第四章③ マクシミリアン隊
廊下にマクシムの切羽詰まった叫びが響き渡った。
「開けてください! 通してください!」
彼の声に続いて数名の隊員が背後から駆け込む。
廊下にいた他の隊員たちはその異様な様子に目を丸くし、呆然と立ち尽くすか、やむなく道を譲った。
マクシムは躊躇なく医務室の扉を開け放ち、勢いよく中へ飛び込んだ。
そこにいたソフィーはただ事ではない空気を瞬時に察し、慌てて彼に近づく。
「どうかしましたか!?」
マクシムの後ろからグウェナエルが現れた。
医務室の明かりが薄暗く揺らぐ中、ソフィーとアニータの視線が一瞬にして一つに注がれた。
グウェナエルの腕の中で、メリッサは血に染まった服を震わせている。
彼女の顔は青ざめ、かすかに震える唇からは、かすれた息遣いが漏れた。肌を伝う鮮血が、無残に裂けた傷口からぽたぽたと滴り落ちている。瞳は半ば虚ろで、それでも必死に周囲を見つめようとしているが、もう力が尽きかけていることを誰もが感じ取った。
ソフィーはその姿に言葉を失い、手早く救急箱から包帯を掴むも手が震えて動かない。
マクシムは唇を噛みしめ、短く絞り出す。
「メリッサ、しっかりしろ……絶対に助けるから!」
しかし、彼の声にはまだ現実感が欠けていた。
ソフィーはためらうことなく声を張った。
「すぐに診察します。メリッサをそこの寝台の上に!」
グウェナエルは震える手でメリッサをそっと寝台へ慎重に寝かせた。
メリッサの顔は蒼白で、微かな呼吸だけが静かに揺れている。
ソフィーが腹部を確認すると、そこには銃弾が二発深々と食い込んでいた。
一発は貫通し、その痕跡が裏側に赤い染みとなって広がっている。
さらにソフィーが後ろを振り返るとグウェナエルの右腕にも血がにじみ、かすかに震えていた。
銃弾が掠ったのだ。状況を冷静に判断したソフィーの表情が一瞬固まる。
それに、手術を施してもメリッサが助かる可能性は極めて低いことを理解していた。
「……これは……普通の手術じゃ、助からないわ…」
ソフィーの声は震えていない。冷静だが、どこか深い悲しみを含んでいた。
グウェナエルは苦痛をこらえながら、諦めの色を見せずメリッサの手を握り締める。
「まだ、まだだ……お前は絶対に、絶対に生きるんだ……!」
医務室には静かな緊張が張り詰め、時間だけが重く流れていった。
メリッサはかすかに目を開け、苦しげに呼吸を整えながらもグウェナエルの手を強く握り返した。
「……私、もう長くないって……わかってるんです」
メリッサは微かに笑みを浮かべ、かすれた声で囁いた。苦しい呼吸の合間に見せるその笑顔は儚く温かかった。
「最後に言えてよかった……ありがとう」
グウェナエルは目に涙を浮かべ、必死に彼女の手を握り返した。
「俺たちがずっとそばにいる。夢じゃなく、現実に……」
メリッサは弱々しい声でマクシムの方を見つめた。
「ここで最期になってしまうとは思いませんでした。申し訳ありません……」
彼女は少しだけ息を整え、続ける。
「わたし、最期までお役に立てたでしょうか?」
マクシムは深く頷き、揺るがぬ眼差しで答えた。
「君はいつも明るくて、美味しいご飯を作ってくれて、みんなの太陽みたいな存在だった。だから、僕は君に奇襲の指揮を任せて本当に正解だったよ」
マクシムは優しい声で続ける。
「あの時のメリッサの勇姿は、僕の誇りだ。一生忘れない」
それから、彼は言葉を詰まらせながらも続けた。
「それに、君が僕とグウェナエルを庇ってくれたことも……」
彼の言葉にソフィーはハッと息を呑み、目を見開いた。
メリッサは微笑みを浮かべ、涙を零しながらも弱々しく答えた。
「そんな風に言ってもらえて……嬉しいです。私、ずっと皆の役に立ちたかったから」
メリッサは震える手でマクシムの腕を軽く握り、吐息のように呟いた。
彼女は微かに息を整えながら、今度は震える声でペネロペの名前を呼んだ。
「ペネロペ……わたし、ひとりにさせちゃうよね。ごめんね、いつもあなたと一緒にいられた時間が、わたしの宝物だったの」
