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第三八章 「敵対海域」(1)


ノドコール国内基準表示時刻1月13日 午後17時05分 ノドコール中南部 ロギノール湾南方海上 ローリダ共和国海軍潜水艦「アルゲロス」


 丸く狭い視界のなかで灰色の波がうねり、眼前に迫る。その先にはニホン艦の影と、彼女の豊満な肢体に着艦しようとする戦闘機の機影が見えた。潜望鏡を覗く眼はそのまま着艦の成功と、平坦な飛行甲板上で停止(とま)る機影を見届けた。


「潜航、深度40」

「潜航深度40。復唱(ヴェロー)

 ローリダ共和国海軍潜水艦「アルゲロス」艦長 海軍中佐グルバス-ス-バ-カナスの命令を、部下たる乗員が復唱しつつ実施する。取水弁が開かれ、艦首から注水が始まる。鋼材剥き出しの床が僅かに前へ傾き、その度合いは徐々に増していく。


 注水タンクの上に潜舵と推進器も駆使した全力潜航。ただしそれは潜航というより逃走だとカナス中佐には思えた。潜航する共和国海軍潜水艦にとり、現状のロギノール湾は平和な海だが、それも海上を占有するニホン海軍の気紛れでどう転ぶかはわからない……そして彼らに抗うことのできる海軍は、今やこの世界のどの海にも存在していない。


 40レーテ――命令した深度で、艦の姿勢が安定し始めるのをカナスは体感した。速度は別名ない限り、3ノークを維持し続けることを徹底させていた。3ノーク――それが蓄電池の消費を抑えつつ、最低限の機動性を維持する上で最良の速度であることを、この艦長は長い軍人経験から体得していた。「アルゲロス」のみならず、ギベロ級潜水艦の構造と性能を、カナスは自身の肉体同然に熟知している積りであった。


「見ましたか、艦長?」

 潜航の途上で畳まれゆく副潜望鏡から手を離しつつ、「アルゲロス」副長 海軍少佐エヴィア-リ-ロスが言った。川釣りで巨大なシュルティタール鱒を釣り上げた少年の様にその頬が紅潮している。年齢に似合わず興奮しているのだと判った……とは言っても、共和国海軍の高級士官章を付けるには、この青年には経験が生む貫禄が欠けていた。


「ニホンの航空母艦だ! それも戦闘機収容の一部始終でした。できれば写真に撮ってやりたかった!」

「それでエヴィン、やつは何型だった?」

「『アカギ』型……ではないかと」不意を衝いた質問に、副長の顔が鼻白む。

「違う。『ヒュウガ』型だな。艦番号までは読めなかったが……」

「はっ……!」

 恐縮しつつ、ロス副長は艦長の見立てを認めた。我らが艦長は、自分より十倍も多くの回数と時間、ニホン艦を潜望鏡で監視し続けている。異論を差し挟む気にはなれなかった。



「――艦長、敵艦遠ざかる。針路104。速力25!……更に増速、遠ざかる」

「南に出るか……北の戦闘には加入しない様だ」

 水測士の報告に、カナス艦長の皺だらけの顔が更に歪んだ。不審を抱いた男の顔であった。直感と言い換えられるかもしれぬ。


「交替でしょうか?」

「やつの周囲に護衛艦は居なかった……あり得るか」

 副長の問いに応じつつも、老練な頭脳は正解を手繰り寄せるべく駆使(まわ)っていた。現状、ニホン海軍の戦闘艦はロギノール方面に指向されている。ただ一隻、中型艦があれ(・・)の周囲に展開していたが戦闘艦では無い。真白い海上警察の巡視船だ。こいつに潜水艦を捜索して攻撃する能力はない。

 

 あれは正規の軍事力に拠らない、水上からの突発的な襲撃を警戒しているのだ――爆薬を満載したボートがニホン海軍……否、この世界で最も強力なイージス戦闘艦を大破に追い込んだという事件は、恐らくは自軍の主力水上艦が沈められたのと同じ衝撃を以て、「アルゲロス」の士官たちには既に共有されていた。


