最終試験
車窓から見える夜の景色に、僕は心を溶かしていた。今の時刻は七時半。どうして部活にも入ってない僕がこんなにも遅い時間に帰っているのかと言えば、それは「勉強しているふり」をしていたからだ。
別に親から勉強しなさいと言われるからやっているわけでもなく、僕は何もしたくなかっただけだ。——必要に迫られなければ帰ろうとも思わないくらいに。
誰もいなくなった教室で参考書とペンを出すと、僕はその上に顔を伏せた。何かを考えられる気分では無かった。ただ無駄なもの思いだけが、僕の頭に上を通り過ぎて行った。
気付くと滝沢のことばかり考えている。「あなたのことが好きなの」というあの一言を、頭のなかでずっと反芻している。
——それなら、僕はどうなのだろうと。
ビルの立ち並ぶ車窓からの風景は、なんとなく落ち着かなかった。なんだかまだ人の慌ただしい営みが続いているような気がしたのだ。
電車から降りて、自転車で家の近くまで走り出して行くと、空には星が輝いていた。
その光は、僕をとても落ち着いた気分にさせる。少し都会の喧騒からは離れたこの場所で、僕はこの静かな鋭い光を眺めるのだ。
その日の星は綺麗だった。こんな気分だからこそ、この星をじっくりと鑑賞することができているのかもしない。
——僕がこの感動を伝えたい人は……
明くる日の僕は、軽快な気分だった。なんだかんだで、昨日は自分の心を落ち着けることができたのかもしれない。
駅から学校までの道の景色がなんだか真新しく見えて、僕は周りの自然物を改めて見渡した。
やっぱり学生は楽しい気分でいなければならないのだ。そんなことを思って、僕はわざと口角を少し上げて見た。
もしかしたらその上げ方次第では、他人から冷たい視線を向けられてしまうかもしれない。
澄み渡る心は明鏡止水の境地に達し、目に入るものまるですべて手の内にあるかのように振る舞う。
落ちる葉を見れば、瞬間的に頭に数式が浮かぶ…… なんていうのは大げさだが、僕はそのくらい澄み渡った気持ちだった。
教室に入っていつもの光景を見る。今日は家を出るのが少し遅れたせいか、教室には滝沢がいた。
——彼女の姿を見た瞬間、僕の中で時間が止まった。
そして周りの世界が動かなくなると同時に、僕も一切行動することができなくなっていた。
カウント不可能な時間が何フレーム分か流れた後、僕は現実を認識した。
途端、目の前の人が何なのか、わからなくなった。
理解ができないのは、おそらく彼女が僕の方に振り向かえらないせいじゃない。
何故だかは分からないが、ほんの数ドットだけ体を動かしている彼女が、現実のものには到底思えないのだ。
僕は自分の席について、滝沢とは反対側の廊下の方を眺めた。
ハルの一件から、僕は滝沢のことがより一層分からなくなった。いつかは分かるのだろうという希望を持ち始めた手前、僕は困惑されられるようになってしまった。
まず、僕は何をすべきなのか考える。どんなときでも冷静にと、誰かがどこかで言っていただろう。
しばらく考えてみて、論点は自分が何をすべきなのかではなく、自分はどうしたいのかということに気づく。すると僕はより一層分からなくなる。
いつものごとく翡翠が僕に挨拶してくれたが、僕は「ああ」とかいう感じでおざなりに返した。
彼女は特に返答することもなく体を翻したが、その表情を伺う余裕などもはや僕にはなく、僕は自分の世界に入り込んでいた。
両手で重くなった頭を抱えている僕の姿は周りの人間から見れば実に奇妙で、こんなことをやるのは天才か病人くらいのものだ。
そういえば恋は病だと言った人がいたような……
って違う。今考えたいのはそんなことじゃない。
そうして僕は、答えを出した。
……何もできないのだ。
そうやって僕は、また何の変哲もない一日を過ごしていく。
——彼女のことを、何も理解できないまま。
いつもと変わらない授業風景。変わっているのは、きっと僕の心情だけなのだろう。
自分には何もできないと割り切ってみても、一度かき乱された頭は集中することができない。
彼女のことが頭に浮かぶたびに、一種の恐怖心が生じて彼女のことを考えないようにした。
二時間目も、三時間目も、それは同じ。そう簡単に、日常は崩れない……はずだった。
昼休みのことだった。授業が終わって、一瞬視線を左側の方へずらすと、僕は異変を感じた。
滝沢もまた、僕の方を見ていた。
不意に目があって、どうしたらよいかも分からず僕が数センチ視線をずらすと、彼女は立ち上がり僕の方へと向かってくる。
……まるで現実感のない、出来事だった。
僕はただ何もできずに、目の前で起きていることを傍観していた。
「エイくん」
彼女の呼びかけに、僕は佇まいを正して、
「はい」
と答えた。
少し馬鹿馬鹿しい男だった。
今日の滝沢の態度は、なんだか不思議な感じだった。
滝沢は、時々気が変わる事があるものの、普段は僕を引っ張っていくような、積極的な感じを出している。
何しろ僕という人間を試しているのだ。それも当たり前だろう。
それなのに、今横に歩いている滝沢は、何かが違った。
なんだか重い空気が二人の中に流れる。彼女は僕の名前以外は何も口に出さず、僕らが今向かおうとしている場所も告げない。
僕はただ彼女の後ろに着いていく。何も考える事のない僕は、彼女の横顔を、少し後ろから眺めていた。
やはり彼女は綺麗だ。僕は改めてそんなことを認識すると、気恥ずかしくなって、彼女から目を逸らした。
校舎の西端まで来た。これ以上廊下を進むことはできない。緊張が高まる。
すると、また少し歩く距離が開いていた滝沢が、僕の方に身を翻した。
胸がドキリとする。これから何かが始まってしまう。そんな予感がした。
その時、機先を制するために僕が先に口を開こうと突然思い立って、僕は言った。
「滝沢、どこで話すんだ。」
ここは廊下だ。ここで話すようなら、教室から逃げてきた意味はない。
「それがね。」
「考えてなかった。」
「は?」
……踊らされてばかりの僕だ。
「なんであんな自信満々に行き当たりばったりができるんだ?」
「まあ、私だから。」
「そういう性格だったっけ?いやそうだった……」
「それで、エスコートしてもらえる?」
淡々とよくわからない会話を交わした。今までの悩みが嘘のように、自然な時間だった。
無難に中庭に彼女を連れ出すと、彼女は人目もはばからず、こう切り出したのだった。
「今週末、デートしない?」
「は?」
僕は周りを見渡した。幸いクラスメイトはひとりもいなかったようだ。
……一年生の顰蹙を買っただけですんだようだ。
「まあ、最終試験みたいな感じかな。」
そういえば、僕は試されていたのだった。
「まあ、構わないけど。」
……なんだかんだで、僕は彼女に耐性が付いているようだ。……時々彼女に悩まされるのだが。
その時の僕は失念していた。試験には結果が伴うということを。滝沢が、僕への結論を出すということを。




