第2章:23 『警戒』
――意識が現実へと浮上する。
うっすらと瞼を開けたシンゴの視界に、どこまでも澄んだ青空が映り込む。
ゆるゆると流れていく様々な形状の雲を眺めていると、突然、脳内に痛み、苦しみ、絶望を濃密に圧縮したおぞましい記憶が蘇り、シンゴは全身の血の気が引いていくのを感じて跳ね起きる。
「――――ッ」
跳ね起きたシンゴが見たのは、どこか見知らぬ森の中。
辺りは木々や茂みに囲まれているが、シンゴのいる場所を中心に体育館ほどの広さで開けている。
シンゴは一瞬、頭の中が真っ白になっていたが、即座に我に返ると、慌てて己の腹部に視線をやる。
そこには変わらず血の通った肌が傷一つなく存在し、代わりに下に着ていた黒のインナーの腹部がズタズタに引き裂かれ、見るも無残な状態となっていた。
シンゴは安堵の吐息を吐きながら、腹部を撫でる。
そんな時、耳に獣の低い唸り声が滑り込む。シンゴは血の気が一気に引き、体の感覚がどこか遠くなっていくのを感じながら、脳の命令を頑なに拒もうとする首を気力で動かし、なんとか声のした方へと青い顔を向ける。果たしてそこには――、
「ひっ……」
シンゴは恐怖で顔を引きつらせながら、緊張と恐怖で強張った体を必死に動かし、距離を取るように後退した。そんな行動など、眼前の魔物に対して何の意味も持たない事を理解していながら。
――魔物。“オール・イン・ワン”。しかし、眼前にいるのはシンゴが見てきたどの個体よりも大きく、禍々しく、強大で、絶望的で、しかしどこか理知的で、刃向おうという気さえ起きる前にへし折られる。そんな雰囲気を纏った、通常の“オール・イン・ワン”より数倍巨大な“化け物”が、シンゴを射抜くような瞳で睨み付けていた。
シンゴは眼前のこいつが“特異種”なのだろうと察するが、それを知り得たところでシンゴにはどうする事もできない。シンゴには何も――ない。腕力もなければ、知恵もない。さらには勇気も欠落しており、挙句の果てには魔法すら使えない。あるのはただ――絶望のみ。
両者の間には距離と言う壁があるが、その不可視の壁はシンゴにのみ働く。“オール・イン・ワン”――それも、“特異種”の巨体からしたら、シンゴは既に目と鼻の先。一瞬でどうにでもできる距離なのだ。
いわば、シンゴの首には死神の鎌が添えられている状態だ。しかし、その鎌はシンゴの首を決して刈り取る事はなく、死ぬ間際まで削り取り、治るのを待ち、また削る。そんな生き地獄を、先ほど味わったばかりの苦しみを、世界はシンゴに再び強いようとしている。
気が狂いそうだった。しかし発狂すれば、死神の鎌は一切の憂慮もなく振り下ろされる。そう判断できるまでには、シンゴはこの状況で意地汚く生にしがみ付いて、理性を手放さずにいた。
シンゴが必死に繋ぎ止めた理性。その理性が、この濃密で重い空気の中の、ほんの小さな違和感を拾い上げる。
「――――?」
シンゴは違和感に眉を寄せると、残った理性と気力を総動員させ、“特異種”の視線に自分の視線をぶつけた。
「――――ッ」
目が合った瞬間、シンゴの体を明確な『死』のイメージが駆け抜けた。
震えだす体。根の合わない歯。吹き出す冷や汗。漏れ出すか細い悲鳴――。
シンゴの中の本能が眼前の『死』から逃れようと声高に主張し、内で暴れ狂う。
耐えかねたシンゴの口から、とうとう絶叫が――
「ぐぅぅうぅ…………ッ!」
シンゴは咄嗟に左手の小指を掴むと――へし折った。
尋常ではない痛みが全身を駆け抜け、辿り着いた脳で爆発する。
しかしシンゴは唇を思いっきり噛んで、痛みで漏れ出す絶叫を抑え込んだ。
――恐怖を痛みで上書きする。
咄嗟に思い至った策ではあったが、どうやら成功したようだ。しかしこれは、シンゴが精神的苦痛より肉体的苦痛に弱かった場合、むしろ逆効果だっただろう。さらには、精神的苦痛より肉体的苦痛の方が耐えられたとしても、シンゴ自身の許容量を超えてしまっては本末転倒だ。
とんだ大博打である。それなのに何故、シンゴがこのような自傷行為に踏み切ったかというと、勘に近い確信があったからだ。
というのも、シンゴはこの世界に来てから肉体的なダメージを結構な頻度で負ってきている。中には先ほどのように命を落とすほどの事もあった。だからそこに賭けた。今まで自分が歩んできた茨の道を、己の弱さを信じた。
