第拾五話:慟哭
「……お兄ちゃんが人を……」
開かれた琴音の瞳。驚きと、決して認めたくはない事実がそこにあったのだ。
「ごめんなさい……でも本当のことなの……」
事実を伝えはした。しかし、それが本当に良かったことなのか。
語り部には正解は判らない。だから、なのだろう。それを語り終えた時、瑞穂の口をついたのは謝罪の言葉だった。
「でもね……私も『魔』に堕ちた人間を殺めたことはあるわ……殺人者という意味では、蒼司さんと同じよ……」
しかし、続ける。それは弁解でも、正当化でもない。それとて単に事実なのだ。
「『魔』の力を行使する者は、私たちじゃないと止められない。もちろん、無力化させるだけで済むのなら、それに越したことはない。絶対に殺すワケじゃないわ……でも――あるのよ……」
震えを見て取れる、目の前に座る少女の細い体。そこまでの距離は、手を伸ばしきらずとも届く程。
だが、瑞穂にはそれが絶対的な距離を持つものだと感じられた。
その身震いの真意が解らない。
怯え、恐怖。
不安、拒絶。
否定的な言葉が頭の中をぐるぐると回る。
琴音はその震えを止めることが出来ないままに、幼馴染だったはずの少女を凝視している。
「――聞かせて」
――私は逃げない。
――私はアイツと一緒じゃない。
――同じじゃダメなのよ……!
「――それを知っても、今までみたいに私を信用出来る? 私との関係を続けることが出来る?」
意を決すると、その視線を避けることなく、真っ直ぐに受け止め、瑞穂は訊ねていた。
暫しの沈黙。
そして、琴音はゆっくりと頷く。
「……瑞穂は瑞穂だもの……私にとって、貴方はかけがえのない人。それは変わらないよ。瑞穂の言葉は信じられる」
開いた口から送られた言葉。
「ありがとう」
感謝と共に、世界の裏に生きる少女は微笑んだ。
それは何物にも変えられない宝物のような言葉だった。
一つ、息を飲むと、感激に震えていた陰陽師は語り出す。
「だったら――」
「だったら?」
瑞穂の言葉を反芻して、幼さの残る可憐な少女は次の言葉を待った。
「――お兄さんは信じられない?」
返事の声はない。しかし、琴音は大きく頭を振った。
「私もよ。……私も蒼司さんが理由もなく、『魔』ではない人間を殺めるとは思わないわ」
信用に足る人間。事実、青年は自身の窮地を救ったのだ。
自分が敵対する勢力――陰陽寮に属する退魔術師だと知りながら。
そして、その戦いの後に、彼は瑞穂に言った。
「……『滝口や、陰陽寮の掟では護ることの出来ない人々がいる。ならば、私は『魔』に堕ちようとも彼らを救いたいのだ』……」
その言葉を、そのままに。瑞穂はその妹である少女に伝える。
「貴方のお兄さんは、単に人殺しじゃないわ……」
瑞穂は続ける。それにもう一度、琴音は頷いた。気が付けば、彼女の震えは止まっている。
「でも……」
しかし、その口から漏れた否定へと続く言葉。
「間違ってるよ……」
そうとだけぽつりと零し、琴音はゆっくりと立ち上がった。
「琴音?」
少女を見上げると、瑞穂は彼の人物の妹の名前を口にする。
「……『魔』なんていう普通の力じゃないものに立ち向かうのは解る。でも、間違ってると思う。人に人を裁く権利なんてない」
「琴音……」
「教えて。お兄ちゃんのいる場所を知っているんでしょ?」
力強く少女は言った。
「知ってどうするの?」
「止めるの。私がお兄ちゃんを止める」
瑞穂の問いに、間髪入れずに琴音は答えてみせる。
「……そうよね……詩緒じゃ役不足なのよ……」
「瑞穂?」
視線を背け、囁いた瑞穂の声は琴音には届かなかった。
「河原くんの屋敷よ。私は大丈夫だから。気をつけて行ってきなさい」
そして、再び少女を見上げると、陰陽師は彼女の欲した答えを提示する。
「ありがとう」
その答えに微笑みで返すと、琴音は一目散に駆け出した。
その背中に迷いは見えない。