メリッサの瞳は涙で潤み、言葉の端々に切なさと感謝がにじんでいた。
ペネロペは涙をこらえきれずに声を震わせながら答える。
「そんなこと、言わないでよ。あたしはずっとあなたと一緒だった。どんなに離れても、心はずっと繋がってる」
ペネロペは深い悲しみとともに、まるで誓うように言葉を続けた。
「メリッサ、あなたはあたしの光で、笑顔で、強さで…これからも、ずっとあたしの中で生き続けるんだ」
メリッサは微笑みを返し、ペネロペの手を強く握った。
「ありがとう……あなたがいてくれて本当に幸せだった」
二人の間に流れる時は、儚くも永遠の絆を刻み込むように静かに満ちていった。
メリッサの寝台のまわりは薄暗い医務室の灯りに照らされ、緊迫した空気が漂っていた。
最も近くにはソフィーが冷静にメリッサの容態を見守っている。彼女の隣には、ずっとそばに寄り添うペネロペ。彼女の瞳は涙で潤み、手をぎゅっと握りしめている。
マクシムは険しい表情でその場に立ち尽くし、グウェナエルはメリッサの手を握り続けた。
アニータは涙をこらえ、ジョルジュとダヴィットは顔を強張らせ、サミュエルは拳を握りしめている。
ロザリーとリラは二人でひそひそと涙を拭い、部屋の隅ではスザンヌとリゼーヌが身を寄せ合って見守っていた。
そんな中、医務室の扉がゆっくりと開いてシャルルが入ってきた。彼の表情は怒りと焦燥、そして何か言いようのない複雑な感情が入り混じっていた。しかし、彼もまたメリッサの痛々しい姿を見て言葉を失った。
メリッサの傷は徐々に悪化し、腹部の銃弾の貫通跡は広がり、呼吸も浅くなっていく。彼女の顔は青白くなり、汗が額を伝った。
呼吸が止まるのも時間の問題だとソフィーは感じていた。
メリッサは静かに目を開け、部屋にいる皆に向けて微笑みながら、ゆっくりと口を開いた。
「みんな……ありがとうございました」
メリッサの声はか細いが、皆の胸の奥に響く。
「どうか……あの海賊を恨まないでください」
彼女の言葉に一瞬、場内が凍りつく。誰かが「でも、あいつは……」と反論しかけたが、メリッサは手を弱々しく振りながら続けた。
「わたし……思うんです。復讐って、嫌い。憎しみの連鎖は……もう、たくさん。殺し合いが、どれほどの悲しみを生むか、何度も見てきました。みんなは……良い人ばかりだから、どうか、仲良くしてほしい」
その言葉のあとメリッサはかすかに息を整え、最後の力を振り絞るように続けた。
「わたし……ここで皆と出会えて、本当に幸せでした。怖いことも、辛いこともあったけど……でも、みんながいてくれたから、笑うことができました……ありがとう、みんな……」
メリッサの瞳がゆっくりと閉じられ、静かな呼吸が止まる直前、かすかな囁きが漏れた。
「どうか……生きて、笑って、幸せになってください……」
メリッサの身体から力が抜けていく。
まるで春のそよ風に消える花びらのように、静かにその命は消えた。
メリッサの呼吸が止まり、室内が静寂に包まれた瞬間、ソフィーは目を伏せて涙が頬を伝うのをこらえた。
医者として多くの命を見てきた彼女だが、今回はただの患者ではない。
仲間であり、家族のような存在だった。胸が締めつけられ、言葉にならない哀しみが彼女を覆った。
ペネロペは堪えきれずに肩を震わせ、嗚咽を漏らす。彼女はメリッサとの思い出が走馬灯のように駆け巡り、苦しい感情とともに「あの子の笑顔が消えてしまった」という現実を受け入れられなかった。涙でぼやけた視界の中、メリッサの腕にそっと手を伸ばし、震える声で「ありがとう」とだけ呟いた。
マクシムは無言のままメリッサの顔を見つめ、その美しい横顔に手を触れた。心の奥底に溢れる言葉があったがどうしても口に出せず、ただ静かに瞳を閉じた。彼女の勇敢さと明るさが、これからの彼らの道標になることを確信していた。
アニータは冷静を装いながらも、瞳の奥に濡れた輝きが浮かんだ。戦いの最中で見せた彼女の強さは、今や繊細な悲しみとなって静かに滲んだ。短く息を吐き、メリッサの名をそっと呼んだ。
