第五章①
世界は目まぐるしい変化の速度に。
ソフィアはすでに追いつけなかった。
マリエがクラウドになり、ミケの手を焼き、現れた水の魔女がミケの手を焼いていた火を消した。そしてミケは支配人のカサブランカに抱えられ、病院へ向かった。クラウドは水の魔女に蹴られ、階段の上からソフィアの前に落ちてきて意識を失っていたが、目を覚ますとサブリナ・シインズという人格になっていた。サブリナが何かを言うと、水の魔女たちはゴールド・シンフォニィから出て行った。そして入れ違いに現れたアリスは炎が水によって消されたゴールド・シンフォニィの状況を見ても顔色一つ変えずにサブリナに向かって言う。「アリス、只今、参りました」
「え、呼んでないよ」サブリナは言う。
「え、でも、空に光が見えましたよ」
「流れ星かな?」サブリナは天井のミラーボールを見た。「ああ、アリス、仕事がある、ミッキィとドナルドを病院に運んでくれない?」
「はい、分かりました、」アリスはフロアの入口付近で仰向けになっているドナルドを確認して、バルコニィで気を失っているミッキィの元に向かった。「この娘は?」
ミッキィの傍には伊香保シデンがいた。
彼女の髪の毛の色と顔色は悪かった。
「……シデン、」ソフィアは声を出した。自分の声がとても巨大に聞こえた。「平気?」
シデンはソフィアに向かって黙って頷いた。ソフィアと同じ気持ちなのだと思う。目まぐるしい世界の変化についていけなくて、困ってしまっているのだ。
アリスはミッキィとドナルドの襟を掴んで、体を引きずって乱暴に運んでフロアから出て行く。
しんと、フロアは静まる。
しばらくしてアリスの悲鳴に近い声が響いた。「私の馬車がぁ!」
どうやら馬車が盗まれてしまったようだ。
水の魔女たちによってだろうか?
分からないけれど。
アリスは二人を引きずって歩き、病院まで運んだのだろうか?
分からないけれど。
何も分からない。
ここで、何が起こったのか。
分析できない。
とても。
困る。
そんなソフィアの表情をサブリナは覗き込んだ。
サブリナは笑ってソフィアの手を取り、立たせ、優しい力で引っ張った。「こっち」
サブリナはステージの袖にソフィアを案内する。「ああ、君も、」とバルコニィの上のシデンも招いた。シデンは何かを窺うような表情をして、ゆっくりと通路を迂回し、ステージ前の階段を降り、サブリナとソフィアの近くまで来た。近くまで来ると早い動作でソフィアの腕にしがみついた。
「甘えん坊なんだね」
サブリナの感想にシデンはさらに、ソフィアの腕をぎゅっとした。
シデンはサブリナを見つめるようにじっと、睨んでいた。
サブリナはシデンの頭を撫でる。
シデンは目を瞑って。
目を開けたら。
サブリナを受け入れた表情をして。
ソフィアにしがみつくのを止めて、その代わりにソフィアと手を繋いだ。
ソフィアの方がまだ、サブリナのことをきっと警戒している。
ステージ袖から裏に回った。サブリナの光によって暗闇は照らされる。楽器や譜面台が乱雑に並べられた奥に鉄製の扉が見える。そこを開けるとすぐに地下への階段がある。階段を降りると真っ直ぐに伸びる狭い通路。その両脇には扉が等間隔に並んでいる。突き当りにも扉が見える。そこからも左右に通路があるようだ。
サブリナが歩く速度で、ソフィアとシデンは付いていく。
急に左側の扉が開いた。
白衣を纏った男が顔を覗かせる。鼻先になぜか、巨大なカーゼ。「おお、サブリナ、久しぶりじゃないですか」
「アンディ、」サブリナは明るい調子で言う。「その顔は?」
「いや、先日、サクラメントで、やられてしまいまして、」アンディは苦笑する。「でも、しっかり、罠に嵌めてやりましたよ」
