巧者の手口
「結衣」
自分の周りの空気が必要以上に振動した。その振動は、なお力強く彼女の元までたどり着いた。
凍てつくような緊張を感じる。何度も遮られてきたこの言葉。もうそれを阻むものは何一つ無くなった。
二人はじっと目を合わせた。これから何が起こるか、二人はもう知っていた。結末なんて見え透いているのに、それでもじっと相手を伺って、緊張の色を浮かべていた。
――これは単なる確認に過ぎないのだ。
それなのに、どうしてこの胸はこんなにも高鳴るのだろう。あの、もういつのことだったかも忘れてしまったあの大切な瞬間と同じくらいに。
しばらく結衣と見つめ合っていた。なぜか気恥ずかしさというよりも、別の感情が混ざっていた。まるで二人の決断が求められているかのようだった。
だから、もう一度呼びかけが必要だと思った。
「結衣」
結衣は、はっとした表情を浮かべた。もう、後はお互いになすべきことをするだけなのだと気づいたのだ。
「僕は君が好きだ。付き合ってほしい」
夕闇は街灯に明るく照らされる。覗き込まないと見えないくらい下の方にある雑踏や、
車のライトや小さな看板は無数の色彩を放っている。
そして、その瞬間、二人も照らされたのだった。
「……泣かない」
結衣は小さな声で言った。そして、
「うん、ありがとう。その言葉だけで、私はもう充分だから」
満足いかない答えが帰ってきて、つい追求してしまう。
「私は質問の答えが聞きたいのです、女王様」
少しおどけてみせた。そう、まるで女王のような振る舞いだった。結衣は。そのくせ、自分の本当の気持ちは口にしてくれないのだ。
初めに彼女に告白された時、風が吹いていた。その風は淡い色の桜の花びらと暖かな春の空気を孕んでいた。
あまりに突然だったその風に、僕はどこか寒気も感じていた。でもそれは心の中でだけだった。
あの時の風は、本当に体で感じていた通り、暖かな風だったのだなと思う。今この展望台に風が吹いているはずはないけれど、心の中ではあの時感じた暖かな感触が蘇っていた。
「私の気持ちはずっとあのまま」
「あのまま」というのは、あの告白の瞬間からずっとということだろう。
「だから」
そして、またあの時と同じように、唐突な「だから」が飛んでくる。でも今度は、その次に続く言葉がなんとなく分かった気がした。自分の気持ちに素直をなった言葉が。
「取引は成立。つまり、答えはイエスよ」
僕はしばらく黙り込んだ。
「なによ、その不満そうな表情は」
また、初めの時のようにちょっとだけ強気な結衣の姿を目にしている。
でもそれは、綻びやすいものなのだと僕は知っている。
「もう」
結衣はため息を漏らした。
「分かった。こう言えばいいのね」
「私はあなたのことが好き。大好き。この気持ちにリミッターが効きそうもないから、私と付き合ってほしい」
言ったそばから、結衣は両手で赤くなった顔を隠して全身で恥ずかしさを表現している。
その様子を見ていると、僕の胸の中でも何かが響いている気がするのだ。
なんだろう、この高鳴りは。
……男というのは、こんなギャップにクラっと来てしまうものなのかもしれない。
その夜は、あまりにあっけなかった。特にこれといったことをしたわけでもないのに、精神的に充実し過ぎていたからかもしれない。
甘かった休日が開けて、また学校が始まった。
ここには、またいつものように代わり映えのしない日常が待っている。
変化と言えば、結衣が目に見えて明るくなったことだろうか。
いままでの滝沢は、もちろんクラスメイトからの人気はあったものの。どこか孤高の美人という感じがあった。
本人も、そこまで暗い性格というわけでもなかったが、どことなく馴れ合いを避ける感じがあったりした。
しかし最近では、教室にいても友達とガールズトークで盛り上がっている姿が散見される。
僕と滝沢は、学校の中ではなるべく自然に振る舞うことに決めていた。別に付き合っているのを隠すつもりはないけれど、それを公言するのはお互いなぜか憚ったからだ。
だから、いくら明るく振る舞っている滝沢だからといって、いきなり僕に話しかけたりする以前のようなことはしなくなったのだ。僕は心の平穏を取り戻すと同時に、ちょっと物寂しい感じもした。
でも、それでいい。滝沢もようやくいつの間にかがんじがらめにされていた変な価値観から抜け出して、自分をクラスの中でも出せるようになったのだ。それだけで僕は十分満足だった。
これから先のことに全く不安がないわけではない。例えば、どのくらいデートに行けばいいだとか、彼氏彼女持ちがよく口にする「記念日」の存在だとか、その他諸々の恋愛の作法というものが。
流石に、そろそろ「作法」などという言い回しをする自分がおかしいことに気づけるくらいにはなったが、相変わらず本来の自分の恋愛に疎い感じは抜けていないのだ。
……どうやら本当に恋をすると少しだけキザになれるようだが。
