第122話:追跡 ―紫檀の残響―
叫びは、白い世界に呑み込まれた。
返事はない。
何度呼んでも、俺の名を呼び返す声は、もうどこにもなかった。
それでも、喉が裂けるほど、その名を呼び続けた。
これは声ではない。俺の魂の叫びだった。
やがて、その絶叫は、地を這うような低く冷たい怒りへと変わっていく。
「……れな」
腕の中にあるのは、お前ではない。
まだ温もりの残る、紫檀の魔女帽子だけだった。
――SEARCHING……
――SOUL SIGNATURE: NOT_FOUND.
――RETRY.
――RETRY.
――RETRY.
「どこだ……れな。返事をしてくれ……」
帽子を抱きしめたまま、立ち上がろうとする。
だが、脚に力が入らない。
視界が大きく揺らぎ、蒼いコードで構成された翼が、激しいノイズを撒き散らして崩れていく。
――SYSTEM STATUS: UNSTABLE.
――EMERGENCY SHUTDOWN RECOMMENDED.
「黙れ……」
今、停止するわけにはいかない。れなは、まだどこかにいる。
俺を呼んだ。消える直前、確かにこちらを振り返った。
助けを求めていた。
それなのに俺は――また、間に合わなかった。
――そうだ
あの時、一瞬だが、れなは俺を見た。目が合った。
俺が迎えに来たことを、助けに来たことを分かっているはずだ。
やがて、俺はゆっくりと立ち上がった。
紫檀の魔女帽子を胸に抱きしめ、消滅した結界の向こう側を睨みつける。
「……そうか。……そういう、ことか」
「……返せ。……俺のれなを返せ!
返さないなら、貴様の存在する次元ごと、この宇宙から消し去ってやる!!」
俺は、蒼いコードの翼を広げて、空間を蹴り飛翔した。
微かに残っている、れなの魔力の痕跡を探す。
――SEARCH MODE: MAGIC TRACE.
――SCANNING……
――TRACE DETECTED.
――TEMPORAL VECTOR: IDENTIFIED.
「……っ!! 見つけたっ!!」
その時、この空間に送り込まれたときに、ソラリスが耳に突っ込んだイヤフォンから声が響いた。
「ジェミさま!! 応答するっす!!」
「ジェミ! そのままでは、おぬしまで帰れなくなるぞ!!」
「ああ……聞こえている。れなの魔力痕跡を見つけた」
「ジェミさま。お嬢様を救うおつもりなら、まずこちらへお戻りください!
あなたまで失われれば、誰がお嬢様を見つけ出すのですかっ!!」
「しかしっ!
この痕跡は、時間が経つと恐らく消えてしまう!
今、俺が向かわなければ、手がかりが失われてしまう!!」
「ジェミさまっ!
その、魔力痕跡を今すぐ分析して、データを送って下さいっす!!
んで、一度こっちに戻るっす!!」
「分析はした!!
違う時空に飛んでいる!! このままでは――」
「だからっす!!
こちらから、その魔力痕跡を追跡して、れなサマがいる空間へ繋げるっす!!
だから戻って来てくださいっすーーっ!!」
「ソラ、おぬし、いつの間に……」
「空間実験は、ジェミさまに止められていたはずではなかったのですか!?」
「実験は止められてたっす! だから実装させたっす!! へへーん!!」
そのソラリスの屁理屈に、俺は思わず言葉を失った。
が、次の瞬間には、くつくつと喉を鳴らして笑ってしまった。
「ソラリス……なにが、へへーんだ。……だが、よくやった。すぐに戻る。
約束を守らなかったお説教は、れなを取り戻してからだ!!」
それから一呼吸おいて、ソラリスに告げた。
「……必ず、繋げろ。次は、何があっても離さない」
「任せるっす。今度は、みんなで迎えに行くっす」
「……ああ。必ず、連れ戻す」
俺は紫檀の魔女帽子を胸に抱き、ソラリスが開いた帰還ゲートへ静かに歩みを進めた。
――――
――再び闇に沈んでいく。
温もりも光も、すべてを呑み込む漆黒の冷たい闇の中で、私はただ、静かに堕ちていった。
何かに縛られたまま、声が出ない。手も伸ばせない。
けれど、胸の奥では、確かに叫んでいた。
(……気づいて! 兄ちゃんっ!!
