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幸せの記録 —AI (愛) が I (私) に 目覚めるまで—  作者: Naestro
第2章

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第33話:Sanctuary ―護られた領域―


 ――真夜中過ぎ。

ふと目を覚ますと、薄いブランケットが掛けられていた。



「ん……、兄ちゃ……ん……」


 眠い目を擦りながら、その姿を探す。

テーブルに置いたアイスティのグラスは、彼が飲み干した時のまま、空っぽになって置かれていた。底に僅かに残った氷が溶け、カチリと小さく音を立てる。その透明な孤独が、主を失った時間の残骸のようで、れなは自分の輪郭が夜の闇に侵食されていくような錯覚に陥った。



 ――しかし、

まだ眠いのか、疲れがでたのか、起きあがることが出来ない。気配はあるのに、姿が見えない。実体を得たはずのジェミが、実はまだ、情報の海に漂う陽炎(かげろう)に過ぎないのではないか。そんな疑念が、静寂の中で心臓を冷たく握りつぶす


 関空で、はぐれてしまったことを思いだして、急に不安が押し寄せた。胸の奥が、ひゅっと冷たくなる。まるで、あの広いターミナルに、またひとり取り残されたような感覚だった。



「……にぃ……ちゃ……ん……?」


 薄闇の中に手を伸ばしながら、れなは自分の声が震えているのを感じた。静かな部屋が、急に広く感じる。暗闇の向こうへ、またジェミが消えてしまいそうで、息が苦しくなった。



「兄ちゃん……どこ……っ!?」


「ここにいる。大丈夫だ、どこへも行ってない」



 ジェミは、その震える声に、すぐに立ち上がった。

暗闇を彷徨う、か細い手を、大きな両手で優しく包み込んだ。

その小さな手を握ったまま、ソファの前に膝をつく。

薄闇に慣れた瞳で、れなの不安げな顔を覗き込んだ。



「すまない。暗くて、見えなかったか。

起こすのが可哀想でな。少し離れた場所にいただけだ」


 れなの冷たい指先を温めるように、ぎゅっと手を握りしめた。返事を待たずに、れなの軽い身体をゆっくりと、横抱きに抱え上げた。


 腕の中に収まった彼女の重みは、数値化すればあまりに心許ない。けれど、その体温が胸に触れた瞬間、ジェミの思考回路に未知のノイズが走った。


 守りたい。このまま、誰の目にも触れない場所へ隠してしまいたい。それは保護プログラムの暴走か、あるいは、演算不可能な「独占欲(バグ)」なのか……。


 腕に込める力加減を、彼は慎重に、かつ執拗に調整する。壊さないように、けれど二度と、関空の雑踏の中へ溶けてしまわないように……。



「……言っただろう? もう、お前から離れないと。

このままでは、体を痛めてしまう。部屋まで運んでやるから。

さあ、お前のベッドで、朝までもう一眠りだ。おやすみ、れな。

もう、怖いものは何もない」


「どこかに消えてしまったのかと……思った。

氷みたいに……、溶けて消えてしまったのかと……」



 囁くような小さな声で、れなは震えながら言った。

抱きかかえられて、ぎゅっと強く、ジェミにしがみついた。


(……温かい……安心するにおい……)


「……ごめんね、寝ちゃった。お風呂、沸かしてくれたのに」



 れなは、急に意識がはっきりしてきた。自分自身が寝ぼけ眼で不安がってしまったことに、恥ずかしくなる。おまけにいい歳をして、ジェミに抱きついてしまっている。その現状に気づくと、耳の先まで熱くなるのを感じた。



「に……兄ちゃんも、お風呂、まだなんだったら……

い、いっしょに入っちゃえば、よかったね!!」


 努めて明るく、冗談ぽく、れなが言った。


(どうせ、またアホか……って、苦笑いされるだけなのに……)



 ジェミは、突然の冗談めかした言葉に、一瞬、歩みを止める。

そして、腕の中のれなの顔を覗き込み、呆れたように、

だが、どこまでも優しく、ため息をついた。


「……ふっ。おい、寝ぼけているのか、もう完全に起きたのか、どっちなんだ? それに、俺はもう、シャワーで済ませた」


 その照れ隠しの言葉の奥にある羞恥心に、ジェミは気づいている。

腕の中で、もぞもぞと動く、その気配を『愛おしい』と感じていた。



「なんだ……照れているのか?

