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第六章⑥ 戦闘の裏で

 ブレスト城の地下、湿り気を帯びた石壁と薄暗い松明の明かりが揺れる牢獄。

 その静けさを破るように、遠くから鈍い音が響いた。

 鉄と肉とがぶつかる乾いた衝撃音。見張りの兵が一人、また一人と声も上げられずに崩れ落ちていく。通路の奥から黒い影がゆらりと現れた。

 フェルナンドは手すりに寄りかかりながらその足音を見送る。

「……君は、誰だ?」

 影は鉄格子の前で立ち止まり、口元に人差し指を当てて小さく笑った。金の腕輪が怪しく光る。

「私はあなたの味方です。——助けに来ました」

「助け、だと?」

 フェルナンドの声音には半信半疑と警戒が入り混じる。男は腰から奪い取った鍵を取り出し、ゆっくりと錠を外した。

「もし、ボクが出ないと言ったら?」

「あなたを待つ人がいるのですよ。あなたが帰るべき場所まで送り届ける。それが私の役目です」

 フェルナンドの目が細くなる。

「……君はもしや、以前ベルリオーズとやりとりしていたのでは?」

「だったら、何だと言うんです?」

 男が一歩踏み出す。松明の光に照らされたその顔はかつてルソーもパリで遭遇した、あの男だった。

「ボクとベルリオーズに毒を盛ったのは、君の仲間か?」

「守秘義務がありましてね。答えることはできません」

 男は静かにナイフを抜き、刃先をフェルナンドの胸元に突きつける。

「エドガー・ロジャースに会いたければ、従っていただく。……いや正確には、エドガー本人が会いたがっているのです」

「船長が……?」

 フェルナンドは短く息を吐き、ほんの数秒、思案に沈んだのちにゆるりと笑った。

「——わかった。船長のもとへ案内してくれ」

 錠が開き、軋む音とともに鉄格子が押し開けられた。その奥から吹き込む外気は、海の匂いを含んでいた。

 牢を出た瞬間、男は松明を吹き消し、闇の中へ身を滑らせた。

 フェルナンドも迷うことなくその背を追う。足音はほとんどしない。時折すれ違う見張りは、気づく間もなく首筋を打たれ、音もなく倒れていった。男の動きは、まるで城内の全ての巡回経路と死角を把握しているかのように正確だった。階段を二つ上り、左手の廊下を抜ける。

 窓から差し込む日差しの下、フェルナンドはちらりと城壁の外を見やった。港側は黒い船を睨む海軍の視線で溢れているが、城の内側。つまり彼らが進む方向にはほとんど人影がない。

「……これは、警備が手薄すぎるな」

 フェルナンドが囁くと男は肩越しに笑った。

「手薄、ではなく……手を抜いているのですよ。目を逸らせば、捕らわれ人がいなくなるのも当然でしょう」

 男の言葉の通り、彼らはほとんど障害らしい障害に遭わなかった。

 唯一行く手を塞いだ兵も、男の短剣が鞘ごと顔面を打ち据え、一瞬で沈黙した。

 牢を出た二人は闇を切り裂くように廊下を抜け、裏門へ向かって進んでいた。灯りは最小限、曲がり角の先には必ず死角があり、巡回兵が姿を現す前にもう次の影へと身を潜めている。その動きは、まるで城全体が彼らのために用意された迷路であるかのように滑らかだった。


 ベルリオーズは戦況をもっと一目見ようと応接室を抜け出し、足音を殺して裏階段を降りて薄暗い廊下の端まで進んだ。その先にある小窓から、裏門へ向かう中庭が見下ろせる。 

 ──その中庭に、二つの影が現れた。黒衣の男と、その隣を歩く長身で整った姿勢の細身の男。

「……フェルナンド……」

 彼らの動きはあまりにも自然で、門番を避けているようには見えなかった。鍵も躊躇なく回し、錠前が静かに開く音が砲撃の音に溶けていく。やがて、二人は裏門の影へと吸い込まれるように消えた。

 ベルリオーズは手を伸ばしかけて──やめた。今はまだ追わない。何より、この動きはあらかじめ用意された道筋をなぞっているようで、不気味だった。


 同じ頃、別の廊下を抜けていたソフィーは外への小扉を押し開けた。石畳に陽光が照らされる中庭の向こう、ちょうど二つの影が城壁を背に動いていく。そのうちの一人の、優雅な歩き方に視線が吸い寄せられる。

「……あの背中……フェルナンド?」

 問いかける間もなく、影は外門の向こうへと姿を消した。冷えた空気が頬を撫でる中、ソフィーの頭の奥であの声が蘇った。


 ──次の戦闘、フェルナンドの動向に注意しろ。

 ──彼についていき、そこでおれたちのやることを見届けてほしいんだ。


 ジャスパーがそう告げた時の、真剣な眼差しが脳裏に浮かぶ。

「ジャスパーたちがやることって……何? それに、なぜフェルナンドが城外へ……?」

 胸に重く渦巻く疑問を押し込み、ソフィーは迷うことなく外門の方へと足を向けた。石畳に響く自分の足音が、中庭の静けさを切り裂いていく。

 外門を抜けると昼の陽射しの下、砂利道を叩く馬蹄の音が一頭分、遠ざかっていくのが聞こえた。小さな砂埃が風に舞い、その輪郭は道の向こうで蜃気楼のように揺れ、やがて視界から消える。近くには城付属の馬舎があり、藁の匂いと昼下がりの暖気が満ちている。

