最終話:始点
闇。果てのない一面の暗黒。
そこには何もない。
虚無。
それこそが、命が最後に行き着く処。
「……終わった、か……」
それは声ではない。少年の思念である。
この黒こそが、彼の死が在る場所なのだ。音というものさえ存在し得ないのだ。
不安と恐怖。その象徴たる闇に在って、不思議とその意識は穏やかだった。
そこは、自身に出せる総てを出しきって至った暗闇なのだ。
死に至る直前の行動が、どのような結果に辿り着いたのか。
少年にそれ知る術はないが、それは必要のないこと。
彼にとっては省みることなど、何もないのだ。
不意に。
――トクン。
闇が揺れる。闇が蠢く。
――トクン。
闇が、騒ぐ。
「……くっ!」
痛覚などないはずなのに。
音などないはずなのに。
ただ、虚無であるはずの世界なのに。
確に、その意識は感覚を、知覚を、存在しているものだと認識していた。
それをもたらすものは、鼓動だった。
「……何を悟っている?」
思念が割り込む。別の意識のものではない。同一人格の意識に、同一人格の意識が反応しているのだ。
それは普段、故意に押し殺された少年の意識なのだろうか。それとも深層心理というものだろうか。或いは、死の淵に潜む人を誑かす存在なのか。
「黙れ」
不機嫌そうに、一つは返す。
「黙れないさ。俺なんだから」
それは、酷く彼じみて伝える。
「ふざけるな!」
「ふざけてないさ。認めろ。お前は恐怖している。このまま果てることを拒絶している」
「黙れと言っている!」
それはその意識を取り繕うように怒鳴った。
「……怖いんじゃないな。真の孤独を避けたいだけだ」
だが、それはただ、蔑み嗤う。
鼓動は益々、闇に激しく響いた。それに呼応して、世界そのものが、一面の黒そのものが、激しく揺れ蠢く。
「俺は――」
足掻けよ。無様だろうが。
縋れよ。忌み嫌う力だろうが!
交わる思念。統合される意識。どちらともなく。
「鈴が必要な限りは…… 俺は死ねないだろ?」
「どこまでも俺を縛る……厄介な鈴だな! ……」
鼓動は。虚無の闇に光を産んでいた。
降り頻る雨の中。
傘も差さずに、それに打たれ。歩み始めた青年の足が止まる。
「なんだと!? ――」
あり得ない感覚を覚え、蒼司は驚きを漏らした。
その感覚の正体は邪気。
人ならざる『魔』の撒き散らす瘴気だった。
彼の愛刀。邪気の源は、少年の体から引き抜かれた童子切の発するものでは、決して違う。
地べたに横たわらせた、黒衣の滝口を振り返る。
「――お前か……」
その言葉を呟いたときには、蒼司は薄く笑っていた。
確かに。人であるはずの少年から、その邪気は産まれていたのだ。
青年の視線の先。少年を死へと至らしめた、童子切で刺し貫いたはずの、左胸が驚くべき速度で復元、再生されていく。
「……なるほど、な……詩緒。私とお前とは、ここまで対極にあるのだな……」
人の姿のまま、邪気を発する少年。
蒼司は解する。
自分は外部から『魔』の力を取り込み、力として利用した。対して、少年は内に秘めたその力を、人のまま使う可能性を秘めていたのだと。
渡辺詩緒という人間が『魔』に堕ちるとすれば。少年のよく知る、その成れの果て。鬼へと変じるはずである。
青年の感じる瘴気は、正にその魔性の発するものであった。しかし、少年はその姿を人ならざるモノに変える気配はない。
「……恐ろしい男だな。この場は私の負け……そういうことか」
ふっ、と一つ笑う。
戦闘能力の増強たる力を、文字通り断たれた青年と。それを未だ秘めていた少年と。
この後、再戦を行ったところで、結果は明白である。
加えて、純粋な剣術という戦いに於いても、少年は瞬間的にとはいえ、青年を遥かに凌駕して見せたのだ。
「……その力を完璧に使いこなす、お前を待たせてもらおう……」
蒼司は止めていた足を、再び先へと向けた。
荊棘の道の果て。死という結末を以って。止められることを望んでいた、かつての滝口には、新たな道が開かれていた。
それは唯一無二であった親友の代わりとなることに近い。
敵対者として、ではあるが、青年は少年にとって、明確な標となるだろう。超えるべき壁となるだろう。
そして、青年にとっても。
