第五章②
伊達マイコの初めてのボストンの朝はチャイナ・タウンの宿で迎えた。朝といっても懐中時計は正午を示している。南側の窓から入ってくる日差しの量は多い。室温は高く、マイコは汗を掻いていた。ベッドの中で上半身を起こし、黒いままの髪を指で梳く。
「そのインクを落とすことは私には出来ないの」
昨晩、ゴールド・シンフォニィでマイコがインクのことについて聞くと、サブリナは微笑みながらそう答えた。「マーブル財団を困らせる優秀な魔女を懲らしめるために作った罠だから、インクについては凄く拘ったんだよ、まだ研究段階だけれど、まだ研究段階だからね、まだ分からないことが多いの、どれだけの期間、インクが魔女の力を封じ込めて要られるかは分からないし、もしかしたら明日には落ちてしまっているかもしれないし、一生髪の色からインクが落ちないかもしれない、髪を切れば元に戻るかもしれない、また全ての髪の毛が生え変われば髪の色が戻るかもしれないなんて思うかもしれないけれど、でも、インクの力はどちらかと言うと直接脳ミソに働きかけるように設計したから、髪の毛を切ることは止めた方がいいわ、せっかくの長い髪だから、色は悪いかもしれないけれど、切らないほうがいいと思うのよね、とにかくね、そのインクは簡単には落ちないよ、ところであなたはこんな風に私と会話をしていていいのかな? あなたはマーブル財団の採掘場を襲った魔女、だったら、その、少し、おかしいと思うな、別に私はマーブル財団の掲げる思想や哲学に染まりもしていないし、矜持なんてものも持っていないんだけれど、一応、雇われている身なので、まずいと思うんだ、あなたと話しているのは、非常にまずいことだと思うんだけど」
サブリナは微笑みながら、ゴールド・ブロンドの髪の毛を煌めかせていた。
マイコたちを殺そうなんて考えはなかったのだと思うのだけれど、その殺気は異常だった。サブリナにもっと聞きたいことがあったし、ソフィアがなぜここにいるのかも知りたかった。それからミケのことも気がかりだった。右手のこともあるし、甲原ルッカのこともある。彼女はクァンドのマスタの話だと、ミケとともにボストンにやってきたのだ。ミケならルッカの居場所を知っているはずだ。
しかし、とにかく今はこの場を去る方がよさそうだとマイコは判断した。
その時。
背後で、この場にそぐわない声がした。「アリス、只今、参りました」
振り返ると、馭者の格好をした少女が立っている。
どこかで見た顔だと思ったら、クァンドからサクラメント・ステーションまで馬車で運んでくれた少女だった。なぜ彼女がボストンにいるのだろう?
「あれ?」アリスの方もマイコたちに気づいたらしい。マイコの顔をじっと見て、首を傾げた。「もしかして?」
「マイコ様!」
神尾ケンタロウが怒鳴り、マイコの腕を引っ張った。ゴールド・シンフォニィの出口に向かう。ミストラル・リンプも後に続く。サブリナは思った通り追っても来なかったし、声を出しもしなかった。マイコの髪の色が戻らないことが分かっているからだろう。それがとても悔しかった。三人は店から出て、ボストンの街を歩いた。サブリナは追ってこないがしかし、マーブル財団にはマイコとケンタロウがこの街にいることがバレてしまっている。財団はもしかしたら追手を寄越すかもしれない。だからマイコたちは東洋人の多いチャイナ・タウンに隠れることにした。ハーバード大に通っていたリンプはボストンの街に詳しかった。
「う、うーん、」ベッドの中のリンプが目を覚まして、細い目でマイコの顔を見つめた。「……おはようございます、マイコ様」
「おはよう、」マイコはリンプの額を触った。「昨日は疲れたね」
「はい、疲れました、」リンプは顔の下半分を隠していた布団をどけた。「マイコ様だって、お疲れでしょう? 蒼葉を纏って、……あの、蒼葉のことは、後でゆっくりとお話するつもりだったんです」
「水の魔法を編めるなんて思わなかったわ、」マイコは笑顔を作った。「本当に生まれ変わった気分になれた、蒼葉、気に入ったよ」
「本来の使用用途ではありませんが、」リンプは苦笑する。「言いましたが、蒼葉は紅華を実現するための冷却装置なんです」
「いざという時に使えるわ、髪の毛の色は、どうやら元に戻らないみたいだから」
「マイコ様、大丈夫です、」リンプはマイコの指に指を絡めた。「今はまだ、分かりませんが、でも、いつか、絶対に、」
リンプの声を遮るように、部屋の扉がノックされた。返事をすると、ケンタロウが扉の隙間から顔を覗かせた。ケンタロウの髪の色は白かった。「おはようございます、」ケンタロウは畳んだ蒼葉を差し出す。「エネルギアを補充しておきました」
部屋に入ってきたケンタロウに向かってリンプが枕を投げた。「変態!」
枕はケンタロウの顔に当たって堕ちる。「……何をする?」
「バカ野郎!」マイコもリンプも裸だった。リンプは慌ててマイコの体を布団で隠した。遅れて自分の体も隠してがなる。「早く出て行け! バカ野郎!」