 海図台に向き直りつつ、カナス艦長は命じた。

「針路014、送信浮標を展開」

「送信ですか? 艦長?」驚いたように、副長が応じた。「敵対水域」における我々の監視対象は、依然展開中のニホン艦であると、本国海軍本部からの電文には標されていた筈だ。彼のみならず、発令所内で士官たちが互いに顔を見合わせる気配もした。


「展開完了したら報せ」士官たちの困惑を無視し、命令を続ける。

「了解! 艦長」

 艦橋(セイル)とワイヤーで繋がれ、電波送信用アンテナと一体化した送信浮標は、潜航を続けつつ電波の送受信を可能にするが、信号にいくら工夫してもニホン海軍には簡単に発見されるだろう。自分たちを発見した彼らが撃たないことに、カナスは賭けた――何故かと言うに、現状、ニホンは戦争をしているが、戦争の相手は陸に在ってノドコール共和国を僭称する同胞だ。共和国ローリダ(われわれ)ではない。

 そして共和国海軍に所属する本艦(われわれ)は情報収集活動をしている。敵対行為ではない。ノドコールに限らず、こうした「第三国同士」の戦争行為の「覗き見」は、自軍の行為一切に責任を負う限りにおいて、ここ「新世界」では黙認されている行動であった。それに、明確な敵対姿勢を見せていないのに、わざわざ攻撃して敵を増やす馬鹿がこの世界の何処にいるのだろうか? 三年前の戦役と同様、絶望的な戦闘を続けている同胞を助けてあげたいのは山々だが――


「――艦長、浮標展開終わり。文面はどうしますか?」

 通信士官が聞いた。「ロギノール湾口にて『ヒュウガ』級航空巡洋艦一隻と接触、南西に向かうものならん」――その様な内容を口頭で伝えた。後は通信士官が正規の文体に書き換えて、艦の位置と遭遇時刻も添えて本国への打電を速やかに終えるのを見届ければよい。それが終われば、「アルゲロス」は浮標を収納し再び深海の(もり)に消える……「アルゲロス」は無線封止――所定の作戦時間を終了し、再びこの位置に戻るまで、暫く外部との通信は一切出来なくなる。




 時間にして半日近くを潜航に費やし、「アルゲロス」はロギノールの港に更に近付いた。

 その間に、水中課電装置による低深度航走と蓄電池への充電は続けた。戦闘海域であるのに平時の様な間隔で充電作業を命じる艦長に、「敵に存在が暴露する」と困惑する部下も勿論いた。彼らの懸念を補強する様に、北上の間、「アルゲロス」の発令所内には喧しくも禍々しいブザー音が引切り無しに満ちる。近年艦橋(セイル)部分に増設した新型の逆探知装置が稼働している証拠であった。

 遊弋するニホン艦――あるいはニホンの哨戒機――の発する索敵電波を感知しているのだ。逆探で敵の具体的な位置は掴めないが、敵に見られていることさえわかれば、やり様は幾らでもある。

 ただし――ニホン海軍(やつら)が本気の時は、逆探に感知させることも無く「アルゲロス」を撃沈(しず)めにかかるだろう――カナスはそれを知っている。恐らくその時、逆探の感知できない――ローリダ海軍の知らない――波長を使い、やつらはこちらを探知し追尾する。



 それでも、「撃たれない」という確証がカナスにはあった。

 油断ではない。今日に至るまでまる三年近くを、ニホン海軍を対象にした「偵察任務」に費やした経験の導く処であった。

 国防軍士官学校ではなく、民営の水夫養成所から一兵卒として海軍入隊を果たしたクルバス-ス-バ-カナス少年が、それから三十五年の年月を費やして、植民地配備の旧型潜水艇艇長職を経、海軍潜水艦学校教官という「上がり」に到達したその年、共和国海軍は「壊滅」した。それも長期の戦役による消耗を経ない、僅か一度の戦役の結果としての、瞬間的なまでの壊滅であった。

