第三十二話
熱が下がり、考える余裕ができた。
やはり考えれば考えるほど、バイルが俺の任せた何かを放り出して抜けるとは思えなかった。
しかも、俺に断りもなく、だ。
アイツはそんな男じゃない。
それだけは断言できる。
「……と、言っても、だ」
思わず独り言が漏れる。
バイルがただ抜けたのではなく、俺が任せた“何か”のために抜けたのだとしたら ──
なんのために、そこまでしたのか。
それは本人に聞くしかない。
そう思い、ガルドに尋ねた。
「……バイルはもう、この街にはいない」
そう言って、ガルドは目を伏せた。
「どこに行ったかわかるか?」
「まぁ……たまに手紙をくれるからな」
「手紙?」
「ああ。言っただろう? 世話の焼ける姉といると。……その後、大丈夫なのかと、たまには手紙を出すように言っておいた」
……そうだ、姉だ。
バイルは、俺が思っていた以上に、その存在を大事にしていた。
「お前はバイルの姉を見たことあるのか?」
「ある」
「どんな女だ?」
そう言った俺に、ガルドは何かを思い出すように天井を仰いだ。
そして目を閉じ、大きく一つ息を吐く。
「……目が印象的な、綺麗な女だったよ」
その瞬間、脳内で何かが弾けたような気がした。
……今も、俺が任せた“何か”を守っているはずのバイル。
その傍にいるのは、目が印象的な、綺麗な姉。
俺の夢に度々現れる女の顔は思い出せない。
だが一つだけ、はっきりと覚えているものがある。
その瞳が、まるで光を宿しているかのように眩かったこと。
そして ──
俺の隣の部屋にいた女もまた、同性すら目を見張るほど美しかった。
……ならば。
隣の部屋の女。
夢に出てくる女。
そして、バイルの姉。
全てが、同一人物だとしたら。
「……っ……」
そこまで思考が至った瞬間、鈍い頭痛が走った。
「大丈夫か?」
「ああ、いつものことだ。……それより、街にいないことはわかったが、バイルはどこにいる?」
俺の問いに、ガルドは一瞬、口を噤んだ。
「……ここから十日はかかる、田舎町に居を構えたらしい」
その言葉を聞いた瞬間、頭痛も相まって、思わずこめかみを押さえた。
せいぜい二、三日で辿り着ける距離だと思っていた。
それが、十日。
往復で二十日。
仮に会えたとしても、話し合いに時間がかかれば、数日は動けない。
下手をすれば ── 一月近く、この街を空けることになる。
そこまで考え、さすがに一度、頭を冷やす必要があると感じた。
「……わかった」
それ以上は聞かず、俺はガルドとの会話を切り上げた。
何故そこに辿り着いてしまったのか、自分でもわからない。
ただ、気がつけば ──あの日以来、足を踏み入れることがなかった隣の部屋のドアを、俺は開けていた。
相変わらず、誰も掃除していない部屋は、少し埃っぽい。
「なんで、懐かしいような気がするんだろうな……」
見慣れているはずがない。
それなのに、この場所に戻ってきたことを、どこかで受け入れている自分がいた。
「……君は誰で、俺のなんなんだ……」
アクセサリーケースに入っていたヘアピンに、そっと指先を触れる。
瞬間 ──
──似合ってる。……でも、本音を言えば……俺だけが知っていたかったけどね ──
いつかの、自分の声。
「……ははっ……」
思わず、乾いた笑いが零れた。
視界が、微かに滲んだ。
俺はこれからずっと、このよくわからない思いを抱えたまま、生きていくのか。
「それは勘弁してほしいな……」
誰に言うでもなく、そう呟く。
手の中のヘアピンが、ひんやりとした感触で存在を主張していた。
確かに、ここにあったのだと。
「ガルド。お前に頼みがある」
一人で考え、出した答えを伝える。
ガルドは、短く「わかった」とだけ言った。
「止めないのか?」
「……お前の人生だ。好きにしたらいいさ」
そう言い終えると、皆を集めると言って部屋を出て行った。
それから、しばらく後 ──
「俺は白狼団を抜ける。次の頭はガルドだ」
一度、全員の顔を見渡してから続ける。
「俺の時と変わらず、力になってほしい」
正直なところ、誰か一人くらいは止めに入るかと思っていた。
だが、誰一人として異を唱えなかった。
まるで ──いつかは、こうなるとわかっていたかのように。
「ここを抜けて、どうするの?」
皆が去った後、ラシャがやってきた。
「……そうだな。旅に出ようかと思ってる」
そう言ってラシャを見ると、ひどく苦しそうな顔をしていた。
「どうした?」
「……レオンに、謝らないといけないことがあるの」
スカートを強く握りしめながら、ラシャは言う。
「私は……今も、間違ったことを言ったとは思ってない。だって、あの人が来なかったら、レオンはあんな大怪我しなかった」
「あの人、って……」
「でも……っ」
声が詰まり、ラシャは一度息を吸った。
「あの人だって、自分のせいでレオンが怪我したって、わかってたはずなのに……あんな言い方で、ここから追い出したのは、私なの」
震える声で、続ける。
「レオンが目を覚ましても、あの人の記憶だけなかったから……ホッとして、そのまま黙ってた」
顔を伏せたまま、ラシャは言った。
「いつか、こんな日が来るかもしれないって思ってた。でもそれまでは……私の知ってるレオンのままで、いてほしかったの!……だからってあんな風に追い出して……本当に、ごめんなさい……」
言葉の最後は、声にならなかった。
ラシャの肩が、小さく震えていた。
「俺は今も、お前の知ってる俺のままだよ。今も、そしてこれからも……お前に泣かれると、なんとかしようと思ってしまう」
ラシャの涙が、ぽたりと床に落ちた。
「お前や、みんなのために……俺にできることをしようと思ってた。しなきゃいけない、ともな」
小さな妹を慰めるように、ラシャの頭にそっと手を置く。
「ただ、今はそうしていることで……俺が俺じゃなくなりそうなんだ」
もうずっと、村にいたあの頃から変わらない関係。
「これは、誰のせいでもない。……もちろん、ラシャ。お前のせいでもない」
手を離し、はっきりと言った。
「これは、俺が俺でいるために決めたことだ」
俺がラシャの性格をよく知っているように、ラシャもまた、俺の性格をよくわかっている。
一度決めたことを、俺が覆さない人間だということも。
だからだろう。
ラシャは袖で乱暴に涙を拭うと、顔を上げた。
そこにはもう、いつもの気の強そうな笑みが浮かんでいた。
「出て行く時は、見送らないわ」
「……それは、少し寂しいな」
「だから今、言ってあげる。……レオンが、レオンらしくいられる人と、会えるといいね」
そう言い残して、ラシャは去って行った。
その背中に、かつて俺の後をついて回っていた、幼い頃のラシャの姿が重なる。
「……お前も、幸せになれ」
届くことはないとわかっていながら、遠ざかる背中に小さくそう呟き、俺もまた、自分の部屋へと歩き出した。