限界を感じつつあった自身に、少年は未来を垣間見せたのだ。
そして、何よりも。
「……共に高め合う、か。悪くないだろう? 詩緒……何れ、私とお前の力は必要となるはずだ……」
振り返ることなく。蒼司は呟いた。
断ち斬られたはずの。消失したはずの童子切の刀禍。
だが、その青年の手にある鞘へと納刀された妖刀は、薄くではあるがそれを再び発生させていた。
徐々に、徐々に。
呪は明瞭なものへと変じている。
それが示すのは、ただ一つの凶事。
伝説にある、その名刀で首を刎ねられ、滅したとされる鬼の王。その鬼の王は未だ存命し存在している。その事実。
死した者の怨念であるのならば、こうして再び、刀禍が生じるはずはないのだ。
生霊。元凶はまだ、その刀を生きながらに怨み続けている。だからこそ、呪は再生される。
「――また、相見えよう」
何時か。青年の歩む先に、再び少年と相対することを確信して。
青年の姿は雨の中、夜闇の中に消え失せた。
少女は直向きに走る。
鍛えられていたはずの体力も、実戦――命のやり取りを初めて行ったということに、予想以上に消耗していた。
いつもよりもその足が重い。
思うように距離を縮められない。
それでも懸命に走り抜くも、少女が目的地に辿り着いた時には、すでに雨は上がっていた。
スコールのように激しい雨を降らせた分厚い雲は流れ、空には薄雲の幕の上に、月がその輪郭を朧に浮かび上がらせていた。
大きな屋敷の並ぶ住宅地。
深夜と呼べる時間帯に達していたその場所は、ただ静まり返っていた。
その中でも一際大きな、少女の眼前の屋敷。それは内部に生在るモノの気配を感じさせず、まるで異界への入口の様に大きな門を開け放っていた。
琴音は息を呑む。
呼吸を整える時間を使い、覚悟を決める。
この中には探し続けた兄がいるはずなのだ。
しかし、それは感動の再会には程遠いものになる算段が極めて高い。
なによりも。この門をくぐるということは、日常との決別を意味することになるのかも知れないのだ。兄は世界の裏に生きる人間なのだから。
それでも。
深呼吸を大きく一つ行うと、琴音は敷地へと足を踏み入れた。
直後、緊張がその身を支配する。
「何!?」
自身の存在を悟られぬようにと思いながらも、しかし、小さく声を漏らしていた。
前方から近付いて来る足音が、その耳に聞こえたのだ。
雲間から覗いた月が迫り来る者、その姿を鮮明に映し出す。
「……え?」
歩み来ていた人影。差し込んだ月光が照らしたのは、一人の少年であった。
酷く汚れ、あちこちを裂かれ原型をほぼ止めていない衣類に反して、少年の体には傷一つない。
優しい輝きが照らすのは、その美しい顔立ち。
幻想的にさえ、少年は少女の目に映る。
「……渡辺、くん?」
少女は、彼の名を呟いていた。
「……源琴音……」
無表情に。詩緒は少女の名前を口にする。
少しづつ、縮まる二人の距離。
「あ、あの! お、お兄ちゃんは?」
頬を染め、少ししどろもどろ気に琴音は訊ねた。
「ここには、もういない」
詩緒の歩みを止めずに、端的に答えだけを返す。
「そ、そう……そう、なんだ……」
消え入るように小さく語尾を呟くと、少女の表情は曇った。
安堵と落胆と。複雑な心境だと本人は思っていたのだろうが、その実、後者の感情が明らかに強いらしいことが見て取れる。
俯いた少女と、歩みを止めなかった少年が擦れ違う。
限りなく近い距離。
だが、日常と非日常の果てしなく遠い隔たりが、そこに在る。
「渡辺くん。お兄ちゃんと……戦ったの?」
顔を上げ、振り向き様に琴音は口を開いた。そんなことが聞きたかったわけではない。
ただ。
ここで何の約束もなく、この少年と別れてしまうと、二度と逢えない気がしていたのだ。
何でもいいから。そう思って、口から出た言葉がそれだったに過ぎない。
そこに在る隔たりを超えて。
また逢いたい。
琴音には、確かにその感情が芽生えていた。
「……お前には関係ない」
琴音の耳に、微かに鳴った鈴の音と。その音に混じり、少年の冷く突き放す声が聞こえた。
少年は他人との交わりを極端に嫌う。
誰も巻き込まないようにするために。
例え、どんなに優れた人間でも。例え、どんなに強い人間でも。