生半可な痛みではあの恐怖を上書きできない。だから、シンゴは手加減しなかった。平素なら無理だったろうが、今は文字通り瀬戸際。なりふり構ってはいられないし、大量の脳内麻薬物質にも後押しされての行動だ。
シンゴは歯を食いしばり、痛みに耐えながら、やがてその痛みが波のように引いていくのを感じていた。――吸血鬼の再生能力だ。
あらぬ方向を向いて、折れた根元が青黒く変色していた小指が、ごきごきと音を立てて元の位置に戻り、色も肌色に回帰する。
この体質の存在も、シンゴを後押しした一因だ。
「ふ……ぅ……ふぅ……ふ……ッ」
強く噛んだ事によって唇から流れ出した血が蒸発する、じゅうじゅうという音を聞きながら、シンゴは痛みの余韻で虚脱した表情で、極力抑えた吐息を漏らす。
しかし同時に、シンゴには一つ、この状況で分かった事があった。
そもそも、シンゴはこうなるであろう事が馬鹿でも簡単に予想できた事なのに、それでも何故、“特異種”の視線を真っ向から受けたのか。それは、先ほど感じた違和感のとっかかりを辿った結果、本能的に奴の目を見れば分かるかもしれないと判断したからだ。
「へへ…………」
シンゴは憔悴しきった顔に、しかし不敵な笑みを浮かべ、懲りずに“特異種”へと再び視線を合わせる。
重圧は――それほどやってこなかった。
当然だ。シンゴは既に違和感への答えを見つたからだ。だから、恐れる必要がないという確信を持って、アクションを起こしたのだ。
その事実に、シンゴはより笑みを深くさせると、
「よく見てみれば……案外ただのおっきい犬みてえだな。三回まわって『ワン』って言ってみろよ? ――まあ、“できねえ”だろうけどな……!」
シンゴは挑発とも取れる発言を――少なくともそんな雰囲気を漂わせてみるが、“特異種”は一切、反応を示さなかった。
単純に理解できていないのかもしれないが、シンゴにはおそらく理解しているだろうと思えた。何故なら、“特異種”の目。その目は確かな知性を宿し、シンゴを警戒しながらも、どこか観察しているように見えたからだ。
そんなの分かるのか?と言われれば、そうとしか思えなかった――というのがシンゴの見解である。
やがてシンゴは、真紅の右目で“特異種”を見据えながら、肉体的にはなんら問題のない体を、それでも消耗した体力や精神を総動員して、なんとか持ち上げ――立ち上がる。
それを見た“特異種”は、低く唸りながら一歩――下がる。
その反応を見て、シンゴは「やっぱりな……」と呟く。
――シンゴが身を削って確かめた違和感の正体。それは――、
「お前……俺の事、警戒してんだろ……?」
「……………………」
当然、“特異種”は反応を示さない。しかしシンゴは確信を持って言い切る。奴は――“特異種”は、キサラギ・シンゴを警戒しているのだと。
シンゴはここで距離を詰めるなんて馬鹿な事はせず、少しずつ後退しながら、自分は襲われないないのだと己に言い聞かせる。
シンゴは笑う膝を誤魔化すように、引き攣って出づらくなった声を震わせながら、“特異種”相手に理解されないであろう言葉を必死に紡ぐ。
「……最初に感じた違和感は、何で襲ってこねえんだ? ってな疑問だった。それはいつまで経ってもお前が襲ってこねえ事で、俺ん中で一つの仮説に変わった。……だから、その仮説を確信に変えるために、わざわざ怖ぇメンチの切りあいに打って出たって訳だ」
「……………………」
“特異種”は後退していくシンゴに対し、低く唸るだけで追いかけてはこない。しかし、未だに奴の即殺圏内である事には変わらない。
シンゴは緊張感に震える膝により力を込めつつ、必死に距離を取りながら、言葉を紡ぐ事で理性を保つ。
「お前が一体、俺のなんにビビってんのかはさっぱりだけど、俺からしたらそんだけ分かれば十分なんだよ。こうしてお前が俺に警戒心を抱いているって分かれば、一回目みたいな重圧も、二回目、んでもって現在進行形で三回目も大した事――ん?」
シンゴは言葉の途中で、新たな違和感を感じ取った。
それは、自分は警戒されていて、襲われる事はないという心の余裕を持って“特異種”と視線を合わせていたからこその気付きだった。いや、そもそも――
「……俺を……見て、ない……?」
