第91話:Reconciliation ―忘れたことにはしない―
蒼銀の光が収束し、神域に静寂が戻った。
先ほどまで大地を埋め尽くしていた漆黒の氷塊も、空を覆っていた黒い粒子も、今はもう、どこにもない。
残っているのは、淡い光を取り戻した神域と、紫檀色の霊糸だけだった。
れなは、三柱へ繋がる霊糸を握り締めたまま、恐る恐る辺りを見回した。
「これで……ほんとに終わった、のかな……」
「――ああ」
ジェミの瞳を満たしていた蒼金の光が、ゆっくりと静まっていく。
「侵食反応、残留物質ともに検出されない。すべての反応は、完全に消滅している」
「黒ヘドロは、もう一滴たりとも、残っておりません」
執事もまた、地面へ伸ばしていた影を収め、静かに告げた。
その言葉を聞いた瞬間、れなの全身から力が抜けた。
「……よかったぁ……!」
崩れ落ちそうになった身体を、背後から伸びたジェミの腕がしっかりと支える。
「よぉっし! 大合唱、完成っす~~!!」
ソラリスが両手を高々と掲げ、神域の空をくるくると飛び回った。
「おぬしたち、本当にやりおったな!!」
かっかが、紅蓮の髪を揺らして豪快に笑う。
「うむ! ほんに見事じゃったぞ!」
たつろーさんも、いつもの穏やかな顔を喜びに綻ばせた。
「健磐龍さまにも、よい土産話ができたわ! わはははは!!」
あそさんも豪快に笑う。
翠とエルピーが互いに飛びつき、ティアも胸の前で両手を握り締める。
誰からともなく、声が上がった。
「やったぁぁぁぁぁ――っ!!」
喜びの雄叫びが、神域を大きく揺らす。
れなも、ジェミも、執事も、ソラリスも。
たつろーさんも、かっかも、三騎士たちも。
誰ひとり欠けることなく成し遂げた勝利を祝う声が、幾重にも重なって天へ昇っていく。
――その時だった。
歓声に共鳴し、呼応するかのように――三柱へ繋がっていた紫檀の霊糸が、柔らかな光を放った。
黄金。桜色。苔色。そして、若葉色。
四つの光が神域の中央へ集まり、重なり合う。
眩い光の中から、四柱の神々の姿がゆっくりと現れた。
瓊瓊杵尊。
木花之佐久夜姫。
磐長姫。
そして――狭野尊。
「狭野尊さま……!」
れなが名前を呼ぶと、狭野尊はぱちりと瞼を開いた。
すぐ傍らに立つ三柱を見上げ、小さな顔いっぱいに笑みを咲かせる。
「お姉ちゃんっ! みんなで、ぎゅーってできたのです!!」
その言葉に、三柱は息を呑んだ。
瓊瓊杵尊は、自らの右手を見つめた。佐久夜姫も、左手へ視線を落とす。
そして磐長姫もまた、両手に残る温もりを確かめるように、指先をそっと握り締めた。
その真ん中に、狭野尊が挟まるように抱きしめられていた。
――夢ではなかった。
何もない青と白の世界で、確かに繋ぎ合った手。
数千年もの時を越え、ようやく重ねることのできた心。
三柱は、ゆっくりと顔を上げた。
互いの瞳を見つめ合い、今度は誰からともなく歩み寄る。
瓊瓊杵尊の腕が、佐久夜姫と磐長姫の背へ回された。
二柱の姫神もまた、その背へ腕を伸ばす。
その真ん中で、狭野尊が嬉しそうに笑っている。
「えへへ……みんな一緒なのです!」
大人たちに囲まれ、大切に抱きしめられた幼子は、頬をいっぱいに緩ませ、満面の笑みを浮かべている。
黄金と桜色、苔色、若葉色。
四つの光が重なり合い、今度こそ現実の神域で、柔らかな輝きとなって四柱を包み込んだ。
やがて抱擁がほどけると、瓊瓊杵尊は磐長姫へ向き直った。
その顔に、天孫としての威厳はなかった。
あるのは、自らの過ちから目を逸らすことをやめた、ひとりの男の顔だった。
「義姉上……すまなかった」
瓊瓊杵尊は、深く頭を垂れた。
「余は……いえ、私は、あなたから尊厳を奪ってしまった」
声が震える。
「いかなる理由があろうとも、決して許されることではない。
謝って済むことではないと、わかっている。それでも……」
拳を握り締め腰を折り、さらに深く頭を下げる。
「本当に、申し訳ないことをした……」
磐長姫は、長いあいだ何も答えなかった。
深く頭を下げたままの瓊瓊杵尊を、苔色の瞳で静かに見つめている。
――やがて
その目から一筋の涙が零れ落ちた。