「ああ、」サブリナは頷く。「やっぱりアンディだったのね」
「やっぱり、とは?」
「ううん、」サブリナは首を横に振る。「些末なことよ」
「上が少し騒がしかったようですが」
「些末なことよ、アンディが気にする必要のないことよ」
「そうですか、」アンディは顎髭を触りながら頷く。「そちらの魔女さんたちは?」
「それも気にする必要のないことよ」
「ああ、そうですか、」アンディは愉快そうに笑い、手を軽く上げて言う。「それでは、ええ、おやすみなさい」
「おやすみ」
アンディは部屋の中に戻った。サブリナは再び歩き出す。突き当りを右に行く。通路が左に向かってカーブしていた。最初に右側に見えた扉を、サブリナは開けてソフィアとシデンを招いた。「ここが私の部屋」
真新しい部屋の匂い。入り口から左手にベッドがあり、奥に机、右手の壁一面は書棚になっている。書棚には一冊の本もない。書棚に囲まれるように扉がある。サブリナはそのノブに手をかけながら言った。「コーヒーを淹れるわ、少し待っていて」
サブリナが扉の奥に消えると、シデンは力が抜けたようにベッドにごろんと横になった。
ソフィアは机の前の椅子を引いて座った。「大丈夫?」
シデンは顎だけ引いてソフィアに意思を伝えた。そして目を瞑り、そのまま眠ってしまったようだ。シデンはまだ小さい。いろんなことがあったから、大変だったと思う。ソフィアは彼女の靴を脱がせ、布団を掛けてやった。
しばらくしてサブリナが戻ってくる。コーヒーの香りがする。「あら、眠ってしまったの?」
ソフィアはコーヒーを受け取った。
「多重人格と言ったらいいのかな、」サブリナはシデンが眠るベッドの端に座り、小さな声で説明を始めた。「私は多重人格者で、私以外の人格は世界に漂っていた魂、そうね、魂と言うのが的確だと思うわ、非常に強い色、そしてエネルギアを持っていた魂を、私は自分の心臓に縫いつけて、ああ、そういう特殊な技巧があるのだけれど、光で作った針と私の金色の髪の毛で私は縫いつけてあるの、マリエ、クラウド、他にも沢山の魂が私の心臓にくっついていて、私の色を変えたりするわ」
サブリナは金色の髪を後ろで纏め、遮光性の高い黒い布をターバンのように頭に巻いている。「ああ、眩しいでしょう?」
「うん、……本当に、」ソフィアは視線を落とし、サブリナの入れてくれたコーヒーに口をつける。「眩しくて、とても、見ていられない」
「これだけはどうしようもないのよね、」サブリナはシデンの可愛い寝顔を見ている。サブリナの表情はとても大人びていて、マリエと同じ顔なのに全く違って見える。「色を出し続けることはエネルギアの乱費だから、魔法を編む時にだけ煌めくのが理想だから、一時的に色を消しさる薬やインクを作ったけど、普通の魔女には効果があるみたいだけれど、私の場合は駄目みたい、理由は分かっているんだけれどね」
サブリナはソフィアに微笑みかける。
ソフィアも笑おうとした。
でも、笑えなかった。
緊張しているみたいだ。
喉が渇いている。
コーヒーを飲んだ。
どうやら。
ソフィアはサブリナのことが怖いみたいだ。
「私のことが怖い?」サブリナが聞く。
「……別に、」ソフィアは唇を舐めた。「そんなこと、ないけど」
「ピアニストの彼女のことは謝るわ、」サブリナは明るい調子で言う。「この体の主人格は私だけれど、私は彼らをコントロールすることは出来ないの、マリエは比較的、私の言うことを聞いてくれるけど、あの時にとても暴力的なクラウドが出てしまったのは、なんて言えばいいんだろう、その、運が悪かったとしか」
