幸福の証明
幸せだった。
幸せなのだ。
ここが至福。これ以上先はない。
そう、心得てはいたけれど。
たぶん、間違いがあったとしたら、間違いなく、彼女に対して喋りすぎた事だ。
柄にもなく、当てられていたのかもしれない。
人外の力に、触れたことによって。
「お嬢様はもう、自由になさっていいんですよ」
一気に制限がなくなり、彼女はしばらく夢中で電脳世界を駆け回っていたらしいが、やがて戻ってきて不安そうに忠信に尋ねてきた。
青年が優しく答えれば、おずおずと幼い主はねだる。
「自由……私、お友達がほしいの」
道理だ。むしろ想定の範囲内である。
青年は納得して頷き、タブレットを起動した。
あらかじめ目星をつけていた人物のリストを指でなぞり、まあこの辺りからだろう、という人間をピックアップして彼女の前に差し出す。
もちろん、仲良くなるための仲介だって怠らない。
彼女は脳を直接電子世界につないでいたが、それは非常に無防備な行為でもある。
だから忠信は、自分をフィルターにすることにした。
彼女の望む情報だけを選別し、危険なものを排除する。
脳の紡ぐ世界でも、現実の世界でも、全く同じ、何も変わらないこと。
早速彼女が出かけていったのを見送った彼は、端末にポップアップされた通知に舌打ちする。
(面倒な。もう死んだ)
生物学的に彼女の父親だった男が。
たかが脳みそを取り出されたぐらいでなんだ、惰弱にも程がある。
だが、まあ、いい。最低限やってもらうべきことはやってもらった。
別宅は不幸にも火事で焼失しており、男の遺産は遺言で適当な親族と彼の部下に割り振られる。
そのうちの一人が、忠信とやりとりをした相手であり、今や彼の体のいい隠れ蓑だ。
(ま……いささか安直すぎたかもしれない。誰かが興味を持って調査をすれば、すぐここまでたどり着いてしまうかもしれないな)
もちろん直接忠信に資金が流れていると悟られぬよう色々工夫してはいるのだが。
さて、次はどうするか……ひとまず男に軽くメッセージを送ってから、仮眠を取るために部屋を移り、照明を落とす。
「なぜ? きみは奇妙なことをしている」
ソファに仰向けになって目を閉じた青年に、不意にどこからか男の歌いかける声が聞こえてきた。
「不法侵入」
「なぜ? 自分が友達だと、答えなかったのかな」
面倒だから出て行け、の意を込めて短く単語を述べてみたが、厄介者がいなくなる気配はない。
リビングの上を無意味に歩き回るフードの男の気配を感じながら、忠信は目を閉じたまま投げやりに答える。
「違うから」
「なるほど、それがきみの宗教なのだ。だからきみは、きみ自身が脳になることも許さない?」
当たり前だろう、何を今更。
彼女と自分はどこまでも違うのだ。だから自分は彼女の犬なのだ。
愚問過ぎて答える気にもならず、今度は黙殺した。
くすくすくす、と不快な笑い声が夜を揺らす。
「よろしい、よろしい。けれど忠犬。その合理性は、いつかきみの心を焼き滅ぼすよ」
はっと目を開けて、素早く身体を起こす。
少し前に青年を理の外に誘った男の姿はもうどこにもなかった。生温い空気だけが残されている。
忠信は髪をかき上げ、エアコンのスイッチに手を伸ばした。
「ねえ、セラ。私ね、お友達ができたの」
「素晴らしい、お嬢様」
忠信は下僕だ。主と同等ではない。
孤独だった主の世界が広がるのはいいことだ。
だから最初の言葉には冷静だった。
「それで……あのね。その人、とっても困っているみたい。毎日、毎日、ああこんな不自由な暮らしは嫌だ、生まれ変わって自由に生きたい、って言うの。私……私達、お手伝い、できないかしら?」
――これもまた、予想できていた言葉の一つ。
それなのになぜか、言葉が一瞬出てこなかった。
「もちろんですとも、お嬢様。夢はたくさんの人に見せた方がいいですものね。わかりました、この部屋に彼女を連れてきます」
馬鹿な。忠信はいつも通りの仮面を被り直しながら、内心己を叱咤する。
一体何に今狼狽えた?
この事態も想定できたから、先に何人か脳を取り出して試したのではないか。
彼女にべらべらと自分の成果を得意げに語って、後でそれを忠信は酷く恥じた。
けれど、専門的なことは理解できなかっただろうし、あるとすればそう――たとえば同じものを、望むようなことになるだろうと。
ぼんやり考えたからこそ、速やかに手配をした。
本番の時に、失敗をしないように。
あるいは本番のための、懸念点を洗い出そうと思って。
身体は動く。
外科手術にも殺人にも隠蔽にも交渉にももう慣れていた。
けれどけして油断はすまい。
できてきた頃が気が抜けて一番ミスを起こしやすい。
計画通りに、女の通う酒場に入り込み、隣の席を確保し、隙を見て酒に睡眠薬を落とした。
もちろん着色料も抜いてある。量も調整済みだ。
ぐらぐら頭を揺らし出した女は、やがてカウンターに突っ伏し、困った店主がタクシーを呼ぶ。
ノンアルコールで適当に時間を潰してから道端で待機していた忠信は、鼻歌を歌いながらタクシーを追いかける。
女は自宅ではなくコンビニに一度降りると知っている。かなり酒癖が悪いのだ、必ず週末の飲みの帰りに翌朝用の日本酒をコンビニに求めに行く。
泥酔して道端をふらつき、あるいは睡魔に負けて寝っ転がり、やってきた車に引かれた。
不運だが、皆無ではない――そういうシナリオだ。
コンビニから女のアパートまでには距離がある。
防犯カメラの類いがないこと、周囲の人間の目がないこともリサーチ済み。
はねて、脳を抜いて、代わりの脳を詰めて、走り去る。
何の問題もなかった。
やっぱり練習しておいてよかった、と額の汗を拭って達成感を覚えた。
「何よコレ、私の身体を返してよぉ!」
これも予想済みだ。
酒の愚痴なんて甘ったれの無能の逃げ道、癇癪を起こして自爆するのが妥当な所だろうとは思っていた。
駄目押しに、真面目で気の利かない仕事人を装って追撃する。
「無理ですよ。だって火葬されましたから」
――本当は。
脳を取り出す技術が存在するなら、詰める技術も存在する。
現に検死等を滞りなく抜けられるよう、遺体には代替物を入れた。
それ以上に、例えばめぼしい肉体を見つけてきて、取り出して、入れ替える――そんなことだって、できるのだ。
忠信がけしてその道を選ばないだけで。
「生まれ変わりたかったんでしょう? よかったじゃないですか、願いが叶って」
そうだ、お前が願ったから叶えてやったのだ。
主が望んだから、自分は実行したのだ。
同じになれて、一体何に不満がある?