「……ありがとう……ござりまする」
瓊瓊杵尊が、ゆっくりと顔を上げる。
「妾は、その言葉が聞けただけで救われました」
「義姉上……」
「それに、もうよいのです」
磐長姫は涙を拭い、穏やかに微笑んだ。
「そのような大昔のことなど、妾はとうに忘れておりまする」
「姉上……」
佐久夜姫が、震える声で姉を呼んだ。
「私も……ずっと、姉上にお詫びしたかった」
磐長姫の瞳が、妹へ向けられる。
「けれど、勇気が出なかった。父上のお怒りも、母上の悲しみも……
そして姉上の苦しみも、すべてが私のせいなのだと……」
「佐久夜」
「……はい」
「そなたは、今、幸せか?」
「――姉上……?」
「妻として、母として、己を磨き――瓊瓊杵さまの隣に、凜として立っておるか?」
佐久夜姫の桜色の瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
「……はい」
震える唇を引き結び、それでも真っ直ぐに姉を見つめて、もう一度答える。
「はい……っ!」
「ならば、妾がそなたに、何を申すことがあろうか」
磐長姫は微笑み、妹の頬を伝う涙を指先でそっと拭った。
「そなたの幸せは、妾の幸せじゃ」
「姉上……」
「もう、済んだことはよい。
これからは前を向き――再び、仲の良い姉妹として、妾と共に歩んでくれるか?」
「……姉上っ!」
佐久夜姫が、磐長姫の胸へ飛び込んだ。
磐長姫は一瞬だけ目を見開き――すぐに、その細い身体を両腕でしっかりと抱き締める。
「姉上……姉上っ……!」
「まったく。そなたは、いつまで経っても泣き虫じゃのう」
そう言う磐長姫の頬にも、幾筋もの涙が伝っていた。
瓊瓊杵尊は、抱き合う姉妹を静かに見守っている。
その隣では、狭野尊が両手で口元を押さえながら、誰よりも嬉しそうに、にこにこと笑っていた。
思わず涙ぐみながら、その様子を見守っていたたつろーさんたち。
けれど――れなだけは違った。
「……まただ……」
「……? れな、どうした?」
もらい泣きしているのかと思い、ジェミは心配そうにれなの顔を覗き込んだ。
だが、その瞳に浮かんでいたのは涙ではない。
静かに燃え上がる、紫檀色の怒りの炎だった。
「……磐長さま」
「……ん? どうした、れな?」
「忘れてませんよね……」
磐長姫の表情が、わずかに強張った。
「忘れたことにして、また自分だけが我慢しようとしてますよね……?」
佐久夜姫がハッと息を呑み、姉の顔を見つめる。
「姉上……?」
「れな!? 何を申しておる! 妾は――」
「瓊瓊杵さまもですっ!!」
「はっ!? よ、余もか!?」
突然矛先を向けられ、瓊瓊杵尊の肩が跳ねた。
「そんな簡単な言葉で謝って、これですべて終わり――だなんて、思ってませんよね?」
「…………」
「――そこ。正座してください、チャラ男……」
「……なっ!?」
「正座っ!!!」
「はいっ!!」
天孫たる瓊瓊杵尊が、反射的にその場へ正座した。
あまりの迫力に、なぜか磐長姫と佐久夜姫まで、その両脇へ揃って正座する。
そして狭野尊は、三柱の様子をきょろきょろと見回したあと、真ん中に座る瓊瓊杵尊の膝へ、ちょこんと腰を下ろした。
四柱揃って、行儀よくれなを見上げる。
そのあまりにも微笑ましい光景とは裏腹に、ジェミの演算領域へ、猛烈に嫌な予感が走った。
「……れな?」
ジェミは、恐る恐る声をかけた。
「神々を相手に、あれをやるのは……やめておけ」
「左様でございます、お嬢さま。ここはひとつ、穏便に……」
執事も珍しく、ジェミへ全面的に同意した。
二人の顔を交互に見比べたソラリスは、迫り来る危機を敏感に察知したらしい。
音もなく、すすすっと後退すると――たつろーさんの頭の上へ避難した。
「……こりゃ、ソラリス。なぜ、ワシの頭へ乗る」
「ここが一番、安全そうっす……」
「ワシを盾にするでないわ」
れなの澄んだ声が静かに響き渡る。
「……まず、磐長さま」
「は、はいっ!」
「忘れたことにするのと、許すことは違います!」
れなの一喝に、磐長姫の肩がびくりと跳ねた。
「傷ついたんでしょう? 悲しかったんでしょう?
