第六章① フランス海軍
夜明け前の空がまだ淡く青みを帯びている頃、ブレスト城に突如として甲高い声が響き渡った。
「敵襲だ──! 赤い旗の海賊船団がこっちに向かってくるぞーッ!」
波間に翻る赤旗が朝もやの中で異様な光を帯びていた。
海賊船団は一直線にこちらへ迫り、その艦列はブレスト城を射程に収めるべく港口を横切る形で進んでくる。
城壁下の兵舎や仮設の詰所にいた海軍員たちはその声を聞くや否や跳ね起きた。
眠気のかけらもない。銃や剣を手に取り、軍服を着込み、砲兵たちはすでに各砲座へ駆け出していく。
陸軍の姿はまだない。
ブレスト城の天守屋上。
総司令部の面々が夜風を切るように集まり、遠眼鏡で沖を睨む。
エリオット・ド・レオパード大元帥、第一艦艇部隊のルソー准将、そしてイザベル、アルフォンスら司令官たちが並び立つ。
「陸軍はまだか!」
エリオットの声が冷たい空気を裂いた。
「昨夜、届いた報せではランデルノーを通過したと……!」
副官の答えに、エリオットは深く息を吐く。
「全速で来ているはずだ、責めることはできん。──陸軍到着まで、この城は我らで守る!」
その時、イザベルが鋭く指差した。
「エリオット、あれを!」
沖合い、海賊船団の中央。そこに他の船を圧倒する巨体が黒々と海面を切っていた。
船体は漆黒に塗られ、船首には女神の意匠を模した飾り。艦腹には砲門がずらりと並び、黒鉄のような光沢を放っていた。
ルソーの声が低く唸る。
「……出やがったな」
エリオットは望遠鏡をわずかに傾け、その船影を見据える。
「エドガー・ロジャースの直轄艦。──『アン女王の復讐号』を模した怪物船、《リヴェンジ・クイーン》……報告通りだ。本気で来たな、あいつら」
エリオットは振り返り、側近に命じた。
「全砲台に通達! 中央の黒き艦を狙え。火力を一点に集中させ、必ず沈めろ! あれを討たねば、この戦いに勝ちはない!」
伝令は命令を胸に抱き、階段を駆け下りていく。城の各砲座へ、港口の砲台へ、浜辺の臨時陣地へ……矢のように指令が飛んだ。
エリオットは一瞬、全員を見渡した。
「ここが正念場だ。……頼んだぞ」
エリオットの重く深い声が、潮騒と砲車の軋みの中で響き渡った。
その刹那、沖合いでは黒船の帆が大きく膨らみ、海面を割るような轟音とともに一斉の砲火が吐き出されようとしていた。
霧を裂くように現れたその船影は、他の海賊船とは明らかに格が違った。
漆黒の船体は海面の反射すら呑み込み、波の上を滑る巨大な影のごとく迫ってくる。
船首には女神像。しかし、その顔は女神というよりも冷たい笑みを浮かべた処刑人のように見えた。
陽光を浴びても鈍く光る黒鉄の装飾が、船全体を棺のように引き締めている。
そして、マストの頂には一枚の旗。赤地に白く抜かれた髑髏。
その下から三本の剣が交差し、突き立つように描かれている。
見張り台の水兵が思わず息を呑む。
「……三本の剣だ……間違いねぇ、エドガー・ロジャースだ」
赤は殺戮の宣告、白き髑髏は正義と称された死。
三本の剣は、暴力による統治の象徴。
それは、降伏すれば生き残れるという海賊旗の古い掟をも裏切る「支配のための死」を意味していた。
旗は海風に煽られながら、冷徹な宣言を戦場に放ち続ける。
「この海は我々のものだ。抗う者はすべて滅ぶ」
海面を這うように迫る海賊艦隊。黒船を中心に、左右から大小さまざまな帆船が海面を覆い尽くす。
ブレスト城の屋上からはその全貌が一望できた。
陣地に待機する砲兵たちは、まだ引き金にかけた指をわずかに震わせている。
早く撃ちたい。だが、まだ距離がある。
狙いを外せば、こちらの位置を敵に晒すだけだ。
風が止み、砲台の火縄の煙すら薄く漂って消える。この静寂が、かえって兵たちの鼓動を早めた。
「……エリオット!」
イザベルが短く呼ぶ。声には焦燥と期待の両方が混じっていた。
エリオットは一歩前へ進み、海賊船団を真正面から見据える。その眼差しは、赤旗に描かれた髑髏と三本の剣を貫いた。
「——総攻撃だ」
低く、断固とした響きでエリオットが告げた。すぐさま横に控えていた司令官が声を張り上げる。
「砲撃隊、一斉砲撃せよ!」
その命令は城壁上の伝令たちへと伝わっていく。
「砲撃隊、一斉砲撃!」
「一斉砲撃、用意!」
まるで波紋のように各砲台へと広がっていくやがて前線の指揮官が火縄を握る兵たちに向けて叫んだ。
「砲撃隊……一斉砲撃! 撃てぇーッ!」
轟音が海を裂いた。無数の砲弾が空を横切り、海賊艦隊の赤旗を目がけて唸りを上げる。白煙が陣地を覆い、城壁を揺らす衝撃が兵たちの骨にまで響いた。
黒船までは遠い。しかし、前方に進み出ていた海賊船の数隻が轟く水柱とともに舳先を叩かれた。板が裂け、海水が激しく噴き上がる。砲弾は甲板をえぐり、マストの根元をかすめて帆を切り裂いた。
「くそっ、回頭だ!」
「全砲、右舷へ、撃ち返せ!」
海賊船団の甲板に怒号が飛び交い、船首が次々と海に対して弧を描き始める。舷側の砲門が、鋭い獣の眼のようにブレスト城を狙い始めた。
海賊船団の舷側が、次々と海に向けて口を開く。砲門の奥、暗がりに潜む鋳鉄の銃身が鈍く光った。船首を切った波が、朝陽の色を滲ませる。
——静まり返った。風の音さえも、遠くに引いていくようだった。
兵たちは息を詰め、指先が火縄に触れる感覚を確かめる。
対岸の海賊もまた、同じ沈黙の中で照準を合わせている。
その一瞬、戦場は凍りついたかのようだった。
次の刹那、獣が咆哮するような衝撃音が海峡を貫いた。
城壁も船腹も揺らす轟音とともに、砲弾が飛び交い、海面をえぐる水柱が互いの陣地を包み込んだ。
砲声が幾重にも重なり、空気が震える。
黒煙が城壁を舐めるように流れ、焦げた火薬の匂いが鼻腔を突く。




