生きていてほしかった
九枚目は、真っ暗な都会の夜空に浮かぶたった一つのシャボン玉だった。
『弾けてなくならなかったシャボン玉はどこに行くのかな』
さっき最初に飛び込んできた灯の声がもう一度聞こえる。
『きっと人間はシャボン玉みたいに綺麗には消えられない』
『悲しんでくれる人がいるのもわかってる。でも…』
『消えるその一瞬だけ…私に戻りたい』
涙が溢れ続けるのを、もう止めようとは思わなかった。拭うことさえやめて、流れろ、もっと流れろとすら思う。
僕の中に灯がいる証明だ。どうしようもなくわかる。僕は灯をわかってしまう。
十枚目は、シャボン玉の絵ではなかった。
乳白色の皿に入ったシャボン玉液だ。使い古して色褪せたピンク色の吸い口と、シャボン玉液に浸かっている無数の砂粒。
『もう、ミルクキャンディなくなっちゃった』
『行こうかな。本当は全然綺麗じゃない私に会いに行こう』
『ごめんなさい』
『優しい気持ちだけを残して消えることはできないってわかってる』
『それでも、私が消えても世界が回り続けることにちょっと救われる気持ちがする』
『ちっぽけで無力な私が消えても…笑い続けてて欲しい』
『笑って』
十枚目の絵が、最後だった。
僕はとうとう膝から崩れ落ちて、止める気もない涙がリノリウムの床を汚していく。
綺麗だったよ。廊下に寝転ぶ君はすごく綺麗だった。
夕日も廊下も、あの血の赤色さえも、世界が君を祝福してるみたいに綺麗だった。
でも僕は君に生きていてほしかった。
「笑って…なんて…!」
絞り出した声は酷くひしゃげていて情けない。
笑って、なんてずるい。
優しい灯が言いそうな生ぬるい遺言だ。
初めて灯に対して憎しみにも近い感情を抱いた。
僕はこれからの人生の全てが笑顔のない日々になってしまったっていい。
もう二度と笑えなくたっていいから。だから。
生きていてほしかったんだよ。