ぐ、と片腕で反対の肘の辺りを握りしめる。
円筒の中に泡が立ちこめ、ピタッと止まって、それっきり。
「ああ、コレは駄目ですね」
「死んでしまったの?」
「はい。仕方ないですね。処分してきます」
元々無理に延命させているようなところなのだ、実のところ発狂した程度では死なない。
リセットして、適当に調整をかけてやれば復活する。
たとえば人格と記憶を、必要な分だけ操作して。
できる。でもやらない。最初から決めていたのだ。
会わせた後に、処分すると。最初から決めていたのだ。絶対に。
「私、余計なことをしたのかしら?」
「お嬢様が? とんでもない! 肉の苦しみから解かれる、これほど素晴らしいことはありません、この人はただ、資格がなかったのですよ。あなたの隣に立つ、資格が」
そう、主はただの人間から一段上の状態まで登った。
それが崇高でないはずがない。
――下僕自身から、主の意に異を唱えてはならない。
何しろ彼女は在るだけで正しい。
だが、下僕は心から主を慕っている。
自分の目に適う相手でなければ、彼女と同じと認めない。
「大丈夫です。友達を、また作りましょう?」
優しく甘やかに言えば、主は素直に納得する。
ああ、この、絶対の信頼感、不審を抱くいっぺんの余地もない。
どろどろと、気持ちの悪い胃の腑が、さらりとした。
「そうね。次を探しましょう」
その言葉を、聞く度に。
――ああ、けれど。だけれど。これでよかったはずなのに。
時折胸の内を撫でる、このざらりと生温かい嫌悪は何なのだろう?
死んだ直後に摘出された少女の脳は、多少知識を蓄えはしたものの、成熟しない。
いつまでも幼いまま、飽きもせず同じ事を繰り返す。
この円環に何の疑問も持たず、「次」を彼女の手足に求め続ける。
それは忠信が望み、理想として敷いた道なのだ。
ところが時々どうしようもなく吐き出したくなる。
たとえば彼女が連れてきてと望んだ相手が、何の不自由もなく育った男子高校生だった時とか。
リサーチで得た写真の、なんと間抜けで平凡で――それなのに、屈託なく笑うことか。
知っている。日本の警察は優秀だ。殺人は追いかけられる。足跡を残してはいけない。
殺し方にもバリエーションがあるし、時には遺体をあえて発見させず行方不明にする。
そう、計算しつくしているのに、定期的に車を使いたくなる。
わざわざ主を装っておびき出すような真似をしてまで、あの人にぶつかる瞬間を、今まさに壊す感触を、この手に取り戻したくなる。
そうして凶暴な衝動のままに新しい脳みそを増やして、遊ばせて、あまり健康や順応が過ぎるようなら頃合いを見計らって電子ウイルスを注入して、壊れるまでをきっちり見届けて――。
「また新しい子を、探さなくちゃ」
その、言葉を。
目の前の玩具に対する無関心を、得る。
そうしたら少しは溜飲が下がるから。
「次の友達はどなたですか?」
また、いつものように微笑んで、尋ねることができる。
「あのね、セラ。少し疲れちゃった。昔みたいに、撫でてくれる?」
今回は大成功だった。
踊りたくなるような衝動を堪え、セラは円筒をなぞる。
ガラス越し、直接触れることは二度とない。
あるとしたら、それは忠信の決別と背信を意味する。
――なぜ? 自分が友達だと――。
――だからきみは、きみ自身が脳になることも許さない?
刺された棘から広がる毒のように、時折胸の内に男の声がこだまする。
仕えると決めた、ただ一人の主。
自分は下僕だ。隣に並べない。
遊び相手は必要だ。だが永遠にはいらない。
ユキにとっての永遠は、このセラ一人、ただそれだけでいいではないか。
「セラ、ずっと一緒にいてくれる?」
「ええ、お嬢様。俺はどこにも行けませんから」
――でも、だけど。
忠信がいくら全力を尽くしても、所詮は人間、いずれ老いるし、犠牲の数が増せばやがて誰かはこの邪悪な円環の緒にたどり着くだろう。
セラは人外達の誘いを断り、自らは卑小なままで居続けることを望んだ。
彼は彼女の下にあるべきものだから。
ただ、銀色の蓋を撫でる、この刹那。
次と次の間、ただセラだけがこの部屋にある瞬間が、どうしようもなく。
――これがきっと、幸せだ。
そう、とても幸せなのだ。
セラはそう、喉の奥で言の葉を紡ぐ。
お友達ごっこを繰り返す度に近づいてくる、破滅の鐘の幻聴を遠くに聞きながら。