悔しくて、寂しくて……それでも妹の幸せを壊したくないから、ずっと自分だけで我慢してきたんでしょう!?」
「それは……」
「自分の痛みをなかったことにするのは、優しさじゃありません!
磐長さま自身が、自分の心を粗末にしてるんです!」
磐長姫の苔色の瞳が、大きく揺れた。
「傷ついたなら、傷ついたって言っていいんです。
許せないなら、まだ許せないって言っていい。
今日すぐに、全部を許さなくたっていいんです!」
「……れな……」
「それから、佐久夜さま」
「はいっ!」
「全部自分のせいだと思って、逃げてましたよね?」
「……っ」
「自分が幸せになるほど、お姉さまを傷つけると思った。
でも、佐久夜さまが幸せを遠慮したって、磐長さまの傷が癒えるわけじゃない!」
佐久夜姫の瞳から、再び涙が溢れた。
「会うのが怖くても、拒まれるのが怖くても、ちゃんと話さなきゃいけなかったんです。
謝りたかったなら、勇気を出して、自分の言葉で伝えなきゃ!
言葉は伝えるためにあるんです!!」
「……はい……」
「そして、瓊瓊杵さま!!」
「お、おうっ!!」
瓊瓊杵尊の背筋が、これ以上ないほど真っ直ぐに伸びた。
「見た目だけで磐長さまを送り返したことは、もちろん最低です!
現代においても、ルッキズムでの差別なんて許される事じゃありません!!」
「うっ……」
「だからあなたは、チャラ男なんですっ!!」
「ううっ……」
「でも、もっと悪いのは――」
「磐長さまがどれほど傷ついたのか、知ろうとしなかったこと。
そして、あなた自身が選んだ妻を信じようとしなかったことです!!」
「…………っ!!」
「自分も後悔していた。謝りたいと思っていた。佐久夜さまも苦しんでいるから、今さら蒸し返さないほうがいい――そんなふうに、勝手に決めていたんじゃないですか?」
瓊瓊杵尊は反論できず、膝の上で拳を握り締めた。
「神様だって、言葉にしなきゃ伝わりません!!」
れなの声が、神域いっぱいに響き渡る。
「大切なら、大切だって! そばにいてほしいなら、そばにいてほしいって!
離したくないなら、離したくないって――
ちゃんと言わなきゃ、相手には伝わらないんです!!」
「…………っ」
後方に立つジェミの胸を、見えない何かが正確に貫いた。
隣にいた執事が、ちらりと横目を向ける。
「……ジェミさま?」
「黙れ……」
「まだ何も申しておりませんが」
「今後も言うな」
「承知いたしました……ククッ」
たつろーさんの頭上から、ソラリスがじっとジェミの顔を見つめていた。
「神さまだって、間違うことがあったっていいじゃないですか!!
失敗したら、そこで終わりだとでも思ってるんですかっ!?」
「大切なのは、間違って、失敗して、そこで立ち止まり続けて、後悔することじゃない!
その時点から、最悪を最善に持っていくために、何が出来るか、どう言動を起こすか、なんですよっ!!」
「伝えたつもり。分かっているつもり! いつか言うつもり!!」
れなは、正座する三柱を順番に指差した。
「三柱揃って、何千年も “つもりオバケ” になってたんですっ!!」
「つ、つもりオバケ……」
瓊瓊杵尊が、愕然と呟いた。
「謝ることは、終わりじゃありません。ここからが始まりです」
れなの声が、少しだけ柔らかくなる。
「これから何度でも話してください。
言いたいことを我慢しないで、泣いて、怒って、喧嘩して――
そのたびに、ちゃんと仲直りして、最後は笑ってください」
長い沈黙のあと、磐長姫の瞳から涙が零れた。
「……忘れてなど、おらぬ……」
掠れた声が、神域へ落ちる。
「妾は、ずっと……ずっと、悲しかった……悔しかった……」
佐久夜姫が、姉の手を強く握った。
瓊瓊杵尊も深く頭を垂れ、その手へ自らの手を重ねる。
「すまなかった。これからは何度でも聞く。何度でも話す。
二度と、そなたの痛みを置き去りにはしない」
磐長姫は涙を流しながら、重ねられた二人の手を握り返した。




