第四章④
銀の月。
その周りに散らばる、星屑。
それらの光を際立たせる、確かに黒く色がついた、雲一つ浮遊していない晴天の夜空。
ボストンに背の高いビルディングの屋上から、マイコとリンプは寄り添って眺めていた。眺めながらケンタロウが打ち上げる花火が現れるのを待っていた。マイコの右手はリンプの左手と絡み合って繋がっている。リンプのデザインした蒼い着物は肩と胸元が露出しているから、マイコは少し寒かったけれど、彼女の体温がハッキリと感じられるから構わないと思った。
「とっても、私、今、幸せです、」リンプは目を瞑り、マイコに体重を預けてくる。「好きな人と、こんな綺麗な星空の下で、一緒にいられるなんて」
「初めて?」
「え?」
「こういう体験は初めて?」
「えっと、あの、」リンプはマイコを一度上目で見て、そして視線を正面に向けた。「はい、初めてです、私、恥ずかしがり屋で、その、今まで、女の子と付き合ったことなくて、その、はい、マイコ様が、私の初めてです、キスしてくれたのも、マイコ様が初めてです」
「恥ずかしがり屋?」マイコはからかうように言った。「本当? そうは見えないけどな、とても積極的で、大胆、自分の目的のためなら何をしようと厭わない、強い娘、背は小さいのにな」
「背は関係ないですよ、それにマイコ様だって小型じゃないですか、小さくて可愛い人が私を小さいってからかわないでくださいよ、」リンプは頬を膨らませて、甘えるような口調になる。「本当に、マイコ様に告白したときだって、とっても恥ずかしくて、死にそうだったんですから、マイコ様は、今まで何度も、女の子たちとこんな風にロマンチックに、星の輝く夜を過ごされていたのでしょうけれど、私にはそういう経験がなかったんです」
「そうね、」マイコはリンプに笑いかける。「伊達にあなたよりも十二年、長く生きていないもの」
「でも、マイコ様の今は、」リンプはぎゅっとマイコの腕を抱きしめて言った。「私だけのものですからね、誰にも渡しません、許しません、どこかに行ってしまうのも許しません」
リンプの台詞に、マイコはドキリとした。そして急に思い出す。十二年前のことを。季節は初夏。今、と同じようにマイコは鶴島の天守で、あの人と寄り添い星空を眺めていた。「マイコ様」と二歳年下の彼女もマイコのことをそう呼んでいた。「私は自由になりたいのです」
「そうね、私もあなたが自由になれればいいと思う」
「一緒にどこか、違う大陸まで、天球の果てまで、飛んでは頂けませんか?」
「駄目よ、今のあなたは、だって、酔っているんだもの、酔っ払って箒に跨るなんて、とっても危険だわ」
「酔ってなんていません、ああ、私はマイコ様のものになりたいのです」
「それは不自由になりたいっていうことかしら?」
「マイコ様のものになれるのならば、不自由で構いません」
「あなたは私ではない人のものになるのよ」
「分かっています!」彼女は涙を落とし、声を荒げた。「分かっていますけれど、分かっていますけれど、しかしマイコ様を愛おしく思う気持ちは、何度淡くなろうと、何度も蘇って、私を苦しめるのです! マイコ様以外の誰かのものになるなんて、そんな、そんな未来は、絶対に嫌なのです! 私はずっと、こんな風にしていたい」
「わがままを言わないの、」マイコは彼女を抱きしめた。「わがままは自分を惨めにするわ」
「ごめんなさい、」彼女は震える声で謝る。「……ごめんなさい、でも、でも、今だけは」
「そうね、あなたの今は私だけのものよ」
そのとき。
ひゅうっと世界に高い音がして。
桃色の花火が夜空に破裂した。
神尾式の花火だ。
小さいが。
技巧の施された、綺麗に丸く破裂する花火。
