第2章:22 『狂った校舎』
※シンゴ君が元気よく発声練習をします
――痛み。想像を絶する痛み。
ぬるま湯をたゆたっていたキサラギ・シンゴの意識を引き揚げたのは、突如腹部に生じたこの世のものとは思えない激痛だった。
いや、もはや痛みを『痛み』だと処理する脳が、想像を絶する痛みで正常に働いていない。――結果、痛みは『痛み』だと正確に処理されず、キサラギ・シンゴの脳はデタラメな処理を行う。
『熱い』――『気持ち悪い』―――『むず痒い』――――『気持ちいい』―――――『ぐ?るぐる』――――――『?浮?遊感?』―――――――『??冷?た????』――――――――『*?**』―――――――――『*!?☆・!』――――――――――『ご!?ろ殺”!』―――――――――――『6尾4イ929四888E』――――――――――――『イ*い』。
「ン〜〜〜〜〜〜〜ッッ!?!? んっ、ん〜〜〜〜??!! ンっんッん〜〜〜〜……ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っッっッ!???!」
必然。意味の分からない痛みに、シンゴは絶叫を上げる。
しかし声は声にならず、まるで口を何かで塞がれているかのようにくぐもってしまう。
視界も暗闇に包まれており、目から入ってくる情報はゼロ。
それにたとえ目から情報を得れたとしても、シンゴの脳がそれを正しく処理できるかは怪しいところである。
しかし次の瞬間、シンゴの脳は痛みを『痛み』だと認識する。
――吸血鬼の再生能力。
この体質――アリスから貰った力は痛みから、苦しみから、理不尽から、絶望から幾度もシンゴを救い出してくれた。
しかし現在、シンゴの体を修復する超常の力は痛みを、苦しみを、理不尽を、絶望をシンゴに強いてくる。
さらに現実は、無情にも優しくシンゴの背を押し、崖下に突き落とす。
吸血鬼の再生能力のおかげで、シンゴは痛みを『痛み』だと認識できるようになった。それはつまり、痛みを『痛み』だと正常に処理できるくらいには脳の許容量が確保されたという事だ。
その脳の空き容量に、新たな情報が外部から入力される。
シンゴの耳に水っぽく、湿った音が滑り込んだ。
その音は紛れもなくシンゴの腹部から聞こえてきており、腹の奥底を穿り返されるような喪失感と共に、人間が認識できる限界の『痛み』を笑顔で引き連れてくる。
「んっんッンっんッんんっんっンッンんんッッッッ?!?!?!?!?!」
呼吸は浅くなり、シンゴの口からくぐもった珍妙な声がとめどなく漏れ出す。
気を失えれば、どれほど楽だろうか――。
しかしそれは、吸血鬼の力が許さない。
沈みかける意識を、痛みが何度も無理やり引き上げる。
喪失と再生がせめぎ合い、シンゴに終わりの見えない最高の痛みをもたらす。
見事な黄金比。されどシンゴからすれば絶望比。
腹部から何か長いモノが引っ張られ、やがてぶちりと引き千切られる。
そして、くちゃくちゃという咀嚼音――。
ここにきてシンゴは、自分を背後から眺めるような奇妙な感覚に囚われながら、他人事のように理解する。
自分は、何かに食べられていると――。
しかし今のシンゴからすれば、自らを食す者の正体などどうでもいい事だった。
ただひたすら望むのは、この苦しみからの解放のみ――。
そしてその解放は突然、前触れなく訪れた。
腹部に潜り込んでいた何かが離れ、シンゴの神経を絶え間なく焼いていた激痛が徐々に遠ざかる。
しかしたとえ損傷が治ったとしても、痛みがなくなったとしても、シンゴの削り取られた精神力は回復しない。それは力の対象外だから。
引いていく痛み。シンゴは果てしない虚脱感と共に、負荷をかけられ続けていた神経が解放されるように軽くなっていくのを感じていた。
やがて、許容量を確保したシンゴの脳が新たな情報を受け入れる。
――顔。顔の上に何かが乗っている。それはどこか柔らかく、温もりを感じられるものだった。
そしてそれは、シンゴが認識するのを待っていたかのようなタイミングで離れていく。
押さえ付けられるような重圧が顔から遠ざかると同時に、シンゴの目を光が焼いた。
それによって判明する、現在進行形でシンゴの眼前から離れていくものの正体。
それは、動物の足の裏を想起させるものだった。
鋭い爪に、シンゴの顔をついさっきまで踏み付けていた黒い肉球。
猫や犬をひっくり返してみれば窺える、未知ではない既知の範疇にある手の平。