 カナスの属する共和国海軍潜水艦戦隊もまた例外ではあり得なかった。なにしろ当時「新鋭艦」として就役していたギベロ級9隻のうち、6隻があのスロリアの海の藻屑に消えたのだから――「誤報ではないのか?」と、海軍本部の将官連中(おえらがた)と同様、カナスもまた慄然とするよりも唖然として凶報に接し、それが事実であることを受け容れるのに少なからぬ時を要したものであった。そこに、また新たな凶報が――そこから、退役間際の老大尉に過ぎなかったカナスの人生は一変した。戦役の結果、組織上でも、そして個人的にも、カナスは海軍を退役(やめ)るわけにはいかなくなった。


 一気に人材が払底した共和国潜水艦隊の、今や数少なくなった熟練幹部としてカナスは海軍少佐に昇進し、そこから半年も経ぬうちに中佐に昇進した。大尉で退役(しりぞ)き、あとは故郷に買った家で妻とゆっくり第二の人生を模索する積りであったカナス本人からすれば、望外の昇進であった。

 実のところ、数的に今や貴重になった主力航洋型潜水艦たるギベロ級艦長として、老練で有能な士官に艦の指揮を執らせるための、それは作為的な昇進人事の賜物であった。もっとも、少佐時代の役職が、修理を名目に船渠入りしたギベロ級三番艦「アルゲロス」の艤装員長であったから、彼の艦長就任はこの時点で確定されていたのも同然であった。ただ、アダロネスの提督どもが、老人に新鋭艦を与えて何をさせる積りなのかは、当の老人にはこの段階では未だわからなかった。





 更に二時間後、「アルゲロス」は再び完全な潜航に入った。深度にして200――設計上の限界深度に迫る深々度潜航を、この老練な艦長は命じた。


「――次回の露頂課電時刻2240とする。本官はしばらく休む。あとは副長、貴公に任せる」

「はい艦長」

 応じつつも先刻、蓄電池の持続時間を報告したロス副長からは顔色が消えかかっている。長期の航海、この海域に来るまでに蓄積された疲労のせいではない、とすぐに判った。自分が「アルゲロス」艦長職について三年、ロス副長は丁度三代目の副長である。それ以前の海軍士官としての経歴も、経験豊富……と言い切れるものでは無かった。経験の乏しい若い士官を教育し、壊滅に瀕した共和国潜水艦隊の再建を図るために、目まぐるしく部下の顔ぶれが変わる境遇をいまのカナスは強いられている。


「次回露頂課電時刻2240」

「うむ」

 復唱に頷き、士官室に踵を返し掛けて踏み止まる。苦笑と嘆息――それらが赴くままに海図台に目を流す。「アルゲロス」を示す赤い駒を追跡する様に配された青い駒――自艦を追跡するニホン海軍潜水艦の気配を、水測士が感知して未だ一時間も過ぎていない。ひょっとすればそれ以前から――外洋に在った頃から――「アルゲロス」はニホンの潜水艦に追尾されていたのかもしれなかった。


「エヴィン、こいつが攻撃機動を取ったらどうする?」青い駒を指差し、副長の名を呼んだ。

「艦長のご指示通り、限界深度まで潜り、やつが離れるまで沈黙を維持します」

「違う」生徒の回答を採点する教師の様な口調が、若い少佐を怯ませた。

「すべての推進器、電動機を速やかに停止し、限界深度まで速やかに潜るのだ。一つでも、一秒でも手順を間違えたら――」

「はい艦長!」

「……」皺の増えた目尻に力を籠めつつ、カナスは頷いて見せた。「――この艦は終焉(おわり)だ」とまでは敢えて言わなかった。

「ご指示通りに致します。次回露頂課電時刻2240」

「頼むぞ」

 また頷き、敬礼に答礼して別れる。露頂予定時刻は今よりきっかり五時間後だが、この分では二時間眠ってすぐ発令所に戻るしかあるまい――この艦で唯一の「個室」――艦長室の冷えた寝台に潜り込んだカナスの視界の端、内壁に飾られた写真一枚に、思わず手が延びた。