世界の裏を知る者は、それに呑まれ、死に行く可能性が極めて高い。
自身に眠る、忌むべき『魔』の鼓動も。
そして、柾希の最後も然り。
兄は親友を救えず、止められず。その悲しみに囚われ、鬼に堕ちて詩緒に斬られたのだから。
「この鈴は笑顔のカタチ。……君が護った笑顔でもあるんだ」
近い人間を世界の裏に巻き込むことを嫌い、孤独を通した弟に、兄はこれを託した。
だから。
誰も近づけさせない。
兄の真意は決して他者を拒絶しろというものではない。
弟が孤独でないことを教えたいだけだったはずだ。
詩緒もそれは悟っている。
だが。
自身が孤独を貫くことで、護れた笑顔がそこにあるのなら。
それが、少年の選択した答。
鈴は戒め。
鈴は心の結界を形成する核。
「ま、また……また逢えるかな? 上着! 返さなきゃいけないでしょ!?」
会話を取り繕うように。少年の足を止められるように。それでも、少女は言葉を送る。
「……それはやる。そして、忘れろ。俺のことも……源蒼司のことも」
だが、少年の足は止まらず。
「――それでお前の悪夢は終わる」
去り際に、鈴の剣士が残した言葉。
「……それが私のためになるのかな?」
それに問う、少女の言葉に返事はなく。
少年を視線に追う少女と。振り返ることのない少年と。
そして、琴音と詩緒の距離は、ゆっくりと、確実に、開いて行く。
「……忘れないよ……」
小さく零した言葉。
「忘れない!」
そして、その背中に少女は叫んだ。
「私、河原くんのことも、お兄ちゃんのことも忘れない! ――私、滝口になる! 私がお兄ちゃんを止める!」
新たな決意を宣言する。
一瞬。ほんの一瞬だけ。
その声に、詩緒の足が止まった気が琴音にはした。
そして、直後、その姿は闇に溶けた。
「……だから、貴方のことも忘れないよ」
詩緒の消えた闇に。琴音は微笑んだ。
それは暖かい。そして、美しい微笑みだった。
朝のホームルーム。
琴音はぼんやりと、窓の外を眺めていた。
教壇に立つ担任の声は、単に音として聞こえ、その意識を明瞭とさせるには至らずにいる。
教室の片隅。河原潤一の机。
あの夜以来、当然、その主は姿を見せてはいない。
もう何も残されていない存在なのだ。
その翌日。彼の父親である代議士、河原剛三が何者かに殺害されたと、大きく報道された。河原潤一という少年は、その事件に巻き込まれ、行方不明になったとされている。
初日こそ、クラスの中でもその話題で持ちきりとなったが、結局、一週間も経過した今では、誰も話題として取り立てずにいる。
窮地に陥った琴音の前に、颯爽と現れた黒衣の滝口。
クラスメイトたちの中の潤一という少年と同じように、あの少年もいつかは自分の中で色あせ、風化していくのだろうか。
「ごめんなさい。占いに関して、嘘はつきたくないから……正直に言うわよ?」
そう一言、断りを入れて。
「……その人と琴音が再び出会う可能性はないみたい……」
幼馴染の少女はそう答えた。
生まれて初めて出会った、気になる異性。その相手との恋愛運を診てもらった結果である。
単に最近、出会った相手だと偽り。全ての情報を伏せて、占ってもらった結果がそれだった。
彼女と彼は知り合いらしかった。
だから。という訳でもなかったが、琴音は占い師にそれを告げることが出来なかったのだ。
それも隔たり、なのだろう、と琴音は思う。
世界の裏と表と。
琴音が吐いた大きな溜息は、教室内のざわめきに掻き消された。
そのざわめきに、ようやく琴音は自分の世界から呼び戻される。
当たり前のこととして、何が起こったのか理解できてはいない。
原因を探るべく、教壇の方に視線を送る。
「あ」
呟いた言葉と共に、状況を把握する。
そのざわめきは、そこにいる人物が起こしたのだと。
そういえば噂に聞いていた。
今日、転入生が一人、新しくクラスメイトになるのだと。
その生徒がそこに立っていたのだ。
それは美しい少年だった。
「渡辺詩緒です。よろしく」
担任の教師に促され、少年は挨拶をする。
無表情に。ただの決まり文句として。
世界の裏に生きる少年と、世界の裏に踏み入る決意をした少女。
不意に交わる二人の視線。
気がつくと、琴音はあの夜と同じ微笑を向けていた。