昼休み、静斗が僕の席にやってきた。
「エイ、一緒に飯食おうぜ」
「おう」
突然肩を叩かれて驚いた。まあ、静斗がこういう誘いをしてくるのはいつものことなのだが。
静斗は弁当箱を僕の机に置いた後、手近な椅子を引っ張り出して腰掛けた。
開いた弁当箱の中身は意外と小奇麗だ。といっても、親が作っているのだろうからこいつ自身が小奇麗なわけでもなんでもないのだが。
さて、いつものように今日も授業が退屈だった云々、新しいスマホゲームを見つけだとか、最近のニュースがどうだとか――勿論SNSで流れて来た取るに足らないニュースのことだが――の話を軽くいなしながら、まったりと昼食を食べていた。
しかしいつもと勝手が違ったのは、隣の席で翡翠と結衣が会食していることだ。そういえば、よく考えてみると昼休みには結衣はどこかに出払っていることが多かったのだが、今まで特に気にも止めなかった。
まあともかく、今の僕と結衣はオフィシャルな関係だ。特段話をすることもないだろうし、近くにいようが遠くにいようが問題ではない。
静斗がさっきまでとは違った様子で口を開く。
「そういえば、もうすぐ夏休みだな!」
ルーティーン色に染まった有象無象の会話が一転、魂の雄叫びに変わった。それほどまでに、彼はこの休みを熱望していたのだろう。
「まあ、休めるのは嬉しいけどな。でも実際休みといってもやることはないだろ」
デートスポットに困却するような自分の感想としては尤もなものだった。
「なんか予定でもあるのか、静斗」
「うーん」
相変わらずの考えな……
「ん?」
唐突に、静斗は椅子を力強く引いて立ち上がった。
「海だよ!海に行こう」
相変わらずの声の大きさで、クラス中に響き渡る。
かくして教室は沈黙に包まれたのであった。
すると、隣にいた翡翠が面白がって静斗に話しかける。
「ほーう、誰と一緒にいくのですかね?」
額で指先を滑らせているのはきっとメガネの真似事だろう。――僕以外にこの事実に気づく人はいるのやら。
「これから決める。翡翠、お前も行くか?」
「どうせ私の体が目当てなんでしょう?」
と手で体を隠す素振りをしながら身を半分翻した翡翠が言うと、静斗は豪快にガッハッハと笑った。
静斗と翡翠がこんなに仲が良かったとは知らなかった。だがな、翡翠。お前が公共の場でこんな危ない発言をするやつだとは……ちょっと思っていた。
ところで翡翠の連れの滝沢さんが、翡翠と静斗が楽しく談笑に耽っている間、僕に話しかけてきた。
オフィシャルにしては少し距離感が近い気もするが、まあこの際それは良い。
「滝沢さん」はこんなことを抜かしてくる。
「エイくんは彼女さんと一緒に海行くのかな?」
それも周りに聞こえる声で。
「は?」
思わず心の声が漏れた。
「いや、それは、」
「まあ、その、いないから……」
彼女の意図するところが全く分からない。
そして僕が虚偽の「彼女フリー」宣言をすると、滝沢は意味ありげな表情でこちらを見てくる。おそらく彼女の存在を断定しないことへの不満だろうが、そんなことはできるわけがないし、余計に頭がこんがらがってくるからやめてほしい。
すると、彼女はニコっと不気味な笑みを浮かべていった。
「それじゃあ、私と二人きりで海に行かない?」
……場が完全に凍った。
いくら近頃幾分か明るく振る舞っているとはいえ、仮にもクラストップ級の美人が口にしていい言葉ではない。
この小悪魔的性格にデジャヴを感じる。なぜだ。なぜ彼女はこれほどまでにリスクを犯して訳が分からないことをしようとするのだ。
「まあ、検討する」
僕の重みが高まった言葉に、クラス中がどよめく。さて、どうやって誤解を解いたら良いものだろうか……
いや、前言撤回。そんなことはできない。
なぜなら、それはもう誤解ではなく事実なのだから。
さて、彼女の内面を征服したかのごとく感じて油断しきっていたのが僕だった。
いや、正直なところ、あの意地悪な性格は演技だと思っていたのだが、どうもそうではなく、彼女の本質の一つらしい。正直、まだ分からないことだらけだ。
そういう風に、「恋は盲目」と言われるような「盲目」では知覚できない部分を感じ取るのも、また恋愛なのかもしれない。
いずれにせよ、これから先も僕は彼女にふり回されていくのだろう。どうせ僕はしがない一地味男に過ぎなくて、彼女は圧倒的に巧者なのだから。
それでも、あの夜のように、ほんの少しでも彼女の支えになれたなら、いや、もしかしたら自分の思い込みなのかもしれないが、そんな役目を果たせたらなと思う。
過程はどうあれ、この気持ちはきっと真実だから。
顔を上げると、さっきまで悪魔だった滝沢が、眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。
僕は気付いた。
結衣の、この時折見せる屈託のない笑顔がどうしようもなく好きなのだと。
どうも僕はギャップに弱い。