「……」

 家族の写真であった――夫にして父親のカナスと妻エリン。その間に立ってレンズを見る少尉候補生姿の青年の顔は、微笑では隠せぬ程緊張していて、それでも双眸に将来への希望を微かに滲ませている。夫婦の末の息子、海軍少尉候補生アルバス-ス-ガ-カナスはこの写真を撮った翌月海軍少尉に任官し、最初の配属先たるノドコールの植民地駐留艦隊へ配属の旅程に付いたのであった。カナス少尉の人生は、それから更に三か月後、侵攻してきたニホン海軍との交戦、乗艦の撃沈という形で終わりを告げた。二十三歳の、短い人生であった。


「アルよ……」

 白黒の息子の顔を撫でつつ、艦長は思わず呟いた。父と同じ海軍を択んだ、唯一の息子であった。こんな所で死ぬべき生命ではなかった。この子にはもっと希望があって、恵まれた人生が用意され然るべきであったのに――その思いから、老いた士官は海軍に残って「アルゲロス」の指揮を執り、この新世界の海洋(うみ)を「仇敵」ニホン海軍を追い駆け回ってきた筈であった。


 事実その後、この世界に展開するニホン海軍艦艇を追跡し、監視し、連中の残す全ての痕跡を手に入れることが、カナスと「アルゲロス」の任務となり、使命となった。


 生き甲斐になったと言ってもいい。


 「スロリア戦役」後、勝利に驕ったニホンの艦隊が外海で演習を行うと知れるや、「アルゲロス」はいち早く海域に展開し、その動静を監視し本国に通報する。それが終われば休む間もなく親善訪問に向かうニホン艦を、その航続力が及ぶ限り追跡し、あわよくば針路上に待ち伏せてやはり後を追う――自艦の所在がニホン人に暴露しているか否かなど、カナスにはもはやどうでもよいことであった。

 アダロネスの海軍本部からしても、情報収集のための、体のいい使い捨ての駒として「アルゲロス」を酷使している嫌いがあった。とにかく、敗戦の意趣返しとしても、息子の仇討ちとしても、ニホン人を不快がらせればよいのだ――その様な感情は、任務に就いて一年が過ぎた頃に、直面した現実を前にすぐに希薄化した。



 最前線の海洋ーー潜望鏡の視界の中、あるいは海中に在って耳を(そばだ)てて探る頭上で、ニホン艦の繰り広げる艦隊運動は素晴らしい。敵対心を差し引いても、我が共和国海軍に、ここまでの技量はないと判る。判ってしまうのだ。


 そして監視活動の最後には、大抵の場合「アルゲロス」の存在は彼らに察知され、逆に追尾される身となることもカナスは知った。

 思い知らされたと言い換えてもいい。

 そのような日々の中で、幾度か監視活動に従事するうち、頭上のニホン艦に、それぞれ「癖」があることにカナスは気付いた。

 別にニホン海軍だけというわけではない。共和国海軍もそうで、他のどの海軍にも共通する、艦の指揮を執る者の「個性」と言い換えてもよい。個性から艦名を嗅ぎ分け、行動頻度と脅威度を分類するのもまた、「アルゲロス」の仕事となった。


 楽な仕事ではなかった。時には幾度か接触したそれらの艦が、時折経験として感知した「癖」に沿わない動きをすることがある。聴覚のみに艦の命運を委ねなければならない潜水艦乗りにとり、それは警戒すべき兆候であった。

 ニホン海軍の場合、彼ら護衛艦が海底の「アルゲロス」の気配を察知し、逆に追尾、あるいは監視に回ったことを示す明らかな兆候であった。その後は単艦、あるいは複数艦で付かず離れず「アルゲロス」の監視を続け、そして追跡()ってくる。探知の速さもさることながら、その動作に転じるタイミングも此方の意表を突く素早さだ。


