道半ばの死、あるいは「おかしな赤ん坊」
「まだだ……。僕の武術は、未だ道半ばだというのに……!」
それが、僕の意識が途切れる直前に抱いた、強烈な、あまりにも強烈な探求心だった。
ガタゴトとけたたましい金属音を響かせる、地下鉄のプラットホーム。
夕方のラッシュ時。人混みの中で、スマートフォンの画面を注視していた一人の恰幅の良いサラリーマンが、不意に足元を狂わせて線路へと滑落した。
直後、闇の奥から迫るヘッドライトの強烈な光。悲鳴を上げる周囲の乗客たち。
体が、勝手に動いていた。
前世の僕──武の理を追い求め、科学的な身体操作のアプローチを日々道場で研究し、稽古に明け暮れていた一人の男は、考えるよりも早くホームの縁を蹴っていた。
一歩、二歩。
無駄な力みを一切排除した、歩法の極致。零コンマ秒で変わる位置関係の最適解へと滑り込む『転位』の動きだ。滑るような沈身で落下した男の懐に入り込む。
そのまま男の襟元と帯のあたりを掴むと同時に、筋肉のブレーキを決壊させ、己の自重を一気に解放する『緩解』の技術を応用した。
力任せに腕力で持ち上げるのではない。僕自身の重心をスッと沈み込ませたその反動と、脱力によって生み出されたエネルギーの波を相手の骨格に浸透させ、ホームの上へと文字通り「放り投げる」ようにベクトルを誘導したのだ。
大の大人の身体が、まるで重力を失ったかのように宙を舞い、安全なホームへと滑り込む。
──よし、間に合っ──
安堵が脳裏をよぎった瞬間、強烈な衝撃と、肉体が文字通り破砕される感覚が僕を襲った。
ブレーキの軋む金属音が、鼓膜を引き裂く。
ああ、男性を救い出すことには成功したが、自分の退避がコンマ数秒遅れたか。
視界が急速に赤く染まり、そして、深い、深い闇へと落ちていく。
前世の記憶。僕が血の滲むような検証と反復練習の末に積み上げてきた、技術の数々。
骨格の歪みを排し、質量を一方向にロスなく通す『軸定』。
筋肉の力みを取り払い、重さをそのままエネルギーに変える『緩解』。
戦況の最適解を往く『転位』。
そして、己の認識を空間そのものへと拡大させる『圏境』──。
それらがパズルのように組み合わさり、ようやく「人の身体の真理」に手が届きかけていた。その入り口に、ようやく立てたと思ったまさにその矢先の死だった。
無念、という言葉では到底足りない。もっと強くなりたかった。もっと人間の可能性の深淵を覗きたかった。
その渇望だけが、僕の魂の芯に、決して消えない赤黒い火種として残り続けた。
*
「──あう、うー」
次に意識が覚醒したとき、僕は言葉にならない情けない声を漏らしていた。
(……なんだ? これは)
視界がひどくぼやけている。自分の意思で腕を動かそうとするが、まるで粘度の高い泥水の中にいるかのように重く、思うように動かない。
そこにあるのは、前世の日本の近代的な建築ではなく、太い丸太が剥き出しになった、古風な木造の天井だった。
「あら、ジン。お腹が空いたの?」
上から覗き込んできたのは、見知らぬ美しい女性の顔だった。金色の髪に、優しい碧眼。彼女は僕を優しく抱き上げると、温かい乳を口に含ませてくる。
不思議なことに、彼女が話している言語は日本語ではないはずなのに、意味がすんなりと脳内に理解できた。
(ジン……? それが、僕の新しい名前か。なるほど、どうやら僕は──死に、そして別の人間として生を受けたらしいな)
最初は困惑したが、武術家としての異常な冷静さが、すぐに状況を受け入れさせた。
神の悪戯か、あるいは世界の巡り合わせか。理由は分からん。だが、僕の手元には、前世の「武術の記憶」と「心得」が、そのまま魂に刻まれて残っていた。
(ならば、やることは一つ。この新しい脆弱な肉体を、一刻も早く最適化せねばならん)
そこからの僕の行動は、ハルバート家の両親──父親のガルクと母親のセリアにとって、まさに「恐怖」そのものだったらしい。
通常の赤ん坊であれば、寝返りを打つのに数ヶ月を要する。だが、生後わずか数週間の僕──ジン・ハルバートは、揺り籠の中で目を閉じ、己の新しい肉体と対話していた。
