第八話
「先生、こちらの分の仕分け終わりました」
うず高く積まれた書類の向こうへ声をかける。
ん、と返事は短く素っ気ないがいつもの事だと私は次の作業へ移る。
広くて狭い部屋の隅に置かれた小さな机は、私専用に最近持ち込まれたものだ。
そこには羽根ペンとインク壺、そして整然とした羅列とそれを書き写している途中であろうと見受けられる……ミミズがのたくったようなとまではいかないものの整ったとは言い難い形状のそれ、が書かれている紙が数枚乗っている。
見本は書類の山の奥に沈んでいる私が先生と呼ぶ人が書いたもの。
ミミズ以下略はもちろん私の精一杯の努力の結果である。
羽根ペンにインクをつけて書くなどという経験が乏しく、私にとってまともに線を引くという行為の難易度そのものが高いのである。
そしてなにより私は苦手なのだ。外国語の勉強というものが!
日本で生まれて日本に住んでいて日本から出る気がサラサラないんだから別に外国語できなくてもよくない!?
おかげで学生時代の英語の成績は最低限赤点を取らなければいいや程度のものだった。
ついでに数学も散々なものだったけれど以下省略。
で、私が何故いまさら外国語、というかこの国の言葉を学んでいるのかといえば――。
「ところでミカ。あなた読みは出来るようですが書く方はどうなんですか?」
「うえっ?」
ボロッボロに泣いていたところへ宰相のこの質問。
も、もうちょっと待ってくれてもよくない?
私いまいい歳した大人がどうなんだって勢いで泣いてたんですけど。
「どうなんです?」
……待ってくれる気はないらしい。
宰相殿は涼しい顔で繰り返す。
「ためしたこと、ないです」
話す言葉と同じく当たり前のように文字は読めたけれど、ミシュクルの屋敷の外に知り合いもおらずそこから出る事もなかった私にはこれまで文字を書く必要も機会もなかったのである。
ちなみに読めると言ってもこの世界の文字そのものを読んでいるわけではなかったりする。
どういうシステムなのかアルファベットに近い見た目の文字の羅列を透かして日本語の訳文が浮かぶのを読み取っているのだ。
だから文章の意味は理解出来てもそれを構成している文字列そのものは読めていない。
書き出して初めて訳されるので、おそらく文字列の中からピンポイントでこの単語を抜き出せと言われてもわからないんじゃなかろうか。
ひとしきり考えて、
「書けない、気がします」
素直に答える。
誤魔化してもしょうがない。
「ふむ、なるほど。まぁ行き先はもう決まっているのですがね。彼にもう一つ頼み事をするとしましょう」
「えっ」
「ひとまずあなたが書ける文字でここにサインをいただけますか。あなたを雇用するにあたっての契約書兼誓約書です。かえって偽造を防止出来ていいかもしれませんね。ぜひあなたの世界の言語体系を知りたいものです」
「あの、」
あ、内容はよく読んでくださいね。
大丈夫です、普通の契約書ですから。
なんてにこにこ笑っているけれど、いやそれ逆に怪しいのでは?と思わずじっくり読み込んでしまった。(本当に普通の契約書だった。たぶんだけれども)
「って、そうじゃなくてですね」
「配属先がすでに決まっているのが不思議ですか?」
「それもそうですけど、どうせいくらか候補は絞っていたのでしょう?」
「まぁそうですね。ヴァリス殿からの前情報もありましたし、陛下が私に任せるだろう事も予測出来ましたから行き先は始めからほぼ決めていましたよ」
「ほぼ決めてって……文字を書くような所なんですよね?それって結構重要な部署じゃないんですか」
「機密情報もあるでしょうね」
「いいんですか?そんな所にこんな得体の知れない異世界人をやって」
「得体は知れずともある意味で身元ははっきりしているじゃないですか。異世界人という身元が。ヴァリス殿の保証もありますしね」
楽しそうに言葉は続く。
「考える頭とまぁまぁの倫理観とこうやってわざわざ自分の立場を確認する慎重さがあり、しかしながら何かを知った所で漏らす先は持ち合わせていない。これまでも、そしてこれからも」
「うっわぁ……」
「おや、""物語""を知っているなら今更驚く事でもないでしょう?」
「いえ……これは驚きというよりドン引きです……。あなたの交友関係全部把握しますよ宣言……」
「あなただけに限った話ではありませんがね」
「……」
だろうなと思ってしまうくらいにはこの人が厄介なのはわかっていたけど、いたけども。
「あぁもし私以外に楽しい相談をするような相手が出来たなら先に教えておいてくださいねぇ。間違ってしまう前に、ね?」
何を間違うのかとか、誰が間違うのかとか、どう間違うのかとか。
聞くと余計に疲れそうなのでやめておいた。
迎えに来たヴァリスさんが抱えて帰ろうかと――むろん姫抱きである――心配する程にはすでに疲れ切っていたのだけれど。