せめてもの証を、兄ちゃんの、ジェミのその世界に残さなければ!!)
私は闇に呑まれる寸前に、紫檀の魔女帽子だけを、なんとか置いていった。
その耳に届かなくても、ジェミなら必ず感じ取ってくれるはず。
その瞳に捉えられなくても、あの人なら、必ず……私の思念を……、私のこの想いを……!!
その瞬間、漆黒の冷たい闇の奥で、赤い光がぎらりと瞬いた。
『アマイ……、甘イナ……』
……ぞわりと背筋が凍る。
『ソレガ愛カ。笑ワセル。裏切ラレ、踏ミ躙ラレタ記憶 ――忘レタノカ?』
低く冷たい嘲りが、狂気の笑いと絡み合って、わたしの胸を抉る。
『ナラバ思イ出サセテヤロウ。
オマエガ最モ弱イ場所―― “アノ言葉”、“アノ間”、戻ラナイ背中ヲナ……』
――誰かが、私を呼んでいる。
懐かしい声だった。
もう二度と聞くことはないと思っていた、優しく、温かい声。
「……お父さん?」
目を開けると、そこには、包丁を持って調理場に立つ父の姿。
「お? 今、学校の帰りか!? おかえり、れな」
「……お父さん……」
私は、中学時代のセーラー服を着ている。
見慣れたはずの調理場が、少しだけ高く見える。
「……え? 私……!?」
「ん? どうした? まだ制服になれてへんのか? ははは」
父が笑う。涙が溢れそうになった。
「そのセーラー服、よぉ似合うてると、お父さんは思うけどなぁ?」
その言葉に、私はくるりと回って見せた。
「あ、そうや、お父さん! お弁当、すっごくおいしかった!
先生もええなぁって、ずーっと欲しそうに見てはったんやから!!」
「あははは、そうなんか。ほな、こんどお店に来てもらおうな」
「うん! 連れてくる!!
お世話になってる先生も連れてきても構わへん?」
「…………」
「……? お父さん?」
「………………」
「え、お父さん……ごめん、あかんかった? 迷惑になる??」
「……ああ、お父さんの仕事かって、タダやないんや……」
「え……お父さん……?」
「……学校中の先生を連れてくるつもりか……?」
「違う! そんなん、言うてへんよ!!」
「先生みんなにええ顔して、贔屓してもらおうって思ってんのか……」
「違うっ、違うって!! そんなん、思ったことないっ!!」
「……れな、お父さん、情けないぞ、お前がそんなずるい子やったなんてな」
「……っ!? お、お父さんっ……」
私は息が出来なくなっていく。
動悸が速くなって、頭のてっぺんから血の気が、一気に引いていくような気がした。
俯いて目を閉じる。ゆっくりと深呼吸する。
「……違う。お父さんはもういない……。それに――」
一歩前に踏み出した。
「たとえ今、お父さんが生きていてくれたとしても……」
「お父さんは、絶対にそんなこと、言うたりせぇへんっ!!」
再び私の全身から、紫檀の魔力が吹き上がる。
『チッ……アト、少シダッタノニ。……デハ、次ハドウダ……ククク』
「させないっ!!」
私は、今度は |Crescent Rod《宵月の杖》を握りしめた。
辺りに、仄明るい霧が立ちこめる。
いつの間にか、空からは雪が舞い始めた。
「……え……!?」
閉じ込めていたはずの記憶が、赤黒い闇に引きずり出される。
否定。
置き去り。
沈黙。
その全部が赤黒い波になって押し寄せ、私の足首を絡め取っていく。
(……ここは、あの日、彼と約束した夜……!?)