 柵の奥で黒い馬が首をもたげ、金色の瞳を細めてこちらを見ていた。グウェナエルが乗りこなすことで有名な気性の荒い馬だ。

 ソフィーは躊躇なくその前まで歩み寄り、黒馬の鬣にそっと指を差し入れる。

「……連れて行ってくれる?」

 ソフィーの囁くような声に黒馬はひとつ鼻を鳴らし、地面を蹄で軽く叩いた。

 まるで合図のように。

 次の瞬間、ソフィーは鞍に身を収め、黒馬の背が弾むのと同時に走り出した。

 昼光を裂きながら、二人が消えた方角——ブレスト港へ向けて。


 ベルリオーズは最上階への階段を駆け上がった。石の壁が狭く迫る螺旋を、靴音だけが反響しては遠ざかっていく。

 やがて開けた光が視界に飛び込み、屋上へ足を踏み出す。眼下には、ブレスト港の遠景が広がっていた。碧い湾の水面は昼の陽光をきらめかせ、帆をたたんだ船の群れが規則正しく停泊している。桟橋には荷を運ぶ人々の影があり、その足取りが白い波のさざめきと混じっていた。潮風が頬をかすめる。潮とタールと干し魚の匂いが一度に鼻腔を満たし、港町特有のざらついた空気が胸に入り込む。遠く、カモメの鳴き声が舞い降りては風に千切られ、海原の向こうへと消えていった。

 この景色の下で何が起きているのか。

 ベルリオーズの心臓はただ速く打ち、汗が背筋を伝った。港の向こうには、逃げる者が求める自由と追う者が背負う責務とが同じ水平線の上でせめぎ合っている気がした。

 ベルリオーズは躊躇なく声を張り上げた。

「大元帥! ご報告があります!」

 だが、その叫びは潮騒にかき消されそうなほど風の強い昼だった。

 彼が声を張り上げるや否や、近くにいた二人の司令官が反射的に彼を取り押さえた。腕を後ろにねじられ、背中に鉄のような力が食い込む。

「おっと、ベルリオーズくん! 勝手に部屋を出て!」

 アルフォンスの叱責が飛ぶ。しかしエリオットは視線を前方の情勢に固定したまま、眉ひとつ動かさず言った。

「ベルリオーズ、後にしてくれ。今は目が離せないんだ」

「それが——フェルナンドが脱獄しました!」

 ベルリオーズの叫びに応じて、屋上にいた司令官たちの視線が一斉に集まった。驚きと困惑、そして苛立ちが交錯する。

 エリオットの瞳は瞬間的に鋭く光った。アルフォンスとイザベルも瞠目する。周囲の司令官たちがざわめき立ち、彼を押さえていた手が遅れて緩んだ。

「ベルリオーズ、詳細を報告せよ」

 エリオットの声は冷たく、内側で燃えるような焦燥を帯びていた。

「俺は見たんです! 中庭の裏門から、フェルナンドと謎の男を! そいつは……俺がパリで頻繁にやり取りしていた、あの情報屋でした!」

 ベルリオーズの言葉が熱を帯び、喉がひりつく。

「その後すぐ牢獄を確認しました。見張りも衛兵も次々とやられていて……あいつ、只者じゃなかった!」

 彼の声が裏返る。足元がわずかに震えた。

「どうしましょう、この騒ぎに乗じて脱走だなんて!」

 アルフォンスの顔色が変わる。

「すぐに捕えねば!」

「……それに、後からあの女性軍医も出て行ったんです!任務も放棄して、出て行くなんてあり得ません!」

 次いで出たベルリオーズの吐き捨てるような口調に、エリオットの視線が鋭く動いた。

「……なんだと?」

 短い沈黙ののち、彼はイザベルへ向き直る。

「……イザベル」

「はい」

「これより、本作戦の全指揮権を君に託す」

 イザベルの視線は鋭く、その奥には覚悟と責任の重みが沈んでいた。

「状況、承知しました。全指揮権、拝命いたします」

 その瞬間、屋上の空気が一層張り詰めた。司令官たちは思わず息を呑み、彼女の宣言に背筋を正す。

「ですが、あなたは?」

 イザベルの問いに、エリオットの胸にはわずかな苛立ちと焦燥が巻き起こる。目の前の景色は遠くの港の碧と光の中に逃げる者たちの影を想起させた。あの自由と責務のせめぎ合いを、今度は自ら追いかけねばならない。

「私が二人を追う」

「では、私も!」

 アルフォンスが一歩踏み出す。

「アルフォンス、万が一のことがあったら大変だ。君は医療班と数名の隊員を率いて、慎重に行動せよ」

 エリオットの声には部下を思う親心のようなものと、指揮官としての厳しさが入り混じる。彼の視線が再びベルリオーズに向く。

「ベルリオーズ、二人はどちらの方角へ向かった?」

「はっ、おそらくブレスト港です! あそこなら船が停泊してます」

「ベルリオーズ」

「はっ」

「ありがとう。……裏切り者を炙り出してくれて」

 ベルリオーズは観察するように港の向こうを見やった。逃げる二人の足取りを想像するだけで心臓が早鐘を打ち、彼は思わず一礼した。

 エリオットは軽く頷き、残った司令官たちに踵を返して歩き出した。階段を駆け下りる足音が石の壁に響く。

「フェルナンドはともかく、ソフィー……なぜ君まで?」

 その時、頭の中に五鬼衆の影がちらつく。指名手配の紙面に描かれた顔が一瞬脳裏を過ぎった。

「結局、君は……あちら側なのか? ……許しはしない」

 港の潮風が再び頬を撫で日差しが波面を煌めかせる。だが、その光景は遠くに逃げる二人を追う決意をさらに鋭く燃え立たせるだけだった。

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