10話 せめてふたりのときはゆっくりしよう
次の日の晩。
シャザールに進軍途中の野営地にフレイアはいた。
「では、道中気を付けるように」
自分専用のテント内には、宰相と自分しかいない。
「後ろ髪ひかれるおもいですが……」
宰相は両の眉を下げた。せっかくの美丈夫がこれでは台無しだ。
「仕方あるまい。公都をおろそかにはできんからな」
フレイアは簡易イスに座ったまま彼を見上げる。
公都には内務大臣と軍務大臣を置いてきているが、それでも大公代理が不在となると決裁ができないことが増える。『さばききれない』と悲痛な便りが届けられた。
「公都がどうなっているか気になっていたしな。随時、報告をくれ」
「姫を探すのは簡単そうです。前線にいつもいるのだから」
苦笑いし、それから宰相はやはり眉を下げる。
「あまりご無理なさらず。わたしもできる限り力を尽くしますから」
「もちろんだ。期待しているし、宰相がいなければ兵500の追加はなかったろうからな」
そしてフレイアは肩を竦める。
「ついでに変な婿まで来てしまったが」
冗談だとわかっているからだろう。宰相は声を立てて笑った。
「ですがよい王子です。メンフィスでうずめておくにはもったいない御仁だ。フレイア姫のよい伴侶となるでしょう」
「まあ……数年後だな、それは」
口をへの字に曲げると、宰相はまた笑った。
「それではこれで失礼いたします」
「うむ」
一礼して下がる宰相を座ったまま見送り、さて次の文書に目を通そうとしたときだ。
「おお、ここにいたのか、大公!」
扉幕が開く音ともに、ウェイドの陽気な声が入ってきた。
「まだ仕事をしているのか。あきれたやつだ」
机に近づき、フレイアの手元から文書をつまみ上げた。
「おい。返せ」
「夜だぞ? ここからは夫婦の時間だろう」
取り返そうと椅子から立ち上がると、ずい、と顔を近づけられた。反射的に動きを止めると、ちゅ、とリップ音をたてて唇にキスをするから油断も隙も無い。
「外に出よう、大公!」
「だから仕事!」
「朝早く起きてやれ」
言うなり、手首を握ってテントから外に出される。
ふわり、と。
幕扉を抜けると同時に夜の香りに包まれた。
公都にいたころには気づかなかった匂いだ。
湿気と植物の香りと。それからランタンや篝火などが発する匂い。
「ロクラン。あっちにいるからな」
「わかりました」
テント側に近衛と一緒にロクランが待機していたらしい。
彼からランタンを受け取ると、ウェイドはフレイアと手をつないだまま野営地を歩き続ける。
「あんまり離れると危ないのではないか?」
テント群を離れ、ゆるやかな傾斜を上りはじめるので、フレイアは振り返る。一応警備の近衛たちはこちらを見てくれているようだが。
「危ない? 俺がいるのに?」
くすぐられたようにウェイドが笑うから意外だ。
「殿下は強いのか?」
「弱く見えるのか?」
「強そうではない。口ばっかりの気がする」
「ひどいな。ちゃんと強いぞ。任せておけ」
そう言って、ずんずんと丘を登る。
テント群からの明かりから遠ざかり、とっぷりと暮れた夜の中、ウェイドの持つカンテラだけが光源だ。
「ここらでいいだろう」
ウェイドは言うと、フレイアから手を放した。ランタンを地面に置き、肩で留めているマントを外した。
「ほら、ここに座って」
マントを地面に敷き、フレイアに言う。その彼の顔も薄暗がりでぼんやりとしていた。
「座る? ここに?」
「ああ。足を伸ばして」
怪訝な面持ちのフレイアだが、それでもウェイドに言われるままに動いた。
マントの上に腰を下ろし、長座する。
「よいしょ」
すぐ真後ろにウェイドも座った。
彼は足を広げて座ると、前に座るフレイアの肩をつかんで、ぐいと自分のほうに引き寄せた。