 或いはこちらが気付くよりずっと前から潜水艦の所在を探っていて、然るべき瞬間(タイミング)まで泳がせているのかもしれない。その後は、本気になったニホン艦が追尾を止めるか、聴音されにくい低速で安全域まで離れるまで、地獄の様な緊張と静寂に「アルゲロス」は耐えることになる……


 そこに、時には彼らの搭載する対潜回転翼機が、毒鉢の様に「アルゲロス」のすぐ上方をこれ見よがしに旋回する……「エスエイチ」には特に悩まされたものだ。あれには一度ならず、蓄電池を使い果たす寸前にまで追い込まれたこともある。一度は訓練用の短魚雷を放り込まれて、それが判らない此方は本気で死を覚悟したこともある――スロリアの海に散った「兄弟」も、あれにやられたのだろうか?


 そしてニホン海軍には艦艇だけではなく、強力な対潜攻撃機がある。

 我が共和国国防軍にも同種の哨戒機はあるが、特に探知装置の性能が我が方の比ではない。一度ならずノイテラーネ近海を浮上航行しているとき、爆音を轟かせる四発機に頭上を飛ばれたことがある。「アルゲロス」の対空レーダーはそいつを捉えきれなかった。恐らくは電波妨害機能も持っているのだろうし、あるいはそれまで潜行していた「アルゲロス」を既に探知し、浮上を見届けるまでずっとつけ回していたのかもしれない。


 その頃にはニホンの有する軍事力の詳細も、共和国国防軍も与り知るところとなり始めていて、最前線でニホン軍と対峙する部隊には警戒が叫ばれ始めている時分であった。彼我の装備の圧倒的な性能差に、共和国海軍将兵の士気に暗雲が立ち込め始めた時期でもある。僅かな武装を持つ警備船しか有さない、この世界でも貧弱な「海軍もどき」――そう彼らを嘲り、酒の肴にしていた時代とは隔世の感だ。共和国海軍(われわれ)の敵は――


「――強過ぎる」

 吐く息が白い。

 冬の海の只中、艦内の空気は冷たいが、濁っていた。生家の物置小屋よりも薄暗く狭い部屋、切れかかった蛍光灯の下で、埃が舞うのを呆然と見つめる。空調は稼働している。稼働しているが故に、「アルゲロス」の艦内(なか)では人が乗艦できる「寒さ」が辛うじて維持されている。


 そのような中で、滑油と汗の臭いが染みた寝台に身を横たえたまま、眠ろうとしては考える。内壁に張付けたロギノール湾周辺の地図に、目が向かう――先日に「気象観測機」より受信した彼我の戦力配置によれば、あの広い湾内に先行した友軍の潜水艦(ギベロ)は3隻。「スロリア戦役」でその大半が磨り潰された結果、今や貴重な戦力となった航洋型潜水艦のほぼ全力だ。海軍本部は無理をしている、と思う。


 否……厳密には一隻は「ギベロ」ではない。

 スロリア戦役の少し前から設計と建造が始まっていた「改ギベロ」級――宝石の名を冠せられた新鋭潜水艦が一隻、所謂(いわゆる)「デアメンド」級はそれまで等閑(なおざり)になっていた対潜水艦戦闘能力の引き上げを図ったとはいっても、既知のニホン海軍潜水艦にはその性能で明らかに見劣りする。数々の監視任務の積み重ねの結果、遭遇したニホン潜水艦の性能推測値は幾度も本国に上げているから、提督連中も彼我の格差は理解(わか)っている筈だ……



 地図の傍ら、やはり張付けられたニホン海軍潜水艦の艦影とその推定要目を殴り書いた紙片にも目が向かう。「オヤシオ」……「ソウリュウ」――こちらの潜水艦(フネ)より洗練された艦影。ニホン艦隊を追跡()う過程で、こいつらとも幾度となく会敵した……いや、会敵と言い切るにはその顛末は余りにも一方的だ。突発的な遭遇、待伏せ、追尾――カナスが記憶(おぼ)えている限り、それらの結果は決して芳しくはない。


