブの香りがここにいる現実をほんのひととき忘れさせた。
「最後に、この味を選んで正解だったな」
囁くような独り言。熱が喉を落ちていく間だけ、外の喧騒も監視の視線も遠のいた。
——香りと苦み。これまでの人生そのものだった。
やがて鉄格子が開く。冷たい空気と共に衛兵たちが入り、彼らの視線も容赦なく流れ込んできた。
一人の衛兵に腕を掴まれ、乱暴に引き上げられる。手首に縄が食い込み、そのまま一歩前へ押し出された。石畳に彼の靴底が触れる。逃げ場がないことがはっきりと分かった。だが、覚悟などとうに済ませている。
フェルナンドは衛兵に囲まれながら歩みを進めた。やがて徒刑所から街中へと景色が移り変わる。背後から牧師の祈祷の声が低く、鈍くなってくる。
群衆のざわめきが近づく。だが、フェルナンドの目に映る民衆たちはもはや人の顔をしていなかった。
欲望と憎悪が形を持ったもの。子供は母親の陰に身を寄せながらも目だけが光る。酔った男は鉄柵に身を乗り出し、唾を飛ばしながら罵声を浴びせる。商人や貴族も顔をこわばらせながら結末を見届けようとしていた。誰もが、この舞台の観客だった。
「……見せしめか」
鎖の音に紛れるほどの声でフェルナンドが呟いた。恐怖ではない。皮肉と、わずかな愉悦。
行列は町の中心へ進む。鐘が鳴り、群衆の熱がさらに膨れ上がる。
処刑場に到着すると、判事が前へ出た。
「この者、銀の猫ことフェルナンドは、大海賊エドガー・ロジャースの右腕として数々の略奪と殺人を行い……」
罪状を読み上げられる。
フェルナンドは目を閉じる。一語ごとに自分の歩んできたものがなぞられていく。断罪であり、同時に追認でもあった。
「……先日のブレスト港にて、海賊船団を率いブレスト司令部を襲撃し、民を恐怖に陥れ、多くの命を奪った」
フェルナンドの口元がわずかに緩む。
皮肉なものだ。命を奪ったのは事実だが、恐怖に陥れたのは自分ではなく時代と運命だと心のどこかで思う。
「大海賊エドガー・ロジャース亡き今、フェルナンドはここトゥーロンにて裁きを受ける」
判事の声は重いが、フェルナンドの心には嘲笑のように響いた。
最期の瞬間が近い。だが、心の中には恐怖はない。
長く被り続けた仮面を外し、本当の名を手放したことへの静かな安堵が残っている。
ふいに、紅茶の余韻がふと胸に戻った。フェルナンドはわずかに微笑する。
「最後の言葉はあるか?」
判事の問い。
「フィナーレといこうか」
フェルナンドはゆっくりと顔を上げる。群衆の奥に潜む好奇と憎悪を一瞥し、静かな劇場の幕を引き裂くように口を開いた。
「ならば、観る者よ、忘れるな——」
見よ、この世はただ一つの大舞台だ。
そなたらも、我らも、皆ひとときの役者にすぎぬ。
入り口があれば、出口もある。
人は誰しも与えられた役を演じ、時が来れば退場するのだ。
私は友を演じ、海賊を演じ、右腕を演じた。
そして今——罪人の役を果たす番だ。
だが忘れるな。 どの役もまた、舞台の灯を照らす。
この最期の幕もまた、物語の一部に過ぎぬのだ!
その瞬間、民衆の怒号も笑い声も鼓膜を揺らす鐘の音も一瞬にして舞台の背景に溶けた。
フェルナンドの微笑は揺るがない。
観客もまた、この舞台の一部にすぎない。そして彼は、最後まで主役であり続ける。
暗転の瞬間まで彼の心は演技に燃え、恐怖も嘲りもすべてを味方にしていた。
縄が肩にかけられ、台へと導かれる。木の板が軋む。手首の縄が擦れて皮膚が赤くなっていた。締めつけるたび、血流の感覚が少しずつ彼を現実へ引き戻す。台上に上がれば、群衆の気配が波のように押し寄せる。
「この光景も、また一つの舞台……」
首に縄がかかる。冷たい感触、浅くなる呼吸。
「恐怖を抱かせるのも、観客の仕事……されど主役はボク」
彼の微かな呟きが、彼の胸の奥に届く。
フェルナンドは群衆を、世界を、そして運命を見据えたまま静かに舞台に立ち尽くす。
最後の幕が開く直前の、完全なる静寂の中で。
目の前の司令官はなお厳格に罪状を読み上げ、民衆はそれに呼応するかのように怒声をあげ、拳を振り上げる。
「大海賊エドガー・ロジャースの右腕……略奪と殺人の数々……ブレスト司令部を襲撃……民衆を恐怖に陥れ……」
フェルナンドは心の奥底で微笑む。まるで自分の運命を見事に演出してくれる脚本家の存在を感じた。
司令官が頷くと衛兵がフェルナンドの両腕を軽く押し、縄に沿って首を締め上げる。冷たい感触が皮膚を刺し、筋肉が反応する。
「さて、最期の言葉を」
司令官の声。群衆が一瞬、息をのむ。
「ほう。これは、カーテンコールか」
フェルナンドは微かに唇を動かし、劇場的な間を置いた後、明瞭に口を開く。
ビリー・マイヤー。
エドガー・ロジャースの右腕、フェルナンド役として、最期まで演じきろう。
「生きることも、死ぬことも、演じること。
だが、己の選んだ舞台だけは譲らぬ。
この世界は——私の意志を越えた舞台。
ならば、観客の皆よ、私の最期を楽しむがよい」
その瞬間、鐘の音が町中に響き渡った。
フェルナンドの瞳には、恐怖の渦と狂気の舞台が鮮明に映る。
縄が一気に引かれ、木の板の下で足がもつれた。
重力が体を引き下ろす感触。
首にかけられた縄の圧迫が深まり、息が薄くなる。
目の前に広がるのは群衆の生の感情。
恐怖、憎悪、驚き、好奇。
すべてが彼を包み込み、舞台は静かに幕を下ろす。
刹那、世界が止まる。
最期の瞬間、フェルナンドの心は不思議なほど静かだった。
鐘の音と怒号が重なり合う中で。
——世界は一瞬、永遠に変わった。
やがて、観客席に灯りが戻る。
それでも、誰も現実へ戻ろうとはしなかった。