「マイコ様」リンプが立ち上がる。
「ええ、」マイコは頷いた。「向かいましょう」
打ち上げられた場所はここから遠くない距離だ。マイコは箒に跨って浮かぶリンプの後ろに乗り、一緒にその場所まで滑空する。
ケンタロウは裏路地から、広い車道に出て、空にいるマイコたちを見上げた。リンプはそこに向けて箒の先を向ける。地上五メートルの地点でマイコは飛び降り、着物の裾を押さえて着地した。僅かに前にバランスを崩したが、ケンタロウが受け止めてくれた。リンプはふんわりと地面に着地して、バランスを崩したふりをしてマイコの背中を抱きしめた。
「何してんの?」ケンタロウはリンプを睨む。
「べぇ!」リンプはケンタロウに赤目を見せ、舌を出す。「格好付けたって無駄だよ」
ケンタロウはリンプを無視して目の前の建物の方に視線を移した。「マイコ様、この店です、この店の中にサブリナ一向が入って行きました、」ケンタロウは左手を広げる。「さて、どうなさいます?」
「臨機応変に、行きましょう、」マイコは人差し指を立てて言った。「厳戒態勢まで持ち込まない、危険を感じたら諦める、甲原ルッカの捜索を最優先事項にして、髪の毛のことは忘れる、ええ、忘れます」
「……分かりました」ケンタロウはマイコをじっと見て視線を逸らした。
「リンプ、返事は?」
「はい、分かりました、でも、ええ、なんとかしますよ、私、少し、頑張ります、」リンプは頷き、店の看板を見上げて読んだ。「ゴールド・シンフォニィ?」
「パブかな?」マイコは迷うことなくその店の扉を押して中に入る。
マイコにケンタロウとリンプも続く。入って右手に細い通路が伸びている。通路の両脇には日本の屏風絵が並んでいた。この大陸で日本画を見るのはとても新鮮で不思議だった。観察しながらゆっくり通路を歩く。観察していて、この絵は日本画の中でもかなりエキセントリックなものだと分かる。天才的に、奇想である。「ケンタロウ、分かる?」
「蕭白でしょうか?」
「ショウハク?」聞いたことのない名前だ。
「宝暦、明和、安永年間の画家です、在野の人で、僕も詳しく知りません、彼の絵画は体系されず、日本中に散らばってしまっていて、諸外国に渡ってしまったものも多いと聞きます、その一部ではないかと、いや、全く別物かもしれませんが」
「へぇ、詳しいんだ」リンプが珍しくケンタロウに感心している。
「絵に詳しいわけじゃない、一度見たものを忘れないだけだ」
「不器用なくせに、生意気、」リンプは唇を尖らせる。「ねぇ、マイコ様ぁ」
「それにしてもこんな風に絵を飾るなんて感覚が狂っているとしか思えませんね、」ケンタロウはリンプを無視してマイコに接近して言う。「マイコ様もそう思いませんか?」
「別になんだっていいわよ、」マイコは二人に向かって答えた。「なんだっていいから、もっと二人は仲良く出来ないの?」
『マイコ様は一体なんのことをおっしゃっているんですか?』ケンタロウとリンプは声を合わせて言った。
「全く、」マイコは苦笑する。「仲がいいんだか、悪いんだか」
通路の突き当りを左に折れる。すぐに右手に受付カウンタがあり、背の高いタキシード姿のウェイタが素敵な微笑みを向けてきた。「いらっしゃいませ」
「こんばんわ」ニコッとマイコは微笑み返して、正面の両開きの扉を押そうとする。
「あ、ちょっと、」ウェイタは慌ててマイコの腕を掴んで引き止める。「待って下さい」
「え?」マイコは振り返って、ニコッと微笑み返す。「どうなさって?」
「いえ、その……、」慌ててウェイタがマイコの手を離して、銃を向けられたみたいに手を顔の横に上げたのは、マイコとウェイタの間にリンプとケンタロウが割って入り、腕を組み、おそらく彼を睨みつけているからだと思う。「……あの、すみませんが、マーブル財団の認可証は、お持ちですか?」