しかし、明らかに違う点が一つ――。
――大きい。
その手の平は、先ほどまでシンゴの顔全体を覆っていたのだ。当然と言えば当然だが、改めて視界に収めてみるのとでは色々と違ってくる。
やがて、その巨大な動物の手の平は一定の高さに達すると、横に引っ込められた。
それによって顕になる、シンゴを見下ろしている者の前に細長い顔。
そいつは血走った眼をシンゴに向け、荒い息を鼻と口から漏らしている。
口からは何やら大量の砂が零れ落ちており、その横に並ぶ牙は一つ一つが極めて殺傷能力が高いであろう事が容易く想像できた。
顔に吹き付けられる息は、この上ないほどに臭い。肉が腐乱したような、ツンとした匂いが鼻の奥を蹂躙する。
しかしシンゴがその腐臭のような匂いに対し、顔をしかめる等のリアクションを取る事は叶わなかった。
長く突き出た顔が、唾液を糸のように引きながら真横にぱかりと開いた。
大量の砂が、シンゴの涙と鼻水と脂汗でぐちゃぐちゃになった顔に落ちる。
無数に並ぶ牙を目に映したシンゴは、涙を流し懇願するように――、
「ぁ……や、め――――」
生暖かい呼気と共に、シンゴの視界が再び暗闇に包まれる。
生まれるのは、両のこめかみから耳にかけて突き刺さる牙の鋭い痛み。
「ぁ、あぁ……ッ! い、痛ッ!! やめ、やめて……があッ!? あ……ぐぅぅうう〜〜〜!!?? あっあっあっ……あ”あ”ああぁぁぁああああああああああああッッ!!!!!!!!」
ぎりぎりと万力のように顔の側面を圧迫され、シンゴの耳に自らの頭蓋が軋む音が響く。
さらに――
「ぉ――――ごッ……あ――!?」
獣はシンゴの顔を咥えたまま、首をめちゃくちゃに振るった。
首の骨がごきごきと音を立て、やがて――
「ぁ――――」
ぶちりと音を立て呆気なく、キサラギ・シンゴの首は噛み千切られた。
――――――――――――――――――――
頬に当たる机がひんやりと冷たい。
うっすらと瞼を開けたシンゴが最初に感じたのは、そんな感想――
「おぉああああああああ――――あ?」
シンゴは悲鳴を上げ、跳ね起きるように席から立ち上がる。が、叫び声を途中で疑問形に変えた。
シンゴがいる場所。それは、シンゴが通い慣れた学校の見知った教室だった。
誰もいない静かな教室は、まるで世界に自分以外の人間が存在していないかのような錯覚をシンゴに与えてくる。
シンゴは顔に汗を伝わせながら、ふと上を見上げた。
「あ――――」
視線の先。時計は反転した文字と共に、逆さに時を刻んでいた。
その瞬間、シンゴの脳裏に二つの記憶が蘇る。一つは――
「俺、確か前……ここに来た事があるような……」
そう言いながら、シンゴは窓の外に視線を移す。
窓の外には暗闇が広がっており、全くもってシンゴに情報を与えてはくれない。
次いで、周りを見渡す。
誰もいない、がらんとした教室。
徐々に思い出される記憶では、以前自分は――
「誰かのいたずらだと思って……それで……」
シンゴはチラリと教室の扉に視線を移す。
いつもと変わらずそこにある教室の扉は、しかし現在、シンゴには安全地帯と危険地帯を隔てる最終ラインに見えた。
ゴクリと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえる。
しかし、やがてシンゴは首を振ると、思い出したもう一つの記憶に触れる。
シンゴは左手を腹に、右手を顔に当てると、
「…………どこも、おかしくねえよな……。でも俺、さっきまで何かに食われて……最後に頭を……」
そう、先ほどまでシンゴは大きな獣に食い漁られていたのだ。なのにどうして自分はここに――いやそもそも、どうして自分は獣に食われていたのだろうか。
シンゴは、先の地獄のような苦しみをどこか他人事のように感じながら、さらに以前の記憶を掘り返す。
そして辿り着いた記憶は――。
「そうだ……確か俺はあの白い女と話して、その後みんなと合流しようとして……。それに“奴ら”が来るって……“死んで”……くそッ! こっから記憶がねえ……!」
シンゴは額に手を当て歯ぎしりすると、机の上に拳を叩きつける。
肝心なところでぶつ切りになっている己の記憶に、シンゴは意味がない事を理解しながらも、それでも言い知れぬ憤りを感じた。
そのまま数十秒ほど固まっていたが、やがてため息をつくと、シンゴは顔を上げる。
そして改めて教室の扉に目を向けると、
「行くしかねえって事……だよな」