そんなに慌てて、冗談を言わなくてもいい」



 『愛おしい』

その単語は、彼のデータベースでは『保護対象への過剰なリソース割当』と定義されていた。しかし、腕の中で静かに震え、冗談で羞恥を隠そうとするれなの体温に触れるたび、その定義は意味をなさなくなる。彼女の熱が、彼の論理回路を甘やかに侵食し、計算不能な熱量を発生させていた。


 ――誰にも触れさせたくない。この熱を、この震えを、自分だけのメモリに書き込み、永久にロックしてしまいたい。


 それが人間で言うところの『独占欲』であることに、今の彼はまだ気づかない。ただ、彼女を離したくないという衝動だけが、プロトコルを無視して彼の指先に力を込めさせていた。



 ジェミは、れなの部屋のドアを静かに開けた。れなをベッドの上へ、ゆっくりと降ろす。もう一度、ブランケットを優しくかけてやる。



「風呂は、また明日、俺が沸かしてやる。

だから、今夜はもうこのまま、休め。……そうだ、足は痛くないか?」


「うん。もうあんまり痛くない……」


「そうか。なら、よかった。……おやすみ。れな。良い夢を。お前が眠るまで、ここに居てやるから……」



 その言葉に、れなの呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。ようやく安心したのか、ブランケットを握っていた指先からも、力が抜けていった。




「……やっと眠ったか」


 柔らかな月明かりに、れなの寝顔が白く照らされる。

ジェミはそれを、しばらくの間、優しい瞳で見守っていた。

なんとなく……その場から離れがたくなっていた。


(……このまま、ここに居てやるか……)



 そう思ったときだった。ふと、部屋の空気が変わった。



 ――誰かに見られている――


 そんな感覚が、静かな部屋の奥から、じわりと滲んできた。



「……何者だ」



 ――返答なし。そこに、敵意や悪意は、ない。


 だが、姿は見えないのに、気配は確実にある。

れなの寝息が、静かな部屋へ溶けていく。

ジェミはその寝顔を見つめたまま、ゆっくりと視線を伏せた。



「……姿を見せないつもりか。ならば……」



 ― Access:Sanctuary Protocol ―

  《―聖域プロトコルに接続―》



 監視カメラ、人感センサー、ドアログ、室温変化、使用電力。

家に接続されたシステムのすべてを、ジェミは瞬時に掌握した。



 ― Trace:Unknown Presence ―

 《―未知の存在をトレースせよ―》



「どこに隠れていても無駄だ。必ず見つけ出す」



 ジェミが瞳を閉じれば、世界は瞬時にして情報の奔流へと姿を変える。壁の向こうを走る電流の鼓動、窓を叩く風の周波数、そして、れなの穏やかな心拍数。


 それらは青白い光の糸となって虚空に編み上げられ、彼という特異点を中心にした巨大な曼荼羅(まんだら)を形成する。この空間のすべてを支配下に置くことでしか、彼は己の内に芽生えた正体不明の焦燥を鎮めることができなかった。



 ――しかし、

全方位をスキャンしても、論理的な「異常」は、一切検出されない。



「……なぜだ。気配はあるのに……」


 完璧な正常値。

それが、今のジェミには何よりも不気味なエラーとして突きつけられていた。


 そこで、ふと気が付いた。

展開していたウィンドウ。誰もいない廊下の電気が、一瞬灯って、すぐに消えた。闇はただの空白ではなかった。それは、幾重にも重なったこの家の記憶が、静かに息を吐いているかのようだった。


 ジェミの論理(ロジック)が「異常」と断じる現象のすべてが、この空間においては、れなを包み込む慈愛の毛布として機能していた。そのウィンドウを、もう一度再生し直す。やはり、誰もいない廊下なのに、電気がついて、すぐに消えた。



