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第二章④ マクシム

 マクシムはすでに着替えを終えると、何気ない足取りで廊下を進んだ。

 行き先は特に決めてはいなかったが、気がつけば医務室の扉の前に立っていた。

 軽くノックをしてから中へ入ると、そこはひどく静かだった。

 窓から差し込む昼の光が、白い壁と薬棚を淡く照らしている。しかし室内にアニータの姿はない。

 代わりに、奥のベッドに横たわるソフィーの姿があった。

 彼女は額にうっすらと汗を浮かべ、高熱にうなされながら浅い呼吸を繰り返している。掛け布の端が胸元までずれており、無意識に動いた手がシーツを握りしめていた。

 マクシムはしばらく足を止め、静かにその様子を見つめた。

「……こうして彼女を見ていると、あの夜を思い出すな」

 低くこぼれた声が、閉ざされた空気に溶けた。


 ——あの海上実習の事件当時。

 訓練船の消息を絶ったとの報を受け、マクシムたちは緊急出動を命じられた。

 夜明け前に港を発ち、冷たい風を切ってブレスト海峡へ向かう。

 波間に浮かぶ影を見つけたのは、現場に着いて間もなくのことだった。

 事前に聞いていた特徴と一致する——間違いなく訓練船だ。

 近づくにつれ、その無惨な姿が露わになる。

 帆は裂け、船体には無数の傷。甲板には若い訓練生たちが倒れ、呻き声と風の音だけが漂っていた。

 マクシムはためらうことなく跳び移り、救助に加わる。

 甲板にうずくまっていたジョルジュを肩で支え、仲間へ引き渡すと今度は船尾へと足を向けた。

 ——そこに、ひとり倒れている少女の姿。

 亜麻色の髪は波打つ海のように乱れ、制服は血と汚れで裂け、痛々しいほどにボロボロだった。片手は無造作に伸びている。

 まるで命が尽きたかのように静かなその姿に、マクシムの胸はざわついた。

 近くには不自然に配置された一台の砲台。静かに、だが異様な存在感を放っていた。

 もし、彼女がそのまま動かなかったら——。

 胸の奥が凍りつく。だが、彼が近づいた足音に呼応するように、ソフィーの指先がかすかに震えた。

 夜明けの薄明かりが船尾の薄暗い空間を徐々に満たしていった。冷たい波音の中、静かに訪れた新しい朝の光が、傷ついた彼女の姿を柔らかく包み込む。

 その光の中、ソフィーがゆっくりと顔を起こした。半ば朦朧としながらも、その瞳は確かにこちらを捉えていた。

 マクシムはすぐさま彼女の目の前に跪き、優しい声で語りかけた。声には夜明けの光の清らかさが宿り、鋭く研ぎ澄まされた戦士の顔とはまるで違う、深い慈愛が滲んでいた。

「よく耐えてくれました」

 マクシムは自身の名と役職を告げた。

「僕はマクシミリアン・ブーケ。部隊の長をやってます。僕たちが来たからにはもう、大丈夫ですよ」

 そして彼は問いかける。

「一人で立てますか? 僕でよければ支えます」

 ソフィーは初めて聴く、弱くも凛とした声で答えた。

「……大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 彼女の声は、凄惨な状況の中にあっても毅然としていた。

 ソフィーが立ち上がるのを見届けたマクシムが、背を向けて歩き出そうとしたその時だった。

「隊長……なぜ、私たちを助けてくださったんですか…?」

 ソフィーの震える声で問いかけられ、マクシムは弾かれたように振り返り、目を細めて答えた。

「そんなの、決まってますよ。助けられる命を、見捨てる理由がありますか?」

 その言葉に、堰を切ったようにソフィーは泣き崩れた。

 悔しさと安堵、そして無力感が入り混じった涙。

 マクシムは動じることなく、彼女が落ち着くまで傍に跪き、肩をそっと抱いた。

 ——そこに、揺るぎない信頼と絆の瞬間があった。


 マクシムは静かに彼女のベッドに腰を下ろした。

 まだ高熱にうなされるソフィーが苦しそうに身をよじっている。

 その横で、マクシムはふと微笑んだ。

「軍医を目指すから留年したって聞いた時は正直驚いたよ」

 彼の声は柔らかく、どこか懐かしい響きを帯びていた。

 士官学校の教官がマクシムに「ソフィーは留年しました」と教えてくれた時、彼は内心では彼女の強さと覚悟をまだ測りかねていた。

 しかし今こうして隣にいる彼女を見れば、あの決断が彼女の覚悟の証明だと痛感せざるを得なかった。

 マクシムは目を細め、そっとつぶやいた。

「まさか、本当に貫くとはな……」

 そして静かに彼女のそばに座り続けた。ふとマクシムの視線が窓の向こう、狭い窓枠の中で雲の切れ間の向こうに広がる青い空へと向く。その瞳にあの時の面接の光景が鮮やかに蘇る。

「そういえば、君が隊に加わったあの日も緊張した顔をしていたね」

 彼は自嘲気味に微笑み、ふと思い出す。

 ソフィーがまだ若く、必死に自分の価値を証明しようとしていた姿。

 血筋や出自を巡る壁に直面しながらも、決して折れずに向き合った彼女。

「君が自分の力で道を切り開くことを選んだとき、僕は確信したよ。君となら、どんな困難も乗り越えられる」

 医務室の静かな空気に、マクシムの思考は静かに漂っていた。

 眼前のソフィーの荒い呼吸が部屋の静寂をわずかに揺らす。

「この子は、ここまで戦ってきたんだ」

 そんな思いが胸に込み上げてくる。

 かつて自分が面接で彼女を見つめたあの日のことも、はっきりと思い出される。

 薄暗い医務室の窓からは午後の柔らかな光が差し込み、埃混じりの空気を黄金色に染めている。壁に掛けられた古びた時計の秒針が、無情にも時を刻む。

 ベッドに横たわるソフィーはまだ熱にうなされながらも静かに眠っていた。

 その亜麻色の髪が白い枕に広がっている。手足は細く、だがどこか決して折れぬ強さを秘めているように見えた。

 マクシムは心の奥底から湧き上がる感情を抑えきれず、胸の内をつぶやく。

「君が自分の力で切り拓く道を選んだことを、僕は誇りに思う」

 ベッドの上のソフィーはまだ熱にうなされているが、その呼吸は少しずつ安定しつつあった。

 彼はソフィーの熱い額に優しく額を寄せるように手を添えた。

 自分が彼女を守らねばならないと、改めて強く誓う瞬間だった。

 やがて、彼の目にはほんの少しの涙が滲む。

「もう少し、頑張ろう。ここからが、本当の戦いだ」

 静寂の中で、ただ二人の呼吸が織りなす命の音だけが響く。

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