前を。ただ前を見据えながら、走り行く琴音の姿は、瑞穂の視界からすぐに消えた。
「ちっ!」
小さく漏らす、焦り。
詩緒は童子切の鋭い刃を、ぎりぎりに回避することで必死だった。
読めないのだ。
童子切から発せられる邪気が、その担い手の気配を隠す。
その邪気に紛れ、敵は動き、斬撃を仕掛ける。
否。それだけではない。
その邪気は蒼司へと少しづつ、少しづつ取り込まれていくのだ。
それに応じて、魔剣士の動きが変わって行く。剣速が、その身のこなしが徐々に加速して行く。
今は、詩緒の対応できる、ぎりぎりの動き。
しかし、それが明らかに上限ではないことを推して知れる。
白刃が閃く。
それこそが、正しく閃くという形容。
滝口の反応は、終に追いつかない。
「ぐっ!」
詩緒の口から痛みが漏れる。
当然の如く、それを少年は避けきれなかった。その刃に黒いシャツが袈裟に裂かれる。
それでも、どうにか致命傷は回避させていた。
しかし、左肩には深い裂傷が生じている。だらりと力なくぶら下がる左腕を、血が流れ落ちる。
「……強くなり過ぎたのかも知れんな……」
不意に蒼司の声が前方で起こった。
「何!?」
驚愕。
言葉と共に、詩緒の顔にそれが浮かぶ。
気が付けば、敵は少年の目の前に立っていたのだ。
易々と斬間に、詩緒の占有していたはずの空間に侵入を許していた。
その体に負傷を負わせた太刀筋は見えてはいた。来る事が解っていた。だからこそ、死という最悪の事態は免れた。
だが。その男がそこに現れたこと。それは完全に虚を付かれていた。
反応の限界の向こう。敵がその領域に足を踏み込んだということ。
それが示すのは、ただその事実だった。
「私とお前とでは、すでに次元が違う……そういうことなのだろう……」
蒼司が寂しげに笑った。それは錯覚だったのだろうか。
直後、詩緒の体が弾ける。
何をされたのかを理解するのに、一瞬のラグが詩緒には生じていた。
打撃に生じた衝撃。それが彼を襲ったものの正体。鈍い痛みが走り、少年が状況を把握した時には、その体は宙を舞っていた。
黒衣の滝口が勢い良く、後方へと飛ぶ。地面に数回、全身を叩き付けながら転がる。
童子切の刀禍が与えたのはスピードだけではない。パワーとて然り。
それは担い手の身体に、人の次元を軽く凌駕させる力を与えているのだ。
そこに居るのは人間『源蒼司』でありながら、刀禍の主『鬼の王』に限りなく近い存在。
「……不思議だが……柾希が生きていたのならば、今の私とでも互角に戦えそうな気がするのだ……」
薄く微笑み、それは呟く。その目は、激しく地べたを転がる詩緒へは向けられてはいない。虚空を、ただ映す。
遠く離れた先。そこでようやく勢いを殺した少年。
彼が求めた人物の弟は、血を吐き捨て、ふらりと立ち上がる。
「……同感だな……」
そして、同意してみせる。
詩緒にも予想出来ないことだった。兄が戦いに於いて、遅れをとる姿など想像も出来ない。
「お前の限界はそこか? 私はまだ、本気を出し終えてはいないぞ?」
ゆっくりと視線を、自身が過去に統率していた組織の、決別した組織に属する少年に戻す。
「……どうだろうな……」
詩緒は自身のことながら、訝しげに返した。
しかし、そうは言いながらも、剣術の、自身の戦闘能力という点では、すでに現状の限界に達していることを詩緒は感じている。それどころか、この僅かな命の遣り取りで、驚くほどそれが伸びたと、自覚さえ出来ていた。
後に残された要素は――。
「……そうか……」
不意に、詩緒は自嘲して見せる。
「……お前に限界はあるのか?」
そして、敵へと向けて問う。
「ない……と言えば嘘になるな。――童子切に籠もった怨念は深い。無限なのかも知れん。……それを力に変換し、受け入れるには、人の器では限界があるさ」
嘘偽りなく、蒼司は答えた。それを伝えて不利になることは、何らないのだ。
「……そうか」