「わ⁉」
フレイアからすれば、いきなり後ろに引き寄せられた形になった。
姿勢を崩して、真後ろにいるウェイドの胸板に後頭部をぶつける。
「ほら、すごい星空だ」
「はえ⁉」
文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが、ウェイドの腕が後ろから伸びて、上を指さした。
釣られてフレイアも顎を上げる。
「……わあ……」
そして絶句した。
空には一面の星がまたたいていたのだ。
星が降ってきそうだとは陳腐な表現だが。
まさにそのとおりに見えた。
星と自分の距離が近い。立ち上がり、背伸びしたら届きそうにさえ見える。
それに夜空の中央に横たわるのは無数の星がちりばめられた天の川だった。
大小さまざまな星が集まり、それぞれの濃さと色の光を放っている。
「壮観だな……」
ウェイドにもたれ、空を見上げていたフレイアの口から出たのは、それだった。
ほかにもなにかあるのだろうが、なにも出てこない。圧巻の風景だ。
「テント群のところからも見えるが、少しでも暗い方がはっきり見えるからな」
ウェイドは後ろに手をつき、フレイアをもたれさせて自分も夜空を見上げている。
「明日からは少し天気が悪くなるようだ。こんな夜空はしばらく見られんから誘ってみた」
「ありがとう」
フレイアは素直に礼を言った。
「これは確かに仕事を止めてでも見ておくべきだった」
「そりゃよかった」
はは、とウェイドが笑う。
彼にもたれているからだろう。彼が話すと、振動が背中から伝わってくる。
それだけではない。じわりとしたぬくもりがフレイアを包んだ。
「あの星がわかるか?」
「どれ」
「明るい星が4つ。そこにあるだろう? その下の……わずかに暗い、碧っぽい星」
「ああ、うん。あれか」
「あれはうちの国では、船乗りが目標にする星だ。神が灯台になるように、と夜空で燃やしているのだそうだ」
「神が?」
フレイアはわずかに顔を動かす。
そうするとウェイドの顔を下からのぞくような形になった。彼は笑い、うなずいている。
「そうだ。こっちの国にはそんな神話はないのか?」
「神話か……。うちはセジェルほどではないが、ダノン教の影響を受けているからな」
「ああ、一神教か」
「比較的な」
「そうか。うちはたくさん神がいるぞ」
「らしいな」
「竃の神に、戦神、貧乏神からトイレの神」
「なんと」
驚いていると、ウェイドがまた夜空を指さした。
「あのめちゃくちゃ明るい星があるだろう?」
「ああ。ふたつ並んでいるやつか?」
「そうだ。あの双子星。あれにはいわれがあってな」
フレイアはウェイドにもたれて夜空を見上げる。
彼の声は意外にも耳にやわらかい。
低く、穏やかな声が、背中を通じても伝わってくる。
声だけじゃない。呼吸や、ちょっとした身じろぎ。それからもちろん体温も。
彼の母国の神話を聴いていたフレイアは、最初こそテントに残してきた文書のことを考えていたのだが、しばらくするとすっかり忘れた。
ウェイドの話に耳を傾け、ちょっとした冗談に笑っているうちに。
徐々に身体から力が抜けていく。
それは同時に。
心のこわばりもとろかせた。
「ウェイド殿下」
「なんだ、大公」
「大公って大変だな」
周りが暗いからなのか。
気づけば自分が目を閉じているのか開けているのかわからなくなった。
「毎日疲れる」
「だろうな。せめてふたりのときはゆっくりしろ」
頭になにかがふれた。
懐かしい。
そう思うのは、その手つきのせいだろうか。
頭を撫で、髪をすべる指はとてもやさしく、フレイアの意識をゆっくりと沈みこませていく。
次第にウェイドの声さえ、遠くに感じ始めた。
そうして。
フレイアは眠ってしまった。