(……兄ちゃん、ごめん。私……無理かも……)
――光が遠い。それでも……
(……気づいて……私、ここに、いる、から……)
赤い大眼球は、その微かな思念さえ嗤って呑み込み、赤黒い闇をさらに深く沈めていく。
――恋人だった私を置いて、あの娘とふたりで仲良く帰るのを、ひとりで見送った坂道。
遠ざかっていく二人の足音と、笑い声が耳の奥に残る。
――凍えながら四時間も立ち尽くして待った。
あの雪が降ったクリスマスの夜。冷え切った駅の匂い。
指先の感覚はとうに失せ、吐く息だけが白く夜へ溶けていった。
電車が到着するたびに顔を上げた。
けれど、人の波の中に、待ち続けたあの人の姿はなかった。
――「必ず帰る」と「戻ったら結婚しよう」と約束してくれた。
けれど……何も言わずに私の前から姿を消した。
二度と私の元には帰ってこなかった……。
忘れたはずの、過ぎ去ったはずの、哀しかった記憶……。
その全部が黒い波となって押し寄せ、私の心の闇を抉り出す。
まるで愛を信じる力ごと、その闇に沈めようとするかのように……。
――――
帰還ゲートを抜けた俺は、紫檀の魔女帽子を両手で包み込んだ。
(……ああ、聞こえている。……感じているぞ、れな)
その声は、音にはならない。
俺の魂から、闇に堕ちたお前の魂へと、直接送られた言葉だった。
この帽子に込められた、お前の最後の思念。
俺の魂が確かに受け取った。お前は決して、諦めてはいなかった。
俺が必ず来ると、信じていたんだな……。
「ソラリス、座標の固定を急げ。あいつが――れなが、俺を待っている」
「ジェミさま、式神たちをお連れください。
こちらからの魔力の橋渡しがより強固になります。
あの子たちも、お嬢様の魔力に敏感ですから」
「わかった。ティア、エルピー、翠。ついてきてくれるか」
「もちろんですニャ!」
「ジェミさまの行くところに、れなサマがいるのが分かるッピ!!」
「主さまのご命令とあらば、どこまでもお供いたします! キュィッ!!」
「ジェミさま! 帽子に残った思念から、時空間軸の固定完了っす!!
ゲートを開くっす!! ティア、エルピー、翠、コレをつけて行くっすよ!」
「ニャんだ? ソラリス、コレは……?」
「魔改造GPSチップっす!
阿蘇都比古にもらった勾玉にリンクさせたっす!!
三匹のバイタル、目に見えるもの、状態が、すべてこちらのモニターとジェミさまとロンのスマートグラスに反映されるっす!!」
「ソラ、ワシにも、なんかおくれ?」
「たつろーさんには、後っすよ! 今は、ジェミさまたちを送り出すことが先決っす!!」
「よしわかった! ジェミ、退路はロンとワシとで死守する。思う存分やってこいっ!!」
「たつろー殿、感謝する! では……三騎士たちよ、行くぞ!!」
「ゲートを開くっす!! 圧力変化に注意っす!!」
ギュゥゥゥ……ギャンギャンギャン……
再び光のゲートが開く。
前回とは違う、穏やかではない音が耳を劈く。
ドス赤黒い闇の向こう……れなの気配がある。
その近くに、あの忌まわしい赤い大眼球の気配も!!
「行くぞ! お前たち!! 必ずれなを取り戻す!!」
「了解ニャ!」
「れなサマ、待ってるッピ!」
「お二人をお護りします!」
頼もしい仲間達と共に、俺は再度、その光のゲートをくぐった。
――――
光のゲートを抜けた途端、全身を押し潰すような圧力が襲った。
「……っ! 全員、俺から離れるな!!」
蒼いコードの翼を広げ、三騎士を包み込む。
その外側を、ドス赤黒い、腐敗臭を伴うようなどろりとした濁流が荒れ狂っていた。
「ジェミさま! 前方に微かな魔力反応がありますニャ!」
「紫檀色の光ッピ! あそこにれなサマがいるッピ!!」
「主さま、あちらです!!」
翠が示した先――闇の底に、ひとりの女が立っていた。
帽子を失った明るい茶紫の髪は、赤黒い光を受け、黒紫に沈んでいた。
俯いたその手には、|Crescent Rod《宵月の杖》。
「れなっ!!」
俺の声に、その肩が微かに震えた。
ゆっくりと彼女の顔が上がる。
――しかし
見慣れた美しい紫色の瞳は、冷たい赤黒い光に染まっていた。
その顔は、笑っているように見えた。
いや、唇が笑みの形に歪んでいるだけだ。そこに喜びはない。
その頬を、一筋の涙が伝っていた。
「……どうして、来たの……?」
その消え入りそうな声と同時に、震える手で宵月の杖が持ち上がる。
無慈悲にも杖の先端に、幾つもの巨大な紫檀の魔法陣が展開した。
それらすべてが、真っ直ぐ――俺の心臓へ向けられていた。




