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第九章① ソフィーとマクシム

 夕日はすっかり沈み、夜の帳が海と街を包み込んでいた。だが、その闇はこれまでの幾夜とも異なり奇妙なほどの安らぎと穏やかさを孕んでいる。

 海賊との熾烈な戦闘は海軍の勝利に終わり、ペンフェルド川沿いの造船所には三隻のガレオン船に乗った勇士たちが次々と帰還していた。甲板には破れた帆と焦げ跡、剣戟の痕が生々しく残っている。

 それでも船を降りた者たちの顔には安堵と達成感が漂っていた。


 同じ頃、マクシムたちも港へ戻ってきた。

 ブレスト城では陸軍の撤収作業が進められ、負傷者を抱えた担架が行き交う。広間も回廊も、治療を受ける兵士や無事を喜び合う隊員たちで溢れかえっていた。杯を交わす集団もあり、笑い声と歓声が入り混じるその光景は勝利に酔う者たちの宴そのものだった。

 フェルナンドはアルフォンス率いる救出隊に付き従い、別室で本格的な治療を受けることになった。

 ソフィーは担当医に短く症状を伝え、処置の手順を指示する。彼女は指示を終えると安堵の息をひとつつき、マクシムと共に医務室の扉を押し開けたのだった。


 医務室に足を踏み入れた瞬間、薬草と血の匂いが鼻を突く。

 マクシムは着ていた軍服の上着を脱ぎ、椅子に腰掛ける。豪奢な金糸の縫い取りが入ったその服は袖口から背中まであちこちが裂け、布地の隙間から覗く肌には無数の切り傷と殴打の痕が浮かんでいた。紫色に腫れた箇所やうっすら血が滲む線のような傷跡が、まるで戦闘の地図のように刻まれている。

 彼の有り様を見ているだけでソフィーの体までじんじんと痛むような気がした。

「数ヶ月前の、ルキフェルとの対戦も……こんな感じだったんですか?」

 ソフィーが口にした瞬間、あの日——嵐の中の光景が脳裏をかすめる。

 マクシムは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。

「いや、あの日の方が重症でしたよ。あの時のルキフェルは僕を本気で殺すために来てましたから。戦い方にもそれがはっきり出てたし……あの時は自力で立つこともできなかったんです。今回はまだ歩けてるから、まだマシでしょう」

 彼の言葉とは裏腹に腕や胴に巻かれる包帯はどれも手際よく、そして急を要するものばかりだ。

 確かに今回は命を奪うまでの一撃はなかった。だが、それは致命傷を避けつつ全身に容赦なく痛みを刻むという別種の悪意だ。

 ソフィーは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

 あれほどの力を持ちながら相手を生かすために殺さず、しかし徹底的に痛めつける。

 その加減を意図的にやってのけるルキフェルもまた常人の領域ではなかった。

 ソフィーは黙って消毒用の壜を手に取り、布に薬液を染み込ませる。

「じゃあ、ここからは私がやります。じっとしていてください」

 そう言って肩口の傷に布を押し当てた瞬間。

「っ……!」

 マクシムの眉間に深い皺が寄った。片目を細め、無意識に椅子の背に手をかける。

「……いってぇな……もうちょっと優しくできませんか?」

「優しくしたら、きれいに消毒できません」

 ソフィーは手を止めず、むしろ容赦なく次の傷へと移る。薬液が染みるたびにマクシムの指先がかすかに震え、時折低く唸る声が喉奥から漏れた。

「……あー……ルキフェルの一撃より、こっちのほうが効くかもです……」

「大げさな」

 そう返しながらもソフィーの視線は真剣だった。

 やがて肩、腕、脇腹と一通りの処置を終え、包帯を巻く。巻き終えた瞬間、マクシムは息を吐いて背もたれに体を預けた。医務室の外ではまだ遠くで人々の歓声や笑い声が響いている。それらを背景に、二人の間には短い重みのある沈黙が落ちた。

 ソフィーは包帯の端を結びながらそっと言った。

「次は……もう、こんな怪我しないでください」

 マクシムはゆるく笑って即答する。

「それは約束できませんね。ルキフェル次第です」

 その無防備な言葉にソフィーは思わず息を呑んだ。冗談のようでいて、どこか本気の響きがあったからだ。

 ソフィーが包帯を整え終え、道具を片付けようと背を向けたその時。

「……待て」

 マクシムの低い声が背後から飛んできた。次の瞬間、腕を軽く掴まれる。

「な、何ですか」

「首、血が出てる」

 ソフィーは思わず手をやる。確かに指先が赤く染まった。エドガーの剣がかすめた時の傷だとすぐに思い当たる。

「これくらい、すぐ止まります」

「すぐ止まるかどうかは僕が決める。座れ」

「いえ、結構です。自分でやりますから」

「……」

「……」

 二人の視線が交わり、沈黙が落ちる。

 マクシムは引かない。ソフィーも負けじと立ったまま動かない。

 やがてマクシムが口の端を上げた。

「お互い様ですよ。僕もさっき、あなたにあちこち治療された」

「……だからって」

「いいから座って。僕がやる」

 彼の押しの強さにソフィーは諦めの息をついた。

「……じゃあ好きにしてください」

 ソフィーが椅子に腰掛けるとマクシムは手早く布と薬液を用意し、無言で首筋に触れた。ひやりとした感触がかえって胸の奥を落ち着かせる。狭い医務室に漂う薬草の匂いと塩気の混じった空気。