 彼らの潜水艦(フネ)は静謐で、運良く背後を取ってもすぐに引き離され、あるいは気配を消される。ともすれば、いつの間にかこちらが背後に占位されて追跡される側に回る。旋回性能もいいのだ。潜水艦にあのような運動(うごき)ができるのかと、驚いたことも一度や二度ではない。探知能力もこちらよりずっと高いのだろう。こちらの推進音もとっくの昔に収拾(とら)れているかもしれない。


「……」

 思い付いたように、カナスは艦内電話を取り上げた。『――発令所。艦長どうぞ』艦を取り仕切るロス副長が送受話器を取り上げる。


「言い忘れていたがどうだ? ニホン艦の推進音(おと)採取(とれ)ているか?」

 少しの沈黙の後、応答が聞こえた。

『――カフィロによれば、まずまずの様です。これ以上艦速を上げるとまずいですが……』

 水測士の上級兵曹の名を出し、副長は応じた。反射的に目配せした速度計の針は、3を指している。つまりこれ以上艦速を上げれば、「アルゲロス」自体が発する水中雑音で、敵艦の推進器音は拾えなくなる……

 このように、加速したのもわからないほどの、恐ろしく静謐な潜水艦と、此方は三年近く世界中の海で対峙している。だが、今もなお、本国に現場の危機感は広く伝わっているとは言い難い。戦前の海軍本部の言を借りれば、「ニホンに潜水艦のような『高度な機械』など存在しない」はずだったのだが……


「切り上げるタイミングは任せる。予定時刻までの監視海域進出を優先する」

『――了解』応答に、安堵の気配が混じるのが聞こえた。

「おやすみ」

『――お休みなさい。艦長』

 送受話器を収めるのと同時に、カナスの目は金庫に向いた。ロギノール湾に入る前、補給のため最後に寄港した植民地アバロイドで、乗艦してきた海軍本部付参謀から手交された命令書が、あの小さく堅い鉄の(ハコ)に納まっている。監視開始位置に着いた時、艦の幹部立ち合いの上で開封が命ぜられている命令書だ。

 出港は優にひと月前、短い休暇を経て本土アダロネスの母港を発ったとき、海軍本部から下りた命令は戦闘海域ロギノール湾での「情報収集」であった。「ニホン海軍専従艦」艦長として、先行した同型艦に範を示して欲しいとまで、カナスよりひと回り歳が若い海軍本部の将官は言った。憮然とした表情に「お前がやってみろ」という無責任に対する怒りを押し殺し、カナスは敬礼と共に応えたものだ。「最善を尽くします提督閣下」――寄港先での命令書交付は実のところ予想外であった。無線に乗せられない秘密命令? アダロネスで受けた命令に、その後何か重大な変更が生じたとでもいうのだろうか……?


「まさかな……」

 金庫を見る目の瞼が、じんわりと重くなるのを艦長は自覚した。疲れた身体で思考を巡らせ続けるには、仰臥という姿勢は実のところ不都合に過ぎた。それ以前にここに来るまでにも、不審な短信音への対処に神経を摺り減らしている……若い副長も、実のところ頼りになるのかどうか未だ判断をつけ難い。どうすればいいのか――


 悩みの中で睡魔に墜ち、意識が飛ぶ間際、老艦長は考えた――いま「アルゲロス」を追尾しているニホンの艦長も、自分の様に悩む何かがあるのだろうか?



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― 新着の感想 ―
アルゲロスと言えば反撃の章の「サンヴァンロナ号事件」の犯人じゃないですか、久し振りな名前な上に生きてたんですねこの船。 流石に艦長はカシオダス中佐からグルバス中佐に変更されてますが、事件当事者が出てく…
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