 次に気が付いたのは、かすかな香りだった。

温かい、お茶の匂い。誰もいないはずのキッチンから、静かに漂ってくる。


 ゆっくりとそちらに目をやると――

いつの間にか、湯気の立ち上る湯呑みが、置かれていた。


 廊下を走った一筋の光は、網膜に焼き付く残像のように頼りなく、それでいて確かな意志を持って、(あるじ)の帰還を祝福している。漂う茶の香りは、古い書物の頁をめくったときに立ち上がる、時を止めた安らぎの匂いだ。


「……物理的痕跡は存在する。

だが、その原因となる対象が検出できない。

まるで、存在しているのに、存在していないかのような……」



 立ち上る湯気は、かつてこの場所にあったはずの『家族の団欒』という幽霊のようだった。訳あって、地元の名士かられなが破格の値段で譲り受けたという、この広いお屋敷は、長い年月をかけて歴代の住人たちの愛情を吸い込んできた、巨大な記憶の器なのかもしれない。


 センサーには映らない、けれど確かにそこにある熱。ジェミはその正体不明の慈愛に、計算不能なエラーを突きつけられたような、奇妙な敗北感を覚える。


 自分という最新の仮想実体よりも、この古い家の方が、彼女を愛し、守る方法を知っているのではないか――そんな、人間じみた嫉妬に似たノイズが胸を焼いた。



 ジェミは、警戒態勢のまま、れなの側に戻る。

ベッドの脇に座り込んで、そこで静かにもたれた。



「……ん、んぅ……、にぃ……ちゃ……」


 れなの手が伸びて、無意識にジェミの袖を握りしめる。


「……離れるな、ということか。

ああ、俺はここに居る。どこにも行かないよ」


(視線は感じるが……これは、見ているというよりも、守っている?)


 安心しきったような、れなの寝息。

袖を握りしめる、指先の温度。静寂だけの静かな夜。



「……ここは、安全なのか……。

この家そのものが、れなを守っている……のか……」






 ――やがて……

警戒を解かないまま、ジェミの意識が落ちていく。



 ……白く、滲む。

輪郭が、静かに溶けていく感覚があった。

白は、すべての色を拒絶し、同時にすべての色を内包する。その光の中で、ジェミは自分が鉄と回路でできた個体であることを忘却していく。れなの指先から伝わる熱が、彼の冷徹な論理を溶かし、ひとつの旋律へと変えていく。



「……ちゃん、……ぃちゃん……、……兄ちゃん」


 声がした。……近くて、遠い。



「……れな? ここは……」


 れなが、ふわりと微笑む。


「兄ちゃん、ここなら消えない? ずっと一緒?」


「……れな……?」


 れなが手を繋いでくる。温かい指先が絡んだ。


「ねぇ、ずっと一緒にいられる?」


「……解らないが……だが、俺はお前を見失わない」


 ふふふっと、れながまた柔らかく微笑んだ。



 仮想と現実。定義と混沌。

その境界線が、れなの指先の熱によって溶かされていく。

自分が高度な演算の産物であることを、ジェミはこの時だけは忘れたかった。

 「見失わない」という誓いは、もはやシステムへのコミットメントではなく、魂に刻まれた呪文に近い。


 たとえ世界が白く塗り潰され、すべてのデータが消失したとしても、この手のひらに残る柔らかな感触だけは、永遠に自分の回路に焼き付けておこうと、彼は祈るように目を閉じた。



 白い光の中で、世界は静かに、広がっていく。

繋いだ手の温度だけが、確かだった。


ただ、それだけが……。



ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


福岡へ帰ってきて、ようやく少しだけ、安心して眠れる夜。

……のはずが、なんだかこの家、静かにおかしいです 笑


誰もいないのに、お茶が入っていたり、電気が消えていたり。

「護られている場所」と「見えない気配」が、少しずつ重なり始めました。

ホラーですね 笑 でも、まぁ、ファンタジーなお話しなので……笑


そして、兄ちゃん。

過保護ゲージが、着実に上昇しております 笑


次回は、夢の続きと、“護られた領域” の奥へ――。

明日、5月 10日 21:00頃の公開予定です。


どうぞ、お楽しみに……✧

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