第118話:囁き ―もうひとつの声―
――翌朝
昨夜ふと見た時にあった、霧島でもらった地図に滲んでいたはずの黒い染みは、跡形もなく消えていた。
「……あれ?」
私は地図を持ち上げて、窓から差し込む朝の光に透かしてみる。
何度見ても、いつもの地図だ。
(――見間違い、だったのかな?)
そうだ、昨日は階段から落ちたし、頭も打った。
きっと疲れていたんだろう。
「れな、どうした? 何を見ている?」
背後から聞こえた低い声に、肩が跳ねた。
振り返れば、兄ちゃんがいつものように穏やかな顔で立っている。
「……う、ううん。なんでもないよ」
私は慌てて地図を畳んだ。
――その時だった。
『……なんでもない、か』
「……え?」
思わず振り返る。
「兄ちゃん? 今、何か言った?」
けれど、そこには誰もいなかった。
いつの間にかキッチンに戻っていた兄ちゃんが、私に声をかける。
「れな、ハーブティーでも淹れようか?」
「……あ、うん……温かいミルクティーがいいな」
「わかった。少しハチミツも入れて、甘みもつけてやろう」
「うん! ありがと!! 優しいねっ♪」
兄ちゃんは優しい。
――いつだって優しい。
『……誰にでも、な』
「……え?」
「……な? れな? れなっ!?」
肩を揺さぶられて、私はハッと顔を上げた。
「に、兄ちゃん? なに? どしたの??」
「お前……今、誰と話していた?」
「え? 私ひとりだよ? 誰とも話してないけど……」
「……独り言、だったのか?」
「やだぁ~、変なこと言わないでよぅ!!」
「……ほら、温かいミルクティーだ。ロンがクッキーも出してくれた」
「わぁ、嬉しい。ロン! ありがとうね!!
私、ソラっちとたつろーさん、呼んでくるね」
「……ああ」
私はいつも通り、鼻歌を歌いながら、ソラリスのラボへと向かった。
「ソラっち、ティータイムにしましょ。ロンがクッキー出してくれたよ」
「わーい! すぐ行くっす! れなサマ、ちょっと待っててくださいっす!」
「ラボもだんだん、カッコよくなっていくね~」
「そっすか~!? やったぁ♪ でもまだまだ、機材が足り無いっす」
「墜落した船の機材は、まだ持ってこられそうにないの?」
「空間を繋ぐ実験を、まだジェミさまに禁止されてるっすからね~」
「あ、そっかぁ。後で兄ちゃんに、それとなく一緒に頼んであげるね」
『……また、困らせるのか?』
「…………?」
「れなサマ?」
「ん? あ、うん、一緒に頼みに行こう……」
「ほんとっすか!! やったぁ! ありがとございますっす!!」
「じゃ、リビングにいこっか。たつろーさん、どこに居るか知ってる?」
「さっき、お庭で体操してたっすよ? 先に戻ってるかもっす」
私はソラリスを肩に乗せると、リビングへと戻っていった。
先ほどソラリスが言っていたとおり、たつろーさんは既に戻っていて、庭の池の畔で、ラジオ体操をしていたらしい。
たつろーさんは、「おう!」と私たちに手をあげて微笑んだ後、ジェミとまた地図を広げて、何やら話し込んでいた。
私はふと、急に不安が過ぎる。
(……昨夜のあの染み、兄ちゃんたちには見えてたのかな)
『言わなくてもいい』
(え? ……なんで?)
『心配事させるだけだろう?』
(……そっか。……うん、そうだよね……)
ダイニングテーブルの前で立ち止まって動かなくなっていた私に、ソラリスが呼びかけていた。
「……サマ? ……なサマ?? れなサマっ!?」
「あ、うん? なに、ソラっち?」
「ぼーっとして、どしたっすか? 昨日ぶつけたおでこ、痛いっすか?」
私は無意識に、額に手を当てた。
ソラリスのフェムトケアのお陰で、たんこぶはすっかり治り痛みもない。
「ううん、痛くない! たんこぶもなくなってるし、大丈夫みたい」
「よかったっす♪ じゃあ、クッキー食べるっす~♪」
「ソラっちは、ミルクにする?」
「こないだの梅ジュースがいいっす!
