真実
ショッピングモールを回ったり、カフェでくつろいだりしながら午後の時間を過ごした。結衣の存在は、僕にとって特別なものでもあるが、同時に僕の日常の風景にも馴染みそうな気がした。
例えるなら、家族のような距離感。まだまだ僕は綺麗な結衣にうろたえてしまうけれど、そんな感じがちょっとだけした。
血の繋がっていない他人に家族という言葉を使うならば、それは結婚という……
なんて、夢見がちな少女のようなことが一瞬脳裏に浮かんで、それを封じ込めた。
再び電車に乗る。朝とは色合いが違う帰り道に時々見惚れながら、僕は滝沢と二人並んで座っていた。
ボックスシートの窓側に座って、どこか儚げに外を見る結衣。――明るい性格だけではない、寂しげな情緒を漂わせる彼女は美しかった。
日が少しずつ傾き始める。そして僕たちは桜坂まで帰ってきて、電車を乗り換えた。
この電車はさっきよりは幾分混雑していて、座席は一応ほとんど埋まっていた。
ロングシートの車両の中央あたりで、吊革を持ってお互いを見合う。
電車は都会と不釣り合いなような、幻想的なメロディーの後に発車した。
外の景色に暗く影を落としていた屋根が取り払われ、少し焼け始めた空が車窓から映る。
「ちょうどいい頃合いかな」
僕がふと口にする。
「何かあるの?」
身を乗り出し、結衣は目を輝かせて言った。
「ちょっと展望台に行こうかなと」
何より眩しい笑顔が、僕の眼前で輝いた。
目的地最寄りの駅にたどり着いて、徒歩十分ほど歩く。
一日ももう終わりに差し掛かった街の様相が、僕の目にありありと映った。
「うわあ……」
結衣はつま先立ちまでして、首を伸ばしながら真上の塔を見上げた。
そして、少し前の方に進んで僕の方に振り返る。
「結構高いね、びっくりしちゃった。」
夕日に映える笑顔だった。
高速のエレベーターが一番上の階まで達する。その景色は、扉が開いた直後に眼前に開けた。
黄色の柔らかな光に照らされた街が、僕の目に焼き付く。ビルやマンションは沈みゆく太陽の光をバックに照明を輝かせる。闇と光のはざま。いままで長らく通ってきたこの場所が、こんなにも美しい場所だったのだと知った。
僕が言葉を失っていると、隣の結衣が「うん、うん」と頷いている。
何に納得しているのかと尋ねてみた。
「なんていうか、これがデートだなって」
事実の確認に過ぎないような言葉が、眩しいくらいに意味を持って輝き始める。
そして今度は遠くを眺めながら、結衣がこうつぶやいた。
「この景色の眺め……この景色の中で、エイくんと一緒の時間を過ごせるってなんだか
愛おしいね」
眺めだけではない。この美しい場所で過ごす日常の日々すべてが。
胸を打つものがあった。結衣の言葉は、なんだか簡単なようで難しい。そして、その言葉の中のどこかのパーツが僕の心に引っかかって、外れなくなっていた。
そこからしばし無言の時間を過ごして、そろそろ頃合いかなと感じた。
僕の息を呑んだ。大きく息を吸って、自分に言い聞かせる。
「大丈夫、一度はやろうとしていたことなんだから」
その白い肌を、もう一度、この視界に捉え直す。
結衣の表情が変わった。楽しげだったその顔が、緩んだ口角を少しこわばらせて物憂げな表情へと変わっていった。
なぜだろう。
楽しげな表情の方が、魅力的に違いないのに。その方が、喜ばしいに違いないのに。
それなのに僕の目には、まるで孤独であるかのような結衣の顔が鮮烈に浮かび上がって、それだけではなく、なんだかとても尊く思える。
そうだ。ここにとどまる時間が長すぎたのなら、謝ろう。今日のデートが本当は面白くなかったのなら、笑わせよう。沈黙が孤独感をもたらしたのなら、手を握ろう。
でも僕にはそれができなかった。恥ずかしかったからではない。このどこか寂しげな
表情を、もう少しだけ見ていたかった。
その表情が何を原因としているかはわからないとはいえ、負の感情から来ていることには違いない。――僕は好きな相手の不幸を祈るような、ひねくれた人間なのだろうか。
否、それは違うはずだ。じゃあそれなのに、どうして……
眼前にある脆い美を前にして、僕はしばし口を噤んだ。
さながら単に告白の言葉に恥じ入る男のように。
彼女はこう言った。
「取引をしましょう」
彼女はこう揺さぶった。
「私に告白されて、嬉しいでしょう」
彼女はこう嘯いた。
「私は自分の感情をコントロールできる」
僕はこう考えた。
「自制心が強い人間なのだ」
僕はこう思った。
「異能の使い手なんだ」
僕はこう邪推した。
「好きでもない相手を、弄んでいるんだ。」