ソフィアはそう言われ、とても、心が震えた。手に力が入る。カップの中のコーヒーが揺れている。「運が悪かったって、」怒りが声になって出る。「運が悪かったじゃ、済まないよ」
「怒っているの?」サブリナは微笑んでいる。
ソフィアはサブリナから視線を逸らした。「……別に」
「怒らないでよ、」サブリナは立ち上がり、ソフィアの前に来て跪き、上目で顔を覗き込んでくる。「ソフィア、お願い、怒らないで、仲良くしようよ、ね?」
「ミケの手は!」ソフィアは感情を抑えられなかった。「ミケの手は誰の手よりも大事な手なんだよ!」
「そうね」サブリナはじっとソフィアの目を見つめてくる。
「そうねって、」ソフィアは怒りが収まらない。「そうねじゃ済まないわ!」
「分析をした方が、いい?」
「分析!?」
「原因はあなたよ、ソフィア」
「え?」
「マリエからクラウドへ人格が入れ替わったのはあなたの歌のせいだということ、」サブリナはソフィアの手を握り、歯切れよく言う。「私の心臓に縫い付けられた魂は、脳ミソの記憶を司る海馬の上、ちょうど、この当たりね、」サブリナはソフィアの頭のある部分を指差して言う。「この当たりに魔法を司るセクションがある、とても小さいけれど確かにあるの、そこが機能して、スムーズに回転して、魔女は魔法を編む、そのセクションを魂が支配することによって私の人格が入れ替わるの」
「それが私の歌と一体何の関係があるわけ!?」
「マリエはあなたに教えなかった?」
「だから何を!?」
「さっきも言ったでしょ、髪が色素を放出することはエネルギアの乱費、つまりセクションが回転を止めていればエネルギアは蓄積される、そのはず、だからマリエは研究していたわ、薬やインク以外に何かないかって、マリエは音に注目していたわ、マリエのダイアリィにそう書いてあった、魔女を見つけた、全く新しい風の魔法、セクションの回転をコントロールする魔法、スピーカを編める可能性を保有する魔女、それがあなただって」
ソフィアは息を飲む。
「つまり、あなたがマリエのセクションを止めた、あなたが意識して編んだのか、意識せずともスピーカが編まれたのかは私には分からないけれど、マリエのセクションは止まったの、停止してしまったからセクションはクラウドの支配下になった、そしてピアニストの右手は焼かれてしまった、簡単な分析だけれど、どう、分かってくれた?」
「……嘘、」ソフィアは震えていた。「そんなことって」
もし。
サブリナの分析が本当だったら。
私は。
私が歌わなければ。
ミケは。
ミケの手は。
「……ああ、神様」ソフィアは顔を両手でおおった。
涙が手の平を濡らす。
「大丈夫よ、」サブリナはソフィアを小さい体で抱きしめた。「大丈夫だから」
「何が!?」ソフィアはサブリナを睨みつけた。
ソフィアの感情はヒステリックに染まる。
ソフィアの髪が無色に光。
狭い部屋に、風が吹き荒れる。「何が大丈夫だって言うのよ!?」
「大丈夫よ」
サブリナは優しく言う。
信じられないほど優しい。
ソフィアの風に。
サブリナの髪の色を隠していた黒い布が吹き飛ぶ。
乱れる金色の髪。
その輝きの眩しさはまるで。
神様みたい。
「私に任せれば大丈夫」サブリナは再びソフィアをぎゅっと抱き締める。
まるでペテンに掛けられたみたいだった。
惑わされているのかもしれない。
しかしなぜか。
不思議と。
ソフィアのヒステリックは消える。
騒いでいた風も消える。
どうしてだろう?
絶対に許せないことなのに。
絶対に許せないはずなのに。
絶対に許して言い訳がないのに。
大丈夫なわけないのに。
サブリナがそう言うから。
私は……。