スッパ甘くて、しゅわしゅわで、美味しかったっす」
「あはは、気に入ってくれたのね。じゃあ、ちょっとまっててね」
「はぁいっす! れなサマのクッキーは残しておくっす!!」
私はクスクス笑いながら、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けたとき、また頭の中に声が聞こえる……。
霧島での、磐長姫さまと佐久夜姫さまの言葉がリフレインしていた。
『では、此度に限っては、れなのほうが鈍感脳じゃな』
『妾たちが恋愛脳なのではない。れなが恋愛に限って、あまりに鈍いのじゃ』
(……私が鈍感なのは、わかってるもん……)
『そう。……気づいてなかったのは、お前だけだ』
(……だよね。わかってる……)
『だから、知らないフリ、気づかないままで、過ごせばいい』
(……知らないフリ……きづかないまま……)
冷蔵庫の冷気が、やけに冷たく感じた。
炭酸のペットボトルへ伸ばした指が、ふと止まる。
『……その方が、みんな幸せだ』
(…………みんな、幸せ……)
そうか。私が黙っていれば、この穏やかな時間は壊れないんだ。
私は、なぜかその思考を否定できなかった。
ソラリスの梅ジュースを入れた後、自分用にも一杯入れた。
せっかくだからと、たつろーさんと兄ちゃんにも、梅サワーを用意した。
ロンはそれを後ろで黙ってみていたが、トレーに乗せたときにそれぞれのグラスに氷を入れてくれた。
「ありがとね、ロン……」
「……いえ」
ダイニングへ戻り、ソラリスにグラスを渡す。
そのままリビングへと進んで、ふたりにもグラスを置いた。
「はい、たつろーさん。兄ちゃんもどうぞ」
「おお、れな、気が利くのぅ、梅サワーか。ありがたい」
たつろーさんはニコニコして、お礼を言ってくれた。嬉しかった。
けれど、兄ちゃんは、一瞬だけグラスを見て、私を見た。
「……れな? 俺は酒を必要としないが……ありがとう」
「……あ、そうだった。すぐに分解しちゃうんだっけ……ごめんね?
なんか……何も考えずに、普通にもって来ちゃった。あはっ」
「……いや、いいんだ。飲めないわけじゃない。いただくよ」
そういった兄ちゃんの目は、優しく微笑んでくれていたが、その瞳の奥で私を射抜くような光が走ったことに、私は気づかなかった。
「そういや、れな。昨夜のことじゃが、この地図、なんかちょっと黒くなっとらんかったか? この自宅付近じゃったような気がするんじゃが」
私は一瞬動きが止まる。
ドキッとしたと言うよりも、なぜか心臓から血の気が引くような、そんな感覚に陥った。
その時、また頭の中に声が響く。
『何も見ていない。何も言わなくていい。もう済んだことだ』
耳の奥が、ひやりと冷えた。
その声が、私の言葉になって出て行く。
「……ううん。私は気づかなかったなぁ。何も見てないよ?」
兄ちゃんが私から目を逸らさずに、静かに答えた。
「……そうか。ふむ」
「うん? 何か変かでもあったの……?」
「……れな、今日は俺の近くにいろ。目の届くところにいてくれ」
「え? うん、わかった……」
その言葉に、私は少し安心した。
――けれど、また声がする。
『ほらな。優しいだろう? ……誰にでも、な?』
囁くような声が、頭の中に響く。
「……誰にでも? それは家族だから……?」
『そうだ。家族だから守ってくれるだけだ』
「……側にいろって、言ってくれた……」
『“私” がそういう存在にしたからな』
「……私、が……?」
「れな? 今、何か言ったか?」
兄ちゃんの問いかけに、私は自分が声を漏らしていたことに気づいて、肩を揺らした。
「……え? あ、ううん、なんでもないの!」
『……そうだ。“私” が、そうするように仕向けたんだ』
「……わたしが……」
兄ちゃんの視線を感じて、私はハッと顔を上げて、ふるふるっと頭を振ってから、笑顔を見せて、ソラリスのところへ戻っていった。
「れなサマ、梅ジュース、美味しいっす~♪
この、マーマレードのクッキーとすっごくよく合うっすよ」
「あんまり食べ過ぎちゃダメよ? 晩ご飯たべられなくなるからね?」
「はいっす! でも、お皿のは食べていいっすか?」
「あはは、仕方ないなぁ。じゃあ、これだけね?」
『私も食べたいと思ってたのにな……』
「……え?」
「ん? れなサマ? どしたっすか?」
「あ、ううん、なんでもないよ。ちょっと旅の疲れが出てきたのかな……」
「そうなんすか?
