extra.真夏の魔法使いが降らせる雨を(後編)
「かなかな」
「ナンデスカ」
「ちゃんと拭かないとだめだよ?」
「ハナシカケナイデクダサイ」
ほとんど人の通らない道で、意識を鈍色の空へ飛ばすこと数分。
落ちてくる水滴の大きさと数が減って、しめった空気がまとわりついてくる。
「こっち向いて、かなかな」
「断固拒否シマス」
渡されたタオルはほとんど使わないで押し戻し、ブレザーだけを借りたまま肩から羽織った。
いまは衣替えの移行期間で、あたしは夏服で登校していたのだった。
失敗した。最悪。もちろん自分が。
ハルくんに背を向けて、とりあえずスカートのすそからこぼれる雨粒を絞る。
なにかしていないとこの羞恥に耐え切れなくて、また走って逃げ出してしまいそうだったから。
「しかたないなー」
あきれたような声が聞こえて、次に頭にやわらかいものがのせられた。
振り向く間もなく髪を拭かれて、抵抗できずに固まる。
「だ、だいじょうぶ、だってば」
「もし風邪ひいてかなかなが学校休むことになったら、おれがやなの」
甘えた口調と、ちょっと強引なその手の動きにこれ以上逆らえず。
赤く染まりつつあるものをなんとか押し込めて、浅く呼吸を繰り返す。
髪を拭くタオルが、耳や首筋を軽くかすめるとくすぐったくて。
思わず出そうになる声を両手で隠した。
「かなかな、耳真っ赤」
上から降ってきたその言葉に温度が上がっていく。
くすくすとこぼれる含み笑いまでもが、肌を彩る。
「も、もう、いいから! ほんと! だいじょ、うぶ」
もう耐え切れなくなって、距離を取ろうと前に踏み出そうとすれば。
やわらかい感触が、首筋に落ちた。
「っ、!」
突然のことに身体が勝手に反応して、背がふるえた。
指のすきまから漏れてしまった声にさらに熱が上がっていく。
「教室で追いかけてこないでって言われたのに、追いかけてきちゃったんだけど」
髪を拭いていたはずの手が、いつのまにか腰に回されていた。
ゆっくりと後ろに引き寄せられて、熱っぽい彼の胸に沈んでいく。
ささやかれるものがあまりにも近くて、両手で押しとどめている声が我慢できない。
「おれのこと、きらいになる?」
後ろからくちびるが近づいて、触れる。
耳朶を何度もかすめるものに身体が跳ねて、それでも逃がしてくれそうもない。
彼の髪から伝わるしずくが、あたしの首筋をとおって落ちる。
足に力が入らない。
小刻みなふるえが、あたしの中で幾重にも渡って反響する。
求められている答えはとっくに出ているけれど。
音にしてしまうと、他のおかしなものが出そうで口を開けない。
どうしようもなくなって、とにかく首を横に振った。
「よかった。あとね、」
彼の体温が離れていって、身体のすきまを通り抜ける風に胸を撫で下ろす。
ところが腰に回された腕はそのままで。
「最近のかなかなはすごくかわいいから、あんまり離れていかないで」
後頭部に寄せられたくちびる。
濡れた髪越しに響くその音と言葉に、固まっていた首をわずかに動かす。
「今度は逃げたら、捕まえて無理矢理おれのものにするよ」
ほんの少し視線が重なって、ハルくんがにっこりとあたしに笑いかけた。
「ほんとうだよ? 据え膳に遠慮はしない主義だから」
耳を通り抜けていった言葉が意味もわからず背筋を震わせるものだから。
とりあえず黙って、首を縦に動かすことにした。
その答えに機嫌を良くしたらしい彼は腕を解き、今度はあたしの指を絡めとってきた。
つながれたものに熱は上がるものの、隣の彼があまりにもうれしそうだったのでしかたなくそのままにする。
というか、なにされるのかわからないので従っておく。
「ねえねえ、かなかな」
「ナンデスカ……」
「やさしくするから、ぎゅーってしていい?」
絡みついた指をぎゅっと握られて、軽く引っ張られる。
まるで、こっちにきてと合図しているみたいに。
「さ、さっきは勝手にしたくせに」
「かわいかったから、どうしても我慢できなかったんだよ」
胸に、やわらかな熱が降る。
さっきまでのような、火花じゃなくて。
空から落ちる、雨のように。
「もも、もしかして、だれか見てるかもしれないし、」
「だれもいないよ。こんな雨だし」
目の前にあるのは、静かに落ちるいくつもの水滴。
ただ、それだけ。
「大丈夫。おれのほうが大きいから、かなかなのこと隠してあげるよ」
その言葉と合図に誘われるまま、彼のほうへ向き直る。
雨音できっと、この鼓動はだれにもきこえない。
「そ、……それなら、」
あたしの返事はちゃんとハルくんに届いたのだろうか。
言葉は最後まで言えずに、その腕の中に吸収されてしまった気がする。
熱くて、真っ赤で、眩暈がしてたはずなのに。
彼のにおいに包まれたとたん、それはなまぬるい雨に似たものに変わった。
逃げ出してしまいたかったあの気持ちはどこへやら。
心臓は騒がしいままだったけれど、苦しくも痛くもなかった。
ちょっと気持ちいいから、このままでもいいか。
なんて、絶対口にできないようなことを思ってしまったのはだれにもいえない。
とくにハルくんには、ぜったいに。
「おっはよ! 昨日の雨やばかったよねー! あたしちょーど駅に着いたときくらいで、ほんとセーフ! かなは大丈夫だった、って、どうしたの? なんか顔赤くない?」
「イヤベツニナンデモ」
「うーっす! おはよー!」
「きょうは晴れてよかったな! みんなでどっかいくか! ぱーっと!」
「お前ら今日模試あんだぞ。勉強しろ、勉強を」
「ヤナつまんねーこというなよ! お、後輩ちゃん、果歩っちおはよ!」
「おはよー。きょうもにぎやかだねえ。なんで柳原くんたちは毎日いるのかなー」
「あ、センパイ! かなかなが変なんですよ! 挙動不審っていうか真っ赤っていうか!」
「……上原、てめえなんかしただろ?」
「うん、かわいかったよ?」
「え?」
「は?」
「それって、」
「ま、まじで、」
「上原、俺らの先輩になっちゃった、ってやつですか!?」
「は、ハルくん!」
あたしの懸命な説得により、なんとか誤解は解けたものの。
雨のせいか、彼のせいか、ほんとうに熱が出てしまい早退することになってしまったのだった。
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最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
自身の作品の中でもっとも長い時間がかかった作品で、
楽しみにしていてくださった方には大変ご迷惑をおかけいたしました。
リハビリ程度の短い作品の予定が、思いのほか形を代え、人物を代え、
もっと単純な話だったはずなのに、こんなにも長くなってしまいました。
それでも最後まで書き上げられたのは、読んでくださった方々と
拍手やコメント等であたたかいお言葉をくださった方々のおかげだと思っています。
ひとこと、一文でも、一行でもいただければとてもしあわせです。
ほんとうに、ありがとうございました!
2015.06.17 梶原ちな
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