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第四章③

ソフィア、伊香保シデン、ミッキィ、ドナルド、マリエの五人はボストン・ステーション北口のロータリーで馬車に乗った。馬車は北に十分ほど進み、それから右に折れた。ソフィアは窓を開け、ボストンの街並みを眺めていた。知らない街。外灯の数が多く、道はきちんと舗装され、ワシントンには及ばないけれど背の高い建物が多く立ち並ぶ。近代的だがしかし、路頭には靴磨きの少年もいるし、老婆が若い女性の毛で作った鬘を売っているし、軍服を来た男性が夜の七時から眠っている。だから、知らない街だけれど、そこまでの新鮮さはなかった。

「まずは新しい研究室へ、ソフィアとシデンをご案内しますわ」

 マリエが言った。窓の外の景色は繁華街に変化している。その景色のまま、馬車は停止して、馭者が扉を開いた。ソフィアはマリエを見た。「研究室って、ここ? パブに見えるけど」

「ええ、間違いありません、」マリエはミッキィを見た。「そうですよね?」

「うん、ここで間違いないよ、マリエ」

 ソフィアは建物の看板を見ながら。馬車から降りた。黒い看板には白い文字でゴールド・シンフォニィと記述されている。

「あ、魔女さま、クァンドのマスタから言付けがあります」

「え、あ、……え?」ソフィアは馭者を見る。アリスだった。魔女に皮肉を言うことが趣味のアリスがいた。どうしてここに彼女がいるんだろうと思った。サクラメント・ステーションの前で別れたはずなのに。

「あら、アリス?」マリエも馬車を降りてから彼女に気付き、首を水平に傾けた。「どうしてここにいるのですか?」

「彼女に言付けがありまして、ああ、きちんとミカエラ様から認可を貰っていますよ、認可を貰って慌てて駅に向かいました、出発が遅れていたようで、最終列車にはなんとか間に合いました、でも、チケットがないので、そうだ、運転席に乗ろうと思って、まず駅員さんのロッカから制服を奪