恋愛相談
いつまでもこうして平穏な日々が続けばいい。幸せで愚かな人はこう思うのだ。それが、一番難しい願いであることを知りながら……
いつもの通学路を僕は歩く、空は快晴、何の変哲もない日に思えた。しかし、それは外面だけであった。
靴箱のロッカーを開け、いつものように廊下を歩く。自分の教室の前までくると、こんな話を耳にした。
「ハルが、例の人に告白したらしいぜ。」
ハルというのは僕の友人で、剽軽な性格なものだから女子に人気があるのだが、こと恋愛となると話は別らしい。ことあるごとにレベルの高い女子に告白しては、振られて帰るというのが彼の様式美になっている。
ただ僕としては、そうやって気軽に(本人は至って真剣なのかもしれないが)告白できる彼のことは羨ましく思っている。僕には絶対にできないことだ。確かに彼は結果には恵まれないのかもしれないが、機会はいくらでも作り出してしまうのだから、いつかその頑張りが功を奏する時が来るかもしれない。
だから、たとえ好きな人ができたとしても告白もできないであろう僕よりも、はるかに優れていると思うのだ。
「例の人」とやらが一体誰なのかは興味がないが、とりあえず今回も彼のことを励ましてやろうと思う。
噂をされているものだから、てっきりハルはもう教室に来ているのかと思ったが、彼はまだ来ていなかった。よくよく考えてみれば、この早い時間帯で静かな教室の中で、本人の前でそんな噂話はできない。というかこんな時間からそんな話をしているそこの男子二人組も中々おかしい。
せっかく早く学校に来たのだからもっと時間を有効に使えばいいのに、と思ったがそれが自分にも言えることだと気付いて、僕は参考書を開くことにした。
それから数十分たって、だいぶ教室の中の人も増え始めてきた。勉強をしている時間は苦痛で長く感じてしまいがちだが、今はそうは感じなかった。なんだかんだ言って学校は勉強には一番向いている場所なのだろう。
教室前方から新しく入ってきたのは、いつも明るい男子高校生ハルなのだが、やはりいつもと様子が違った。教室の戸を引く手は弱々しく、いつも笑顔はどこかに消え、誰とも挨拶を交わさず、体全体から覇気が消えていた。
おまけに教室後方で佇んでいる僕を見ると、目を逸らしてきた。もう人と関わりたくないくらいに落ち込んでいるに違いない。
何度経験しても女の子に振られるのは悲しいことなのだろう。僕には良く理解できないが。
さて、しばらく声を掛けないでそっとしてあげようとも思ったが、いつになく落ち込んでいる彼がどうしてもいたたまれなかったので、朝のホームルームが終わった後話しかけてみることにした、
「ハル、大丈夫か?」
僕が背後から話しかけると、彼は一瞬体をビクッと震わせながら振り向いた、
「ど、ど、どうしたエイ。」
「どうしたもこうしたもない。やけに落ち込んでいるようだが、大丈夫か?また誰かに振られたんだろう。」
「ま、まあそうなんだけど。」
落ち込み具合より彼の動揺している様子が気になる。拒絶のされ方がショッキングすぎて対人恐怖症にでもなってしまったのだろうか。
「相談に乗るよ。今度は誰に振られたんだ。よほど怖い女子に振られたみたいだな。」
僕が冗談混じりにそう言うと、彼は突然真剣な表情をして言った。
「エイ、真剣な話があるんだ。昼休み屋上に来てくれないか。」
「そんな律儀に頼まなくても、相談くらい聞くよ。」
彼は小声で「違う……」と呟いた。僕は聞かなかったことにした。
「先に行ってる。」
四時間目が終わってそう声を掛けてきた彼に、僕はどうせなら一緒に行けばいいのに、と思ったが、相談相手を求めつつも出来る限り一人になりたい心境なんだろう。と妙に納得して、少しゆっくりめに屋上へと歩いていった。
その日は晴天ながら風が強く、屋上に出る扉から相対した彼の姿は、まるで決闘に望む騎士のようだった。強い風がしばしの沈黙をなびかせると、僕は彼のもとにゆっくりと歩み寄った。
そのときの僕はまだ「恋愛相談ごときで大げさな。」と思っていた。しかし実際は違った。
階段のある建物の隣に腰掛けようかと思ったが、彼は立ったままこう口にした。
「今日僕が君にしたかった話というのは、僕が告白をした相手のことなんだ。」
「おう」
「心して聞いてほしい。」
さっきから仰々しい感じだな、と思いつつ、僕は彼のした決断に耳を傾けてやることにした。
「僕が告白した相手は、滝沢なんだ。」
「は?」
強烈な風が、僕らの間に吹き付けた。
僕の目の前に浮かぶのは、空白。気が付いたらこの世界から疎外されて何もかも分からなくなってしまったかのような感覚を味わった。
ハルが告白した相手は、滝沢。これが意味することは何か。その意味を捉えることも、僕には難しいことだった。
滝沢が告白されたこと。それが僕と何の関係があるというのだろう。否、本当は何もないはずなのだ。ハルが振られたということは滝沢が告白を断ったということだし、僕には何ら関係のない話なのだ。
……それなのに、僕は他人事には思えなくて。
「ハルが、滝沢に告白をしたのか?」
また同じ内容を繰り返し質問した。自分の頭でも、自分が動揺していることが分かっている。冷静な理性は、確かに自分の現状を捉えているのだが、混乱しきった僕の行動は、何にも制御できなかった。
ハルが「ああ」と肯定しかけたとところで、僕は三階につながる階段を下って屋上から出ようとした。
後ろから聞こえる声は、僕を呼び止める声だろうか。そうであることは自分の頭が認識したが、肝心の中身までは噛み砕くことができなかった。
屋上の強い風に吹かれて佇むハルの姿が浮かんだ。その腕は僕を引き留めようと引き伸ばされている。それと同時に右足は一歩前に踏み出されている。
こんなイメージが浮かぶのは、彼が悪人ではないと僕が分かっているからだろう。でも本当は、彼は僕を完全に引き止めるべきだった。僕の腕を掴んでしまうべきだった。
――そうでなければ、僕は自分の深いわだかまりの中に勝手に呑み込まれてしまうのだ。
逃げ出した僕が向かったのは校舎の裏だった。運動部の荷物置き場と、緑の鮮やかな木々に挟まれて、僕は一人思い悩んでいた。
僕は一体何がしたいのか。すべてにおいてそれが分からなくなってしまった。
自分を完全に取りなす力があればいいのにと思った。
そんな力も、何をすべきかすら分かっていない現状では意味がないかとも思った。
そもそも、どうして僕はハルに告白のことを告げられて、逃げ出そうと思ったのか。
滝沢は僕にとって何なのか。時間が経てば分かる、そう思っていたのはこの前までの話で、今の僕はすぐにでもはっきりとした答えを求めていた。
人は、すぐに分かると思っていても焦って答えを求めたがるものだ。僕もそうだった。