違和感の正体に、シンゴの中の確信が揺らぎを見せ、その揺れは伝播し、不安の波となってシンゴの精神を揺さぶってくる。
シンゴは咄嗟に“特異種”の視線を追って、背後を振り返ろうとした。――が、途中で思い留まる。
同じシチュエーションで、シンゴは背後を確認したばかりに、“オール・イン・ワン”に飛び掛かる隙を与えてしまった事を思い出したからだ。
あの時は、なんとか咄嗟に持っていた石をウィークポイントに叩き込めたからこそ、危機を脱する事ができた。
しかし、そんなラッキーは不幸に定評のあるシンゴにはこの先、滅多な事がなければ訪れないだろう。そうでなくとも、あんな巨体で襲い掛かられたらシンゴではどうする事もできない。
しかしここで、シンゴはそもそも自分と目線を合わせていない――自分が眼中にないのでは?と考え至り、数秒ほど“特異種”の様子を窺ってみる。
やがて反応が無いのを確認すると、シンゴは極力最後まで“特異種”から視線を外さないようにしながら、ゆっくりと“特異種”の視線を追って背後へと顔を向ける。
「あ――――」
果たしてそこにあったモノを見て、シンゴは目を驚きで見開くと同時に、己の間違いを訂正した。“特異種”はやはり、シンゴを警戒していたのだ。シンゴの、そう――
「炎の……翼……」
右肩付近から生えた紅蓮の片翼が、それを見て顔を驚愕に染める主人の顔を紅く照らした。
理解する。“特異種”はシンゴの、この不思議な片翼を警戒していたのだ。しかしそうなると、このままではまずい。何故なら――、
「あ……き、消えないでくれ……!」
最後の命を燃やしきる不死鳥のように、シンゴの右肩から生えた紅蓮の翼は揺らめき、火の粉を散らしながら徐々に小さくなっていく。前回シンゴがヒィースに首を刎ねられた時に現れ、そして消えた時の前兆と同じだ。
あの時よりは長く顕現していたようだが、それももう限界のようだ。
――――まずい、まずい、まずい、まずい、まずい……ッ!!
この翼が消えてしまったら、一体どうなるのだろう?――答えはやはり、警戒の解けた“特異種”がシンゴに襲い掛かってくるであろう――だ。
シンゴは焦りに顔を歪ませながら、右肩付近に意識を集中させると、
「消えるな、消えるな、消えるな! 頼むから、消えないでくれよ……!」
必死に翼の消失を阻止しようと試みるも、体の中に流れる不思議な力の動きを感じる事もできなければ、翼を動かす事すらも、その存在を己の体の一部として認識する事すらもできない。――当然だ。シンゴは意識を誘導されるまで、この翼の存在には気付けなかったのだから。
それは前回もそうであり、今回も例外ではない。そもそも、感覚事自体が存在していない。
やがて翼は、シンゴの必死の祈りを素知らぬ顔で無視すると、はじけるようにして――完全に消えた。
――次の瞬間。
「――――ッ!」
翼の消失と共に、“特異種”がシンゴに向かって疾風の如く駆け出した。
およそ人の目には――少なくともシンゴの目では追い切れない速度で肉薄した“特異種”は、シンゴの眼前で前足を踏ん張るようにして急停止すると、食べても肉片が砂になるシンゴに食材としての魅力を無くしたのか、その鋭い爪の生えた手を振り上げると、内に何か危険なモノを内包するシンゴを排除するため――振り下ろした。
――が、
「――――!?」
シンゴに振り下ろされるはずだった“特異種”の爪は、途中で“錆びた大剣”によって防がれた。
大剣の持ち主は吠えると、上から押さえつけられように乗せられていた“特異種”の手を振り払う。
警戒して距離を取る“特異種”に対し、大剣の持ち主は剣を支えに荒い息を吐くと、顎を伝う汗を拭いながらシンゴに振り返った。そしてニヤリと笑うと、
「よぅ、思ったより元気そうじゃねぇかよ……囚われのお姫様――?」
「カズ!」
カルド・フレイズ、完璧なタイミングでの登場だった――。
――――――――――――――――――――
「――さて……私は君と前々から話をしたいとは思っていたんだ。……君はどうだい?」
「…………ボクは、君の事なんて知らないよ……」
「おやおや、私とした事が。ふふ――。少々、興奮して先走ってしまったようだね。――悪い癖だ」
とある森の一角で、川を間に挟みながら、不信感に眉を寄せる白黒の少女と、微笑を湛えた白い少女が対峙していた――。




