第21話 好きな人がいる、の翌朝
眠れなかった。
正確に言うと、眠れなかったわけではない。布団には入ったし、目も閉じたし、たぶん途中で何度か意識は落ちている。
けれど朝起きた瞬間、俺の頭はまったく休んだ気がしなかった。
理由はひとつしかない。
『好きな人がいるので』
昨日、凛音は学校でそう言った。
告白してきた男子に向かって、はっきりと。
そして、その直後。
ほんの一瞬だけ、彼女の視線が俺へ向いた。
あれは偶然だったのか。
それとも、意味があったのか。
考えれば考えるほど、答えは出ない。
家に帰ってから、凛音は言った。
『今日は、まだ全部は言えない』
『でも、いつか、ちゃんと言う』
あれは、何を言うつもりなのか。
その「いつか」は、いつなのか。
俺は待つと言った。
実際、待つつもりではいる。
いるのだが、待つ側にも心臓はある。限界もある。
昨日の夜から、俺の心臓はずっと残業中だった。
「……顔、ひどいな」
洗面所の鏡を見て、思わず呟いた。
目の下が少し重い。
寝不足というほどではないが、いつもより明らかにぼんやりしている。
こんな顔で凛音に会うのか。
同じ家に住んでいる以上、会う。
避けられない。
いや、避けたいわけではない。
むしろ会いたい。
ただ、昨日の今日でどんな顔をすればいいのかがわからない。
俺は顔を洗い、冷たい水で無理やり意識を起こした。
リビングへ行くと、朝食の匂いがした。
味噌汁。
焼いた鮭。
そして、甘い卵焼き。
いつもの匂いなのに、今日は少しだけ違って感じる。
「おはよう」
声をかけると、キッチンにいた凛音が振り返った。
「……おはよう、高坂くん」
ほんの一拍、遅れた。
いつもなら気づかないくらいの間。
でも、俺にはわかった。
凛音も、昨日のことを意識している。
制服の上にエプロン。髪はきれいに整っている。表情はいつも通り落ち着いている。
けれど、目が合うとすぐに視線が少しだけ横へ逃げた。
「眠れた?」
俺が聞くと、凛音は卵焼きを皿へ移しながら答えた。
「普通」
「普通?」
「ええ。普通」
「そっか」
「高坂くんは?」
「俺も普通」
「……嘘ね」
「即断?」
「顔に出ている」
「そんなに?」
「少し」
少し、というわりに凛音の声は確信に満ちていた。
俺は椅子に座る。
テーブルには二人分の朝食が並べられている。
当たり前になりつつある光景。
けれど、昨日の言葉を知ってしまった今、その当たり前が妙にくすぐったい。
「寝不足?」
凛音が向かいに座りながら聞いてきた。
「少しだけ」
「どうして?」
「考え事」
「……そう」
「凛音は?」
名前を呼んだ瞬間、彼女の箸が止まった。
「朝から?」
「家だから」
「そうだけど」
「嫌なら」
「嫌ではない」
凛音は小さく言った。
それから、味噌汁のお椀を両手で持つ。
「私も、考え事はした」
「昨日の?」
「……ええ」
その返事だけで、俺の胸が鳴った。
昨日の話を、なかったことにはしない。
凛音は逃げていない。
それだけで十分なはずなのに、もっと聞きたくなる。
けれど、聞かない。
昨日、彼女はまだ全部は言えないと言った。
なら、待つ。
俺は卵焼きを一口食べた。
甘い。
いつもより少し甘い気がした。
「今日の卵焼き、甘いな」
そう言うと、凛音は一瞬だけ目を伏せた。
「砂糖を入れすぎた」
「間違い?」
「……間違い」
「間違いは誰にでもあるから」
「その言葉、便利に使いすぎ」
「でも、うまい」
凛音は黙った。
耳が少し赤い。
昨日の重さが、少しだけほどける。
「今日は学校、どうする?」
俺が聞くと、凛音は姿勢を正した。
「今まで通り」
「一秒会釈?」
「ええ」
「昨日みたいな話があったあとでも?」
言ってから、少しだけ後悔した。