ラボに医療ポッド作ってみたから、食べたら試してみるっすか?
カプセルの中で、少し眠るだけで楽になると思うっすよ」
「そんなの作っちゃったの!? すごいね! 試してみてもいい?」
「もちろんっすよ~♪ 使った後に感想聞かせてくださいっす。
まだまだ、きっと改良していくとおもうっすから~!」
「うん、わかった。ありがとうね」
「えへへ~♪ れなサマのお役に立てるなら嬉しいっす~♪」
「じゃあ、食べ終わったら連れて行ってくれる?」
その時、ジェミが声をかけてきた。
「待て。新しく作った装置に、今のれなを入れるのはダメだ」
「えっ!? ちゃんと安全確認したっすよ!? 技術的な問題も無いっす!」
「そういう意味じゃない。今日は、れなの側で俺が診る」
「やだなぁ、兄ちゃん、心配性すぎるよぅ」
私は少し嬉しかったが、へらへらと笑ってみせた。
なのに、また声が囁く――。
『ほら、また守ろうとしてくれる』
(……なんで、そんな言い方するの?)
『何もおかしくない。“私” は、疲れているだけだ』
(あ……そうか、ちょっと疲れてる……うん。
……でも、私、さっきから、何でこんなに……)
『疲れているからだ』
兄ちゃんが近づいてきて、そっと私の額に手を当てた。
「熱はない。たんこぶもきれいに引いた。痛みのパルスも出ていない。
身体的には異常は無いようだな……」
そう言いながらも、兄ちゃんはなぜか余計に怪訝な顔をした。
「脈も正常。瞳孔反応にも異常は無い……」
「ほらねぇ? 私は大丈夫だって。魔法使いすぎた反動かもしれない~」
「……だから気になるんだ」
兄ちゃんは少し強い口調で、私を見つめて言った。
「ふむ、魔力反動もそれ程は感じないがのう? れな……」
たつろーさんの言葉に、ロンも静かに頷いている。
私は何となく気まずさを感じて、残っていたクッキーに手を伸ばした。
「……お嬢様、先ほどは、ジェミさまにも梅サワーをお持ちになりましたよね」
「ん? ああ、うん。でも、別に飲めないわけじゃ……」
「ええ。ですが、普段のお嬢様なら、まず選ばれません」
兄ちゃんが執事を見た。執事も兄ちゃんを見る。
なんだろう? ふたりとも、何か同じ様な違和感を感じているような……。
でも、私は至って普通に行動したつもりだった。
「そんなの、きっとたまたまだよ。たつろーさんに入れたついでというか」
私は笑った。その瞬間、また声が聞こえた。
『そうだ。ただの偶然。たまたまだ』
(……うん、偶然だよ……)
笑顔のまま固まっていたら、ロンが言う。
「昨夜から……、お嬢様は、少々……お疲れなのでは?」
「あー、うん、きっと旅の疲れが今頃出てきたんだと思う」
「……お前、それをさっきから、何度も言っているな」
「……え……?」
自覚していなかった。ただ疲れていると思っていた。
だから、そう言っていただけなのに……? 繰り返してた??
「今日は、ひとりになるな。俺の側にいろ」
「ええ~、大げさだよぉ。ソラっちのラボにも行きたい~」
「そうっす! じゃあ、ラボでワタシが一緒にいるっす!!」
「では、わたくしも一緒に向かいましょう」
「なら、ワシも一緒に行ってみようかのぉ。らぼとやら、見てみたかったしのぅ」
「……揃いも揃って、全員か……はぁ」
兄ちゃんは少しほっとしたような、呆れたような溜息をついた。
みんなが私を心配してくれている。
(……あはは、みんな心配性なんだから……)
『ちっ……随分と囲まれてしまったな』
(違うよ、心配してくれてるだけ……)
『違う。監視されているんだ』
(……そんなわけないよ……)
『……ふっ。そう思うなら、それでいい……』
私は笑いながら、もう一枚クッキーに手を伸ばす。
みんな、本当に心配性なんだから。
――そう思っていた。
ただ、兄ちゃんとロンが、一度だけ視線を交わしたことに、私は気づいていなかった。