「認可証?」マイコは二人の素敵なボディガードの腕を引き、後ろに下がらせる。ウェイタの表情は強ばっていて保安官を呼ばれかねない。「認可証なんて、持ってないわ、ここ、普通のパブじゃなくて?」
「認可証がなければ駄目なんです、マーブル財団発行の認可証をお持ちでなければここを通すわけにはいきません、」ウェイタはケンタロウとリンプの方をチラチラ伺いながら早口で言った。「申し訳ございませんが、お引取りを」
「そう、」マイコは腕を組み、自分の口元に指を当てながら聞く。「この店にステージはある?」
「ステージ?」ウェイタはいきなり何を言うんだ、という風にマイコを訝しげに見る。「ええ、ありますけど、ありますよ、ステージ、それが何か?」
「私、舞い踊れるわ、自信があるわ、」マイコは言って、ウェイタの前で一回転してポーズを取った。「ご要望なら歌を歌ってもよろしくってよ」
「……あははっ、」ウェイタは額を押さえ苦笑した。「素敵な衣装ですね、東洋の方の民族衣装ですか? とても素敵ですけれど、今日のところは、ええ、ぜひ、お引取りを」
「ええ、そんなぁ、」マイコは高い声を出した。「いいじゃない、私達を中に入れたって、誰もきっと怒らないわよぉ」
「そういう問題ではなくて、」ウェイタの語気は荒い。「そういう問題じゃないんですよ、ルールなんですよ、ルールですから、僕にポーズを取ったって何も変わりませんよ」
「そう、」マイコは髪を触りながら言う。「金貨ならあるけど」
「え?」ウェイタは表情を変えた。
「何枚欲しい?」マイコは袖から小判を取り出しカードを扱うように扇状に広げた。「普通の人より沢山持っているから、そのうちの何枚か、直接あなたに払ってもいいなって、私は今、強く考えているんだけど」
「……ええっと、」ウェイタは小判を凝視し、そして喉を鳴らした。指先を小判に触れさせようとして、しかし、寸での所でウェイタは手を引っ込める。「……駄目だ、駄目だ、僕は何をしようとしているんだ、妻の医療費がかさんで大変だけれど、きちんと働いていれば払えない額じゃないし、いや、でも、いつ妻の様態が悪化するとも限らない、ああ、僕は、僕はどうしたらいいんですか!?」
ウェイタは髪の毛を掻きむしって、マイコを睨み、怒鳴った。
マイコは睨み返した。「あなたの未来はあなたで決めなさい」
言ってマイコは小判を一枚、ウェイタの胸ポケットに入れた。
「え?」ウェイタはポカンとしている。
マイコは踵を返した。ウェイタに背中を向ける。「ケンタロウ、リンプ、今日は諦めましょう、いえ、もう諦める」
「え?」ケンタロウはマイコの行動を見て、ウェイタ同様、ポカンとしている。
「マイコ様、」リンプはマイコの行動を見て、凄く瞳を輝かせている。「素敵です」
「そうでしょ? 潔いでしょ?」
リンプはマイコに駆け寄って腕を絡めた。
ケンタロウは大股で歩み寄り、マイコに並んだ。
そのときだった。
空気が裂ける鋭い音がした。
マイコは後ろを振り返った。
その瞬間。
くの字に変形した分厚い扉が壁にぶち当たった。
その音は耳に痛いほど。
……一体、何?
何かが爆発した?
いや。
魔法?
誰かが魔法を編んだ?
悲鳴が聞こえる。一人の悲鳴じゃない。沢山の人達の悲鳴だ。厳戒態勢を感じさせる悲鳴が耳に飛び込んでくる。
マイコはケンタロウを一瞥、走って通路を引き返した。
突き当りで左を向いたタイミングで、店の中から濁流のように出てくる人々とすれ違う。どうやら逃げている、らしい。中で何があったのだろう?