 マクシムは黙々と傷を拭い、包帯を巻いていく。その横顔は戦闘中の鋭さとは違い、驚くほど穏やかだった。

「動かないでください、まだ終わってないので」

「……ちょっと、遅くないですか?」

 ソフィーが横目で彼を見やる。

「私一人に任せた方が良かったでしょう?」

「うるさい、黙って」

 言い放ちながらマクシムは作業を続けた。彼の手が首筋を包帯でなぞるたび、皮膚越しに伝わる温もりが意外にも柔らかく、心の奥にじわりと広がっていく。

 ソフィーはわずかに背筋を伸ばし、余計な言葉を飲み込んだ。

「……よし、これで大丈夫」

 マクシムが手を離すとソフィーは机の上の小さな鏡を手に取った。首にはやや不器用に巻かれた包帯が白く浮かび、刃を受けたあたりにはわずかな血がにじんでいる。

「上出来ですよ」

 ソフィーが鏡越しに微笑むとマクシムは肩をすくめた。

「一人でも医療の心得があれば……例え最悪な状況でも、結果は大きく変わります」

 彼の言葉の端に戦場での重い記憶が滲んでいる。ソフィーが鏡を机に置くとマクシムの視線が首元で止まった。

「——その首飾り、立派ですね。それに……あなたがアクセサリーを身につけているとは意外です」

 ソフィーは思わず銀細工に触れた。龍と蛇が絡み合う細かな彫りの中央に淡い青のアクアマリンが光っている。

「これは贈り物です。大切な友人から預かっているんですよ」

 ソフィーの言葉にマクシムは一瞬だけ黙り、視線を外す。

「……そうですか」

 短い返事のあと、彼は包帯の端を指先で整えた。その仕草は先ほどよりも慎重で、何かを言いかけては飲み込み、口の奥に沈めたよう。

 ソフィーはそんな彼の横顔を横目に見ながら心の中で呟いた。

 ——何か言いたげだった。


 二人が医務室の扉を開けると、ブレスト城の中庭は静かでありながらどこか祭りの後の余韻を帯びていた。隊員たちは互いの無事を喜び合い、勝利を称え合っている。

 その中で二人の姿をいち早く見つけたのはダヴィットだった。

「隊長! ソフィー! ご無事でしたか!!」

 ダヴィットは全力で駆け寄り、二人の安否を確認するように目を輝かせた。

「隊長が海賊に攫われたとき、皆、どれほど心配していたか……!」

 マクシムは安堵の笑みを浮かべ、傷だらけの身体を少しだけ伸ばすように背筋を伸ばした。中庭の空気は戦場の緊張感から一変し、温かく柔らい。仲間たちの笑顔や掛け声が、心の奥底まで染み渡っていくようだった。マクシミリアン・ブーケ隊の面々が互いに労いの言葉を掛け合う。勝利の余韻に包まれ、和やかな雰囲気が漂っていた。

 ソフィーも勝利の余韻に浸っていると、背後から慌ただしい足音と共に声が聞こえる。

「ソフィー!」

 彼女が振り返ると焦った表情のグウェナエルが立っていた。眉を寄せ、少し息を切らしている。

「お疲れ様です、グウェナエルさん。どうかしまし——」

 ソフィーがにこやかに問いかけると、彼は間髪入れずに駆け寄って彼女の両肩をしっかりと掴んだ。

「その首の包帯……どうした!?」

 グウェナエルの目は真剣そのもので、普段の冷静さがどこか影を潜め、焦燥と心配が入り混じっていた。

 ソフィーは少し笑みを浮かべながら答える。

「ああ、ちょっと作業中にやっちゃいました」

 だがグウェナエルの目は一層鋭く、怒りと心配が混ざった声で返す。

「嘘を吐くな! 首に怪我なんて、大抵危険な目に遭ったことくらい分かるだろう!」

 ソフィーは一瞬言葉に詰まる。やがて観念したように小さく息をつき、口を開く。

「……エドガーに刃を突きつけられました」

 その瞬間、マクシミリアン隊一同の表情が凍る。中庭の空気は穏やかさを失い、緊張で張りつめた。

 グウェナエルは思わずソフィーを軽く抱き寄せ、肩越しに視線を巡らせる。

「……くっ、大丈夫か、ソフィー!」

 彼の声には焦りと安堵が入り混じり、普段の冷静さを完全に逸脱していた。

 ソフィーは少し驚きつつも柔らかな笑みで応える。

「大丈夫です。もう治療も済みましたから」

 それでもグウェナエルは彼女を離さず、しばらく手を握ったまま胸の奥に渦巻く焦燥と安堵を隠せない様子だった。

 ソフィーは少し顔を背け、手を軽く押しながら穏やかに言った。

「……あの、離してくれませんか? 本当に、もう大丈夫ですから」

 その声にグウェナエルは我に返ったように肩の力を抜き、やや恥ずかしげに手を離す。視線を少し逸らしながら小さな声で呟いた。

「……悪かった」

 短い一言だったが、彼の言葉には焦りと安堵、そして心配を抑えた男の誠実さが滲んでいた。

 事態の重さに皆が互いに顔を見合わせる中でリラが口を開く。

「隊長、ブレスト港で……エドガーの死体があったと噂を聞きました。本当ですか?」

 マクシムは静かに頷く。

「本当です。僕と、五鬼衆で仕留めました」

 シャルルの目が見開かれる。

「……なんですって?」

 真相を知らない一同の間にざわめきが広がる。

 驚き、疑念、そして興奮が入り混じり、中庭の空気は一瞬、混乱の色を帯びた。

 マクシムは手を軽く挙げ、声を落ち着ける。

「詳しい話は宿舎に戻ってからにしましょう。ここでは話すのが難しいので」

 隊員たちは互いに小声で顔を見合わせながらも、徐々に状況を飲み込み始める。

 戦場での興奮が収まりつつある中、これから聞かされる真実に誰もが少しだけ緊張を覚えた。

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