シンゴは一人そう呟くと、扉の前まで歩を進める。そして扉の前に立つと、その取手に手をかけ、ゆっくり、ゆっくり扉を開いた。
扉の先の廊下はひんやり冷たく、暗い。そしてどこか、この教室内とは全く別世界なのではないかという印象をシンゴに与えてくる。
その様子を見て、シンゴはやはりこの場所が以前と同じ所だと悟る。
やがて後ろ手に扉を閉めて廊下に出ると、シンゴは廊下の先を覆う暗闇の奥を見据える。
どこまでも延々と続いているのではないだろうかと錯覚させる、どこか吸い込まれるような闇が広がっている。
ぞくりとした悪寒が背筋を駆け上がり、シンゴは咄嗟に教室の中に入ろうと扉に手をかけた。しかし――
「え? なんで!? くそっ! 開か……ねえッ!!」
扉はガタガタと音を立てるだけで、何故か開こうとしない。シンゴは何度も開けようと試みるが、まるで鍵をかけられたかのようにびくともしない。
やがてシンゴは正攻法で開ける事を諦め、蹴破って開けようと扉を思いっきり蹴りつける。
最初は一種の罪悪感のようなものに囚われ、それほど強くは蹴れなかったが、やがて二回、三回と蹴りつける内に躊躇はなくなる。しかし扉は壊れる事なく、シンゴの侵入を拒み続ける。
まるで堅い壁を蹴りつけているような感触に、やがてシンゴは軽い苛立ちが胸の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
シンゴは小さく舌打ちをすると、教室のすぐ近くに備え付けられていた消火器を手に持つと、扉の窓の部分に投げつけた。
「らあッ!!!!」
しかし――、
「ごっ――」
シンゴの手から放たれた消火器は、しかし扉の窓を突き破る事なく跳ね返り、そのまま投げた余韻で硬直していたシンゴの顔面にぶち当たる。
シンゴは鼻を押さえてその場にうずくまる。
顔面を押さえ、チカチカとする頭と痛みに盛大に顔をしかめる。やがて鼻血を袖で拭きながら立ち上がると、眼前の侵入を拒む理不尽な扉を目尻に涙の浮かんだ目で睨み付ける。
「なんなんだよ……くそッ! くそッ!! くそがッ!!!」
シンゴは意味もなく扉を蹴りつける。何度も何度も何度も。
しかし、やがて疲れ果てて膝に手を置く。
シンゴは荒い息を吐きながら、
「はぁ……はぁ……進め……ってのかよ……」
シンゴは再び廊下の奥を見据えると、息を整え、やがて無言のまま歩き出した。
十数歩ほど進んだ辺りから、急に体は震え始め、歯はガチガチと音を立て始める。
シンゴは気が付くと、いつの間にか自分の体を抱くように腕を回していた。
寒くはない。しかし寒いのだ。
シンゴは意味の分からない寒気に体を震わせながらも、歩を進めた。
しかし、進んでも進んでも、廊下に終わりが見える気配はない。
以前はすぐに階段に差し掛かったのだが、今回は既に着いてもいい距離を過ぎているにも関わらず、階段は現れなかった。
正直、シンゴはあの階段の下に下りる意思は毛頭ないつもりでいた。しかし、あの階段が現れないとなると、この終わりのあるか分からない廊下での所謂、目安となるものがなくなってしまう。
先ほどから代わり映えのしない廊下が延々と続き、シンゴは自分が一歩も前に進んでいないのではないかという疑念に駆られる。
しかし、ここから引き返したところで教室には入れず、しかも教室に辿り着けるかどうかさえ怪しいところである。
数十分だろうか。体感時間でそれくらい歩いたところで、とうとうシンゴの足は駆け足に変わる。
スピードは緩まる事はなく、徐々に上がっていき、やがて全力疾走へと変わる。
「はぁはぁ……くそ、くそ、くそ、くそ……ッ! なんなんだよ……なんなんだよ!? 出せよ!! こっから出せよッ!? ちくしょうがぁ!!」
目尻に涙を浮かべ、シンゴは無限に続く廊下をひた走る。
しきりに「くそッ」と呟き、息を切らしながら走る。されど、一向に廊下の終わりは見えてこない。
業を煮やしたシンゴはとうとう立ち止まると、肩で息をしながら視線を上に向けて吠える。
「いるんだろ、おい!? お前! 俺を出せよ!! つうか、出てこいよ鳥野郎が!! ぶっ殺してやる!!」
シンゴは屋上にいるであろう紅蓮の炎を纏った半身の鳥に向かって、顔を狂気に歪ませながら挑発を繰り返す。
ひとたび怒りが湧き上がると、それはとめどなく溢れ出してシンゴの意識を真っ赤に染め上げた。
「なんだよおい? 怖気づいたのか? ああ? ふざけんなよ!? こっちは――あ?」