「ちょっと、何があったの!?」受付に立つウェイタに聞く。
「……分かりません、」ウェイタは小判を握りしめたまま呆然としていた。「……何があったのか、急に扉が飛んで」
「中に入っても構わないわよね」マイコは早口で言う。
「え、ええ」ウェイタはぎこちなく頷いた。
マイコはそれを確認して、店の中へ向かう。リンプとケンタロウも続く。
「あ、待って、危ないですよ!」ウェイタがマイコの背中に向かって声を張り上げた。
「私は魔女よ!」
マイコは前を向いたまま発声し、逃げる人たちの間を抜けて店の中に入った。
幻想的な光が散らばっていた。
薄暗いフロアの天井で回転するミラーボール。
横に広いフロアの中央に階段があり、それを降りた先、ちょうどミラーボールの真下に半円形のステージがあって、そこにソフィアが立っていた。ソフィアの斜め後ろにグランドピアノがある。その前に座るのはピアニストのミケ。ステージの奥には十二人のオーケストラが並んでいる。
静か。
フロアはとても静かだった。
誰も声を発しない。
皆。
階段をゆっくりと降りる。
金色に光る彼女のことをじっと見ていた。
「サブリナ」リンプが小さく発声した。
サブリナが階段をゆっくりと降りていた。今の彼女は黒頭巾を被っていない。彼女の金色の長い髪はとてつもない輝きを放っていて、それがミラーボールに反射して、この小さな世界にとても幻想的な眩しい光を散らしている。
「マリエ!」フロア右手のバルコニィのように手前にせり出したところから、男が手すりを掴み叫んだ。「目を覚ませ!」
彼はサブリナと行動を共にしていた男だった。髭面の、傭兵風の男性。彼の方は紅く染まっている。血の色だ。彼の後ろには、女装男子が仰向けに倒れている。その横で紫の髪の小さな魔女が震える体を両腕で押さえながら、サブリナの方を見ている。
「マリエ!」男はもう一度、サブリナに向かって叫ぶ。マリエ、というのがサブリナのニックネームか、何かなのか分からないが、とにかくサブリナは男の方には見向きもしない。ただ、ソフィアに向かってゆっくりと歩いている。
この状況はなんだろう?
男は目を覚ませと、サブリナに向かって叫んだ。
「乱心、」ケンタロウが呟く。「あるいは、暴走」
男は不安定な足取りで階段を降り、壁に沿って、こちらにやってくる。彼はマイコたちの存在など気にしていない。サブリナから視線を離さない。彼は右手で左の肩を押さえている。そこから心臓の鼓動に連動して血が湧き出ている。男はケンタロウの体にぶつかった。そのまま、サブリナがいる階段に降りようとする。
「待て、」ケンタロウは男の腕を掴んだ。「あんた、死ぬよ」
「離せ、」男は力のない声でケンタロウの手を振り払おうとする。「マリエの目を覚まさないと」
ケンタロウの判断は素早かった。
拳を固くして、彼の顎を殴る。
鈍い音が響く。
彼は膝から崩れ落ちる。
「リンプ、お裁縫は得意だろ?」ケンタロウは階段脇のテーブルから酒の入ったボトルを手にしてリンプに手渡す。「縫ってやれ、お前の超絶技巧で」
「言われなくても、」リンプはボトルの栓を抜き、ポケットから裁縫セットを取り出して、針に糸を通した。「五分で終わらせる」
ケンタロウは鬘を取って、投げ捨てた。ケンタロウのピンクの髪が光っている。
「ケンタロウ、何をする気?」
「分かりませんよ、」ケンタロウはマイコの前に腕を伸ばし、階段への進路を塞いだ。「ただどんな状況でもあなたのことを守るだけですよ」