凛音の表情が、ほんのわずかに固くなる。
でも彼女は逃げなかった。
「だからこそ、今まで通りにするべきだと思う」
「そっか」
「急に変わると、周りに気づかれる」
「佐野と白川さんは、もうかなり気づいてる気がするけど」
「……それは、否定できないわ」
凛音が小さく息を吐いた。
「白川さんは鋭い」
「佐野も、変なところで鋭い」
「二人が話したら危険ね」
「もう話してるかもしれない」
「……危険ね」
同じ言葉を繰り返した凛音の顔が、少しだけ深刻だった。
その深刻さが可笑しくて、俺は笑いそうになる。
「高坂くん」
「ん?」
「笑ってる?」
「笑ってない」
「口元」
「真剣」
「嘘」
いつものやり取り。
それが戻ってきたことに、俺は少し安心した。
◇
学校へは、いつも通り時間をずらして出た。
駅までの道も、校門をくぐる瞬間も、俺は何度も自分に言い聞かせた。
普通にする。
昨日のことを引きずらない。
学校では必要以上に親しくしない。ただし、必要以上に避けない。
目が合ったら一秒。
会釈。
通過。
それだけだ。
……それだけのはずだった。
一時間目が終わったあとの廊下。
俺は職員室へプリントを取りに行く途中で、凛音と鉢合わせた。
周囲には生徒がいる。
佐野はいない。
白川さんもいない。
それでも油断はできない。
凛音がこちらを見る。
目が合う。
一秒。
の、はずだった。
なのに、昨日の彼女の言葉が頭をよぎった。
『好きな人がいるので』
『いつか、ちゃんと言う』
凛音も同じことを思い出したのかもしれない。
視線が外れない。
一秒。
二秒。
たぶん、それくらい。
ほんのわずかな時間なのに、廊下のざわめきが遠くなった。
凛音の瞳が揺れる。
俺も、目を逸らすタイミングを完全に失った。
先に動いたのは、凛音だった。
彼女は小さく会釈し、何事もなかったように通り過ぎた。
俺も遅れて会釈する。
通過。
ただそれだけ。
しかし、背中に妙な視線を感じた。
振り返ると、廊下の向こうに佐野がいた。
購買のパンを片手に、こちらを見ている。
完全に見られていた。
佐野はにやっと笑い、指を二本立てた。
二秒、という意味らしい。
俺は無言で前を向いた。
最悪だ。
◇
昼休み。
「高坂」
「聞かない」
「まだ何も言ってない」
「どうせ廊下のことだろ」
「わかってるじゃん」
佐野は机の向かいに座り、楽しそうに俺を見る。
「一秒ルールでもあるの?」
俺は弁当箱を開ける手を止めた。
「……何でその単語が出る」
「いや、なんとなく。昨日まで一秒くらいの会釈だったのに、今日は二秒見つめ合ってたから」
「見つめ合ってない」
「見つめ合ってた」
「たまたま」
「高坂のたまたま、多いな」
「人間、たまたまは多い」
「便利な言葉増やすな」
佐野は笑った。
俺は弁当箱を開ける。
今日も卵焼きと卵サンド、それから昨日の照り焼きの残りを使った小さなおかずが入っていた。
凛音の弁当は、だんだん進化している。
そして俺の胃袋は、完全に掴まれている。
「またすごいな」
佐野が覗き込む。
「見るな」
「見るだろ。これは見る」
「一口もやらないぞ」
「高坂、最近ガード固いよな」
「俺のだから」
「はいはい」
佐野は焼きそばパンをかじりながら、少しだけ声を落とした。
「で、氷室さんとは順調?」
「何が」
「何か」
「何もない」
「何もない二人は、廊下で二秒止まらない」
「二秒にこだわるな」
「大事だろ。氷室さん、普段男子と一秒も目合わせないぞ」
そう言われると、返せない。
俺は卵焼きを食べた。
朝と同じ、少し甘いやつ。
やっぱりうまい。
「顔」
佐野が言った。
「何」
「今、すごい幸せそう」
「弁当がうまいから」
「誰が作ったかも大事だろ」
「……食べ物に罪はない」
「逃げ方が雑」