(ふむ……骨格は未発達。筋肉も赤ん坊のそれだ。ここで無理に力みを入れれば、一瞬で骨が歪む。まずは『軸定』だ。赤ん坊特有の『重心の芯』を見極める……)
仙骨の位置をわずかにずらし、頭の重みを利用して、最小限の力で身体の軸を回転させた。筋肉によるブレーキの一切ない、完全なる『緩解』状態での重心移動。
ころん、と綺麗な音を立てて寝返りが成功する。
生後一ヶ月が経つ頃には、僕は四つん這いになり、インナーマッスルと背骨の連動だけを意識して、完全に無音のハイハイをマスターしていた。
「ね、ねえ、ガルク……ジンの動き、何だかおかしくない?」
「ああ、セリア……。まるで、獲物を狙う高位の魔獣のような、一切の無駄がない動きだ。ハイハイなのに、床の軋む音が全くしないなんて……」
元騎士の血を引く屈強な体格の父親、ガルクが冷や汗を流しながら僕を凝視している。
だが、彼らの驚愕はそこで終わらなかった。
生後二ヶ月目。僕はついに、二本足でまっすぐに立ち上がった。
ただ立ち上がるのではない。
仙骨を立て、背骨をミリ単位で垂直に揃え、頭の位置をその真上に固定する。
これぞ『軸定』の基礎。地面からの反発力を、足の裏から頭頂部まで一本のレーザーのように通す立ち方だ。この立ち方を維持するだけで、体内のエネルギー(この世界でいうところの魔力らしきもの)が淀みなく循環し、効率よく練り上げられていくのが分かる。
(素晴らしい。筋力がないからこそ、骨のわずかな引っ掛かりが手に取るように分かる。前世の完成された肉体では気づけなかった微細なノイズを、この未発達な身体ならば完全に削ぎ落とせるぞ)
一人で勝手に納得していると、驚天動地といった顔でへたり込む両親の姿が視界に入った。
僕は、ようやく自由に動かせるようになった声帯を使って、彼らに語りかけた。
「──なるほど。仙骨の内在筋を主働筋にすれば、この筋力でも自重をロスなく床に落とせるな。うん、この世界の肉体、かなりポテンシャルが高いよ」
部屋の中に、氷のような沈黙が降りた。
赤ん坊特有の、高く可愛らしい声。しかし、その口調はあまりにも理路整然としていて、眼光は自分の身体を完全にコントロールしきった科学者のそれだった。
「ひっ……!」
母親のセリアが短い悲鳴を上げて、父親ガルクの胸に飛び込んだ。
「あ、悪霊だ……! 我が子ジンに、怪しい古代の学者の生霊が取り憑いている……!!」
「ジン! わけのわからない呪文をブツブツ言わないで、帰ってきてちょうだい!!」
(……え? 何をそんなに怯えているの?)
ジンは、小首を傾げた。
*
ガルクとセリアの過剰な恐怖は、数日経っても治まらなかった。
「悪霊が取り憑いている」という仮説を検証するため、両親は一つの決断を下した。それは、町の『教会』へジンを連れて行くことだった。
「生後三ヶ月目を迎えた頃、僕は父親のガルクに抱えられ、馬車に揺られて街の大きな教会へと向かっていた。
隣では、母親のセリアが今にも泣き出しそうな顔で僕を覗き込んでいる。
無理もない。生後二ヶ月で突如すっくと立ち上がり、爽やかな笑顔で「仙骨のインナーマッスル(内在筋)がどうの」と理路整然と言い放った赤ん坊だ。両親が「どこかの怪しい老学者の生霊に取り憑かれた」と大パニックになるのも、当然の反応だった。
(まあ、僕としてはただ、この新しい身体のポテンシャルの高さを科学的に分析して報告しただけなんだけどね……。ちょっと不気味に映っちゃったかな)
馬車の微小な振動すら、今の僕にとっては『軸定』の軸を維持するための絶好の体幹トレーニングだ。
やがて、馬車は街の中央にある荘厳な神殿へと到着した。
リアル武術経験をベースにした、新時代の身体操作ファンタジー、第1話はいかがでしたでしょうか?
次回、いよいよジンは教会で『魔力鑑定』を受けます。無能判定を受けた少年の心に、何が起きるのか──その瞬間をお楽しみに!
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