ジョルジュとサミュエル、ダヴィットはそれぞれ表情を曇らせ、固く口を閉ざした。彼らもまた、それぞれの想いを胸に秘め、静かな哀悼の時間を過ごしていた。
ロザリーとリラはメリッサのそばに寄り添い、スザンヌとリゼーヌは肩を抱き合ったまま涙を流す。言葉はなかったが、その沈黙が彼女たちの深い絆を物語っていた。
シャルルの手には、ほんの少し震えが残っていた。かつてないほど冷たく硬直した拳。
そこには、さっき自らの手で葬ったあの海賊の血がまだ生々しくこびりついていた。部屋の片隅で静かに息を引き取ったメリッサの姿を見つめると、心の奥から締め付けられるような感覚が押し寄せてきた。
彼女の最後の言葉——「どうか、あの海賊を恨まないでください」——が、まるで鋭い矢のように胸に刺さり、何度も何度も折り返し突き刺さっては深く抉っていく。
「本当に、これでよかったのか」
シャルルは何度も自問した。
憎しみと復讐の果てに手にしたのは、果たして救いなのか。
それとも、終わりの見えない悪循環の始まりなのか。
彼の瞳はうつろになり、かすかな涙がこぼれ落ちた。
それは怒りや悲しみではなく、理解しきれない複雑な感情、罪悪感と哀惜が絡まり合った涙だった。
その時、ふとメリッサの微笑みが脳裏に浮かんだ。痛みの中でも明るく、仲間を思いやったあの優しい笑顔。
「彼女は本当に、みんなが仲良くしてほしいと願っていたんだ……」
その想いがシャルルの胸の奥で静かに根を張っていった。
復讐に燃えた心は、次第に静まっていく。彼は血のついた手を見つめながらまだ届かぬ答えを求めてただ静かに立ち尽くしていた。
グウェナエルはメリッサの冷たくなった手を握りしめたまま、重苦しい沈黙の中に立ち尽くしていた。まるでその手の温もりがじわじわと自分の指先から消え去っていくかのように感じられ、心の中でぽっかりと大きな穴が開いたようだった。
「あの笑顔はもう二度と見られないんだ……」
思い出が胸を締め付ける。彼女がキッチンで慌ただしくも楽しそうに鍋をかき混ぜていた姿。疲れて帰った時、ささやかな夜食を用意してくれていた優しい気遣い。ふと彼の脳裏をよぎったのは、深夜の静かな船内で、メリッサがそっと差し入れてくれた温かいスープの味だった。
彼女の存在が、日常のすべてに彩りと温かさを与えていたことに改めて気づかされる。
「誰が俺に夜食を作ってくれるんだよ……」
その声は震え、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。涙がこぼれ落ち、無意識に彼の顔を伝い、深い喪失感と孤独感が胸を押しつぶす。
「もうメリッサはいない。戻ってはこない。」
その冷たい現実が彼を締め上げ、心の中の大切なものを失った痛みがゆっくりと波のように押し寄せてきた。
グウェナエルはまだ冷たくなったメリッサの手を握りしめたまま、そのぬくもりが消えゆくのを必死に留めようとしていた。しかし、心の奥底では激しい葛藤が渦巻いていた。
「こんなことで……俺は折れてはいけないんだ」
体に走る激痛にもかかわらず、右腕の袖がじわじわと血に染まっていることにも気づかないふりをした。
「メリッサがこんなに頑張ったのに、俺が弱音を吐くわけにはいかない」
彼の瞳には涙があふれ、声にならない嗚咽が漏れそうになる。だが、その涙はすぐに強い意志へと変わる。
グウェナエルはゆっくりと負傷した右腕を振りほどき、歯を食いしばりながら立ち上がった。揺れる足取りで医務室の扉を押し開け、冷たい夜風が吹き込む廊下へと歩み出す。傷の痛みを気にも留めていないような、その無骨な背中が闇に溶けていった。
ソフィーはしばらく静かに医務室の隅で呼吸を整えていたが、やがて手に包帯とランタンを握りしめると、そっと仲間たちの輪から離れてグウェナエルの後を追った。彼の背中を見つめながら、わずかに落ちる血の滴を辿って歩を進める。