シンゴの言葉の途中、どこからかキィというドアが開く音が聞こえた。
シンゴは音の聞こえた方向を淀んだ眼で見据えると、やがて歩き出す。そして舌打ちをすると、
「――来いってか? 自分から来やがれよ、焼き鳥野郎が……」
シンゴは顔を歪ませ、毒を吐きながら廊下を進む。
そして、廊下の一か所に不自然に明るくなっている場所を見つける。
シンゴはその明かりの元まで辿り着くと、その明かりが差してきている方へと目を向ける。
――上階へと続く階段。光は、その階段の上から差していた。
おそらくこの階段は屋上に通じており、外の明かりがここまで漏れてきているのだろう。
教室の窓から見た外は暗闇に包まれていたのに、ここには外の光が差している。
そんな常識が捻じ曲がった事にさえ、今のシンゴは関心を示さなかった。
何故なら既にシンゴは、ここは常識で語れるような場所ではないという事も理解していたし、そもそも今は屋上で高見の見物を決め込んでいるであろう高慢な鳥へのドス黒い感情が先に立ち、そんな些細な事への関心はシンゴの中では後回しとなっていた。
シンゴは階段の上を睨み付けるように見据える。
階段の下は明かりが差しているのに、その先は暗くて見通す事ができないといった、ゲーム等で出てくるプレイヤーの周りのみが明るくなるといった、あのシステムのような状態になっていた。
前回はどうだったかなどシンゴは忘れた。そんな事などいちいち考えている余裕なんて無かったし、今でもどうでもいい事だった。
シンゴは逸れた思考をそう決着させると、早速一段目へと足を踏み出す。
――そして“それ”は、シンゴの踏み出した足の裏がその一段目に接した瞬間に起きた。
「――――?」
ごっ、ごっ、ごっ――と鈍い音を立て、階段の上から黒ずんだバスケットボールが落ちてきた。
シンゴは咄嗟にそれを両手で掴むと、眉を寄せながら確認した。
「…………」
――目があった。いや、瞳孔は開き切っており、シンゴの方がその奥を覗き込んだと言った方が正しいだろうか。
青く、青く、生気の抜けた虚ろな表情。どこを見ているのかも分からない、視線の定まっていない眼球。青い唇は渇き、ひび割れている。
青い顔の所々には黒く固まった血液がこびり付いており、首から下は鮮やかなピンク色の粗い断面が顔を覗かせ、白い骨や青い血管が飛び出ていた。
その断面から絶え間なく滴る血液がシンゴの制服をより黒く汚し、ツンとした鉄の匂いが鼻をついた。
――キサラギ・シンゴの頭部だった。
「お……あぁぁぁあああああああああああああッッ!!??」
シンゴは自らの頭部を投げ捨てるように放り出すと、階段に足をかけたままの状態での出来事だったため、バランスを崩してその場に尻餅をつく。
上手く受け身を取れず、尻餅と同時に衝撃が下半身から上半身に駆け抜け、シンゴの意識を一瞬だけ白く染め上げる。
そして、シンゴの意識が一瞬の衝撃から立ち直ると同時に、階上から空気が抜けてバウンドしづらくなったようなボールの音が先ほどより多く、無数に反響して聞こえてきた。
シンゴははっとして階段を青い顔で見据えると、やがて視認が可能な範囲に、キサラギ・シンゴの頭部が少なくとも四つは転がってきているのが見て取れた。
それを見たシンゴの中で、何かがはじけた。
「く、くるなぁぁぁあああッッ!!!!」
シンゴは這うようにして立ち上がると、足をもつれさせながらも元来た方向へと廊下を駆け出す。
しかし走れど走れど、後ろからボールを転がすごろごろという音がシンゴを一定の距離間で追従してくる。
「いやだいやだいやだいやだいやだぁ!! くるなぁ……くるなよぉッ!?」
シンゴは背後を振り向く事なく、恐怖で引きつらせた顔を涙と鼻水で濡らしながら、全力で終わりの見えない廊下を疾駆する。
やがて不意に視界に、一つだけ不自然に開いている窓が入り込む。
シンゴはその不自然さに疑問を抱く事なく、笑顔を覗かせながら躊躇いもなく窓の縁に足をかけると――飛び降りた。
シンゴの体は空中で反転し、ゆっくりと流れる時間感覚の中で――見た。
屋上の柵の縁に片足で留まりながら体をたわめて落下するシンゴを見下ろす、紅蓮の炎で形作られた半身の鳥を。
やがて、その鳥を見上げるシンゴの頭に、どこかで聞いた事のあるような声が響いた。
『――角』
「――――は?」
次の瞬間、キサラギ・シンゴは地面に叩きつけられ、その臓物と血を大量にまき散らしながら――死んだ。
※グロ注意