佐野は笑ったが、深くは追及しなかった。
最近、こいつは踏み込み方と引き際が妙にうまくなっている。
ありがたいような、怖いような。
◇
同じころ。
凛音も沙耶に捕まっていた。
「凛音」
「何」
「今朝、高坂くんと二秒くらい目合ってたね」
「一秒よ」
「数えてたの?」
凛音は箸を止めた。
失敗した。
沙耶がにこにこしている。
「数えてたんだ?」
「……偶然」
「偶然で一秒って言わないよ」
「白川さん」
「はい」
「人の視線の秒数を測るのは、あまり品の良い趣味ではないわ」
「測ってないよ。目立ってたから」
「目立っていない」
「凛音が男子と二秒見つめ合うのは、目立つよ」
「見つめ合っていない」
「じゃあ、見ていた」
「……廊下の安全確認」
「高坂くんが障害物みたいになってる」
凛音は黙った。
沙耶は弁当を食べながら、少し楽しそうに続ける。
「昨日のこと、何かあった?」
「昨日?」
「放課後。凛音、帰る前ちょっと様子違ったから」
凛音は箸で卵焼きを小さく切った。
告白されたことは、沙耶にはまだ言っていない。
言えば、きっと心配する。
そして、そのあと確実に聞かれる。
好きな人って誰、と。
まだ言えない。
でも、黙り続けるのも少し苦しい。
「……少し、話しただけ」
「誰と?」
「人と」
「広い」
「学校の人」
「さらに広い」
「白川さん」
「はいはい。今日はここまでにしとく」
沙耶はそう言って笑った。
だが、すぐに声を柔らかくする。
「でも、凛音。困ったことがあったら言ってね」
凛音は少しだけ驚いて沙耶を見る。
沙耶はいつものように明るく笑っている。
でも、その目はちゃんと心配していた。
「……ありがとう」
凛音が小さく言うと、沙耶は満足そうに頷いた。
「どういたしまして。で、今日の卵焼き、甘い?」
「普通」
「高坂くん好み?」
「……」
「沈黙は肯定」
「白川さんは、少し佐野くんに似てきたわ」
「え、やだなあ」
「褒めてはいない」
「わかってる」
沙耶は笑った。
凛音も、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
◇
午後の授業は、妙に長かった。
昨日の余韻。
朝の二秒。
佐野の指二本。
凛音と目が合った瞬間の空気。
全部が頭の中で混ざって、黒板の文字が少し遠く感じた。
そして五時間目。
英語の授業中。
俺は、のどに小さな違和感を覚えた。
最初は乾燥かと思った。
朝から少し寝不足だったし、昼に弁当を食べたあと水分をあまり取っていない。
それだけだ。
そう思って、軽く咳払いをする。
「……こほ」
小さな音だった。
自分では気にするほどでもないと思った。
だが、斜め前の佐野が振り返った。
目が合う。
佐野は眉を寄せる。
俺は片手を軽く上げて、大丈夫だと示した。
そのとき、廊下側の窓の向こうに人影が通った。
隣のクラスの移動か何かだろう。
一瞬だけ見えた横顔。
凛音だった。
彼女は歩きながら、なぜかこちらを見た。
いや、偶然かもしれない。
でも、俺が軽く咳をした直後だった。
凛音の目が、ほんの少しだけ細くなる。
心配している顔。
学校の氷室凛音としては、ほとんど表情に出ていない。
でも俺にはわかった。
そしてたぶん、白川さんにもわかった。
凛音の隣を歩いていた白川さんが、こちらをちらりと見たからだ。
俺は慌てて前を向いた。
大丈夫。
ただの咳だ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど授業が進むにつれ、少しだけ体が重くなってきた。
昨日あまり眠れなかったせいだ。
きっとそれだけ。
そう思って、俺はノートにペンを走らせた。
だが、喉の奥に残る小さな違和感は、最後まで消えなかった。