全部、ことごとく未熟な虚勢で、誤りなのだ。
「結衣」
結衣は物憂げな表情から少し目を見開いて、僕の方を見据えた。
……僕は強くなければならない。
結衣の手首を掴んだ。
いや掴むというのは控えめな表現だ。僕は握った。握りつぶしてしまうくらいに。
結衣の白いほっそりとした手首に込めた力は、思いの外強い反作用として僕の手に返ってくる。その力にもっていかれて僕の手は彼女から離れる。
結衣の顔には怯えが見て取れた。
僕はあまりに不器用だ。もっと直感的、反射的に行動すればいいものを、頭の中で考え詰めてしまうといつも予想外の方向に行ってしまう。
この場は時間の流れがゆっくりとし過ぎていた。変な思考が頭の中を巡って、結果として考えなしの粗野な男のような行動を取ってしまった。
それでも、僕はやろうとしていることは一貫していた。女性が抱く抗えない力への恐怖感というのは男性の想像を上回るのだということは分かっている。だからそのことは何遍でも謝るし、払拭する努力はする。
けれども、今はもっと大事なことがある。人間、必死になったら細かな感情の機微などわからなくなってしまうものだ。少しばかり許してほしい。
「やっぱり、弱いじゃないか」
恐怖心を抱かせないよう、僕は努めて微笑んだ。でもその顔を自分で見ることはできないから、もしかしたら頬の筋肉を強張らせていただけだったのかもしれない。
結衣は依然として怪訝な表情をしている。
「少し荒々しくてごめん――」
「でも、分かってしまったんだ」
「君は強がっている。違うかい?」
そう僕が口にした瞬間、彼女は虚をつかれたかのように目を見開いた。
綺麗事だけでお話を収められるのなら、僕もそうしていた。でも本当にわかり合うためには、必要なプロセスだと感じた。
「君は自分の感情をコントロールすることなんてできない。自制心が特段すごいわけでも、精神系の異能力を持っているわけでもない」
結衣は否定とも同調とも取れない様子で自分の両手を背の方で組む。その口は、固く閉ざされている。
「自分を制御できると思い込みたい。そう願っていたんだ。そうでなければならないと、思い込んでいた。」
「そうしないと、自分の望みは成就されないと思っていた。本当の理想に近づくためには、その理想への到達を阻む感情は、排除されないといけないと思っていた」
「でも、自分の気持ちに正直であることも、決して悪ではないと思う。理想的で
あるかどうかはわからないけれど、それも一つの美徳だと、僕は思う」
しまったと思った。なんだか結衣に説教をしているよう。なんだか自分の考えを一方的に押し付けているよう。そして、
自分の気持ちに触れるのを、意図して避けているよう。
「ごめん」
僕は身を乗り出して謝った。
「説教じみたことを言ってしまった」
結衣は目を見開いている。
あの僕が告白された日のように、春風が自分と彼女の前に吹いているような感じがした。そんな絶妙な空気感に隔てられながらも、結衣はついに口を開いた。
「うん」
同調ではなく納得の言葉だった。それも、僕に対するものではなく自分の内に向けているようだった。
「そう、そうなんだよ、それが正解だ」
結衣は顔を伏せながら、僕の手を握った。
僕はというと、力強さを見せつけて格好をつけたいと思ったのか、柔らかな手に包まれた内側で、ぎゅっと握りこぶしを作った。それと同時、結衣も自分の言葉を確固たるものに固める。
「私は、その言葉を求めていたの」
「強がっていればきっと恋愛の折衝で成功できる、そう勝手に思い込んで、既に惚れ込んでしまっていた男の子の弄ぶかのようになんとか振る舞って、あわよくばその男の子が私に合っている人だったらなって思ってた」
「だけど、私の望みは多分それだけじゃなかった。きっと、本当は分かってもらいたかったんだよ、自分自身のこと。強い者のように振る舞っているけど、本当は弱い自分自身を見破ってほしかった」
一気呵成と飛び込んでくる心からの言葉を、ゆっくり噛み砕いて飲み込む。
「だから、ありがとう。私が君に望んでいて、だけど自分自身もその願望に気づいていないものを、あなたはくれた。」
慣れない呼び方をされて、少し気が引き締まる。結衣は握っていた僕の手を放して、少し距離をとってから僕の顔を見据えた。
「ありがとう、本当にありがとう」
結衣の目は少し潤んでいた。でも、泣かなかった。今はもう、彼女は一人ではなかった。
そろそろ本当に頃合いだろう。僕にはまだ残っている。――伝えなければならないことが。