ケンタロウは部屋の鏡台の前の椅子に蒼葉をそっと置き、疲れた表情を見せ、部屋から出て行く。扉を閉めかけたところでケンタロウは言う。「あ、食事が出来ているそうなので、お早めに下の階に」
マイコとリンプは着替え、下の階に降りた。この宿は一階が料理屋になっている。ちょうどお昼時、店内は混雑していた。入り口に近い小さめの円卓にケンタロウの姿が見える。料理はすでに用意されていた。
あまり馴染みのない食事だったが、抵抗なく食べられた。少なくともシンデラの食事よりは健康的だ。
「さて、」食事が済んだ所でケンタロウが切り出した。「これから、どうしますか?」
「甲原ルッカを見つけ出して、日本に帰りましょう、」マイコは迷いなく答えた。「少し、そうね、少し疲れてしまったから、一度日本に帰って、紅華のことはまた考えましょう、もう一度、ええ、次はきちんと準備をしてまたシンデラに来ましょう、いい?」
ケンタロウは頷いた。「……リンプはどうします?」
「一緒に日本に行きます、」リンプは即答した。そして不安そうな表情でマイコを見る。「いいですよね、マイコ様?」
「よく考えた?」
「はい、」リンプは大きく頷く。「よく考えました」
「考え過ぎちゃ駄目よ」
「えっと、」リンプは一度迷う目をしてから、頷いた。「はい、考え過ぎません」
「ケンタロウ、いいよね?」
ケンタロウは大きく息を吐いた。「マイコ様に任せます」
「よし、」マイコはお茶を飲み、言う。「それじゃあ、とにかく、ミケのところに行ってみましょう、彼女ならきっとルッカの居場所を知っているはずよ」
「ハーバードの大学病院ですね」
「そこにいるの?」
「いや、そこにまず出向くのが順当かと、あの店から一番近いこともありますし」
「そうね、その通りだ」
「大学病院に友達がいます、」リンプが言った。「きっと、ミケがいるかどうか、教えてくれると思います」
三人は席を立ち、支払いを済ませ、店から出た。
そして驚いた。
店の前にアリスがいたのだ。
マイコたちの方を見て、ニコッと微笑み、顔を手の横に持ち上げた。「お待ちしておりました、さぁ、お乗り下さい」
マイコには彼女の突然の登場にも驚いたけれど、彼女が乗っているものにも驚いていた。
彼女が乗っているのは馬車じゃない。
彼女は見たことのない三つの車輪がある機械に乗っている。言うなれば馬なし馬車。前方に車輪が一つ。その上に瓶を逆さにしたような巨大なタンクがあり、細く短い煙突が上に伸びている。運転席の前の鉄製の籠に石炭が積まれている。動力は蒸気機関のようだ。アリスは二つのレバーを握っている。それを手綱のように操り、前方の車輪をコントロールするようだ。システムは理解出来た。しかし、その蒸気機関車や蒸気船に比べて小さな蒸気機関が機能し、前に進めるほどの力を生み出せるのか、マイコは疑問だった。「それは何?」
「ミゼットです、」アリスはタンクを撫でる。「ファーファルタウの業社に頼んでいたのが今朝届いたんです、馬車が誰かに盗まれてしまって落ち込んでいたんですけれど、でも、今朝コレが届いて、なんていうか、ピクニックに行きたい気分です、このニューマシンでどこまでも」
「ちゃんと走るの?」マイコはミゼットのタンクを見ながらアリスに聞く。
「走ったから、私はここにいるんですよ」
「私達に何の用?」
「私はただ、」アリスはそこで、下を向いた。「その、あなたの、その、服のことが聞きたくて」
「え?」
「サブリナ様にあなたたちを連れて来いと命じられたわけではありません、私はマンブルズ家の使用人のアリスですが、今は、その夢の国のアリスです」
「夢の国?」
「ええ、魔女になれることを夢みるアリスです、サブリナ様も、マンブルズ家の方々も夢の国のアリスとは関係ありません、だから、少しだけ、その蒼い服について、お話をきかせて頂けませんか?」
マイコはアリスを見つめた。
彼女から逃げることは簡単だろう。
破裂する魔女のリンプがその瞳を煌めかせ、小さくて、過度の破裂に耐えれそうにない蒸気機関を破裂させてしまえば、それで彼女からは逃げられる。
魔法を編まなくたって、逃げられそうだ。
ただ。
彼女が見せる表情に少しだけ、マイコは興味を持ってしまった。
どうしてそんな必死な目で。
私を見つめるのだろうと。
「それじゃあ、大学病院まで乗せて行ってくれる?」マイコはアリスに笑顔を向ける。
「マイコ様?」ケンタロウが言う。「罠かもしれません」
「そうです、」リンプはケンタロウに同意する。「罠が仕掛けられているかもしれません、それこそ、サブリナのインクのような」
「大丈夫よ、」マイコは二人に笑いかけた。「ね、アリス?」
「はい、」アリスは微笑み、頷いた。「ありがとうございます、マイコ様」
「あ、ねぇ、どうして私たちの居場所が分かったの?」
「糸を辿って、」アリスは途中まで言って、口元を押さえた。「いえ、なんでもありません」
「糸?」
「ごめんなさい、秘密なんです、」アリスは人差し指をクロスさせて困ったように笑う。「えへへへ」