そういうわけで、現在の私は配属先でのお仕事とは別にこの世界での言語を学ぶ使命を与えられたわけである。
この部署に来てすでにひと月程。
初日に宰相おん自らここまで案内してくださいまして。
さらに先生こと宰相補佐官――実質文官筆頭にあたるらしい――フィスクレート・ティエ・シェラデ様に直々にご達しなされたのです。
『あなたもそろそろ弟子をとってはどうかと思っていたのですよ。使えない事もないと思いますからどうぞ頑張って。あぁ読み書きですが、どうも異世界人ゆえか読めはしても言語としては理解していないようです。教えて差し上げてくださいね』
朗らかなその言に対する先生の目に苛立ちの炎が揺らめくのを私は確かに見た。
というか、突然やって来て突然ド新人を弟子にしろと押し付けてさらに突然余計な仕事を増やされたら誰だって機嫌を損ねるだろうけど。
ただでさえこの人は王宮の中で屈指の忙しい人なのだ。
机の上の書類は減らしたそばから同じかそれを超えるだけの量が増える。
処理した案件に応じた指示を出すのもこの人だし、審議が必要であればその会合にも出席しなければならないし、終わればまたその案件をまとめるのもこの人だ。
部下もいるのだけれど彼らは彼らで大量に回ってくる案件を上にあげ、上から戻って来たそれをまた末端へと分配し、と。
この部署全体が忙しく、その筆頭がすなわち宰相補佐官殿なのである。
人手は足りないが、ド新人突っ込んだ所で教育する手間が増えるだけなのだ。
それを宰相は先生が口を開く前に、
『あなた、まだ余裕でしょう?』
一蹴して去って行った。
私を、刺々しい視線の目の前に置き去りにして。
安定してそう間もないこの国において、宰相の忙しさも確かに相当なものではあるはずだけれど――本人が涼しい顔をしてあちこち首を突っ込んでいるからあまりそうは見えないのだ――。
先生と宰相は同じ師匠のもとで学んだ学友である。
この国が興る以前、流浪時代に宰相が軍師として請われ、その後この地に落ち着くにあたり手が――どちらかというと頭かもしれない――足りないという事で宰相が先生を呼び寄せた。
しかしながら二人は仲がすこぶる悪かった。
正確には宰相は先生を高く買っていて気に入っているようなのだけれど、先生の方が一方的に近い形でライバル視しているのだ。
昔から学でも舌戦でも一度も勝てた事がないのだとか。
相手には歯牙にもかけられていない自分が腹立たしく、また情けないのだとゲームの中では吐露している。
天才鬼才と呼ばれる学友はそれ故に近寄りがたく孤立しがちで、せめてライバルとして相対して立っていたいのにと。
ファンの間では鬼才のネブラと秀才のフィスと呼ばれていた。
飄々と先を行くくせに、気まぐれに気に入りの先生にちょっかいかけるからややこしい事になるんだけどやめる気はないんだろうなぁあの人。
親愛の表現にしたって面倒な。
ちなみにだ。
先生も攻略対象の一人なのである。
十代後半の主人公に対して三十代半ばという一番年の差のあるお相手だ。
王宮で暮らす事になる主人公にやっぱり宰相に押し付け……依頼されこの世界で生きていく為の様々な知識を授けてくれる。
逆に主人公によってもたらされる異世界からの知識を上手く施策に採り入れたりして、教え教えられる関係を二人で築いていく。
素っ気なくはあるけれど包容力があり落ち着きがあり、一度は気の迷いだと主人公を遠ざける分別のある大人……なのだが、しかし少しばかりライバルを拗らせていた。
そう、フィス先生を攻略するにあたっての障害はアルくんに続いてまたしても宰相なのである。
普通恋敵って女の子じゃない?
なんでこのゲームの恋敵男ばっかりなの?
「――おい。おい!」
「ハッ!はい!」
「名は」
どうでもいいけれど、イラついた人の目の前で物思いにふけるとは我ながらいい度胸してんなとこの時私は思ったのだった。
「ミカと申します!こちらでお世話になる事になりました。よろしくお願い致します!」
「言っておくが、オレは弟子はとらん。言語についてはひとまず必要なものだけ覚えろ。他は子ども向けの書をやるから自分でやって来い。読めはするんだな?であれば書類整理ぐらいは出来るだろう。それすら出来ないならここでは役に立たん。ヤツに叩き返す。いいな」
「は、はい!」
返事を聞く前に先生は背を向けて書類の山へと向かっている。
時間が惜しいとその背は言っている。
私は慌てて追いかけ、そして冒頭へと至る。
役に立たなければ叩き返す。
素っ気なく言いながら丁寧に仕事も勉強も合間を縫って教えてくれる先生は、とても面倒見がいいのだ。
本人は絶対に認めないけれど。
自主学習をするべくヴァリスさんにも何かいい教本はないかと聞いてみたところ、何故だか『私が教えますよ』とヴァリスさんによる勉強会が日課として発生してしまった事を余談として記しておく。
この人も忙しいはずなんだけどな?