呟き、滝口は力が入り辛くなっている体に、無理やりに戦闘態勢を取らせる。痛みを殺し、満足に動かない左手さえも柄へと添えさせる。
「……死んでも後悔しないよう……お前の持てる全力で来い……その上でお前を殺してやる」
それ自体にも、その魔力がある様に。殺伐とした視線を詩緒は見せた。
「……退け。勇敢と無謀は違う」
少年の台詞の真意を、蒼司は悟った気がしていた。
相手は自身を追い込み、持てる力の総てをかける気なのだ、と。
互いの状況が全てを物語っていた。誰が判別しようとも、同じ判断を下すはずである。
圧倒的優位に立つ者と、絶対的窮地に立たされた者。
二人の関係は、それでしかない。
「――再戦の機会をやる。その時こそ、お前の最終判断をさせてもらおう……少なくとも、柾希に変わる可能性は見出せた……」
静かに。自身の希望とさえ言える言葉を蒼司は続けた。
「……可能性? 何の戯言だ? 俺には貴様の酔狂な趣味に付き合う気はさらさらない……死んで兄と戯れろ」
しかし、返された答えは、当然の如くの否定、拒否。吐き付ける台詞は、いつもの少年のものだった。
だらだらと流血をさせながらも。負傷による影響や両者の有利、不利などの力関係はそこにはない。
滝口として。武士として。少年は敵に立ち塞がるのみ。
空が光を放った。
それは稲光。遅れて轟く雷音。
騒音。落ち始めた激しい雨が、辺りを、二人の剣士を打つ。
それすらも聞こえていない様に。詩緒はその刀を正眼に構え、その集中を維持し続ける。蒼司の思惑通り、次の一手に総てをかけるべく。
蒼司は童子切をゆっくりと構えた。
理解したのだ。
この少年を止める手は、自分にはそれしかないのだと。
「……そうか。……ならば、ここで幕を引くだけのこと」
悟りのように、蒼司は呟く。
直後、魔剣士は動いた。先に放った言葉が殺すべき相手に届くよりも速く。そう思われる瞬間にその身は距離を詰め、詩緒を童子切の斬間へと捕捉している。
童子切が命を消失させるべく閃く。
「何!?」
妖刀を閃かせながら、蒼司は異変に気付いた。
詩緒はただ意識を集中し、それを斬るべく動いていたのだ。
虚空を裂いた刃。
童子切の太刀行きの前に、輝きを放ったのは鬼切だった。
それは柾希が使いこなした退魔の名刀。その冠する銘により『魔』を断つことに特化した聖刀。
形ないものでさえ、その意志の力が働けば断てる。
刀はそのための武器。
柾希に出来ていて、詩緒に出来ていなかったこと。
それは鬼切を使いこなしているか、いないか。
蒼司の感じた異変の正体。それは自分の体の変化。刀禍に強化させた身体能力が失せていたのだ。
いや。失せたのではない。
斬られていた。
鬼切という刀の特性を活かし、意志の力を完璧に制し。
渡辺詩緒という剣士は、数多の術者が祓えなかった鬼の王の呪を断ち斬って見せたのだ。
だが。その滝口が斬ったのはそれだけだった。
それを切り裂くことにのみ、集中させていた少年。それに総てを捨てた剣士。
童子切の刀身は、詩緒の体に深々と埋まっていた。
背中を抜け、雨に混じり、刀身を朱が流れる。
蒼司は、その身に纏っていた『魔』の力を斬られただけ。
詩緒の放った先の斬撃に、その身には一切の傷はない。
少年を殺すべく突き出した童子切はそのままに。
狙いは寸分違わずに、黒衣の少年の左胸を刺し貫いていた。
「……見事」
蒼司がぽつり、賞賛する。
先の詩緒の一手。
それは何れは到達したいと彼さえが想う、極めの一手であった。
ただ心底、感服し、その域に達した少年を称え、敬する。
そこで潰えようとする剣士を。
確かに、刹那、少年は剣の頂に至り、青年を凌駕して見せたのだ。
折り重なった二人の影。稲光がそれを雨に濡れた地面に落とした。
「……私は私の道を歩み続けねばならん。そういう宿命か……」
大粒の雨を降らす天を仰ぎ、蒼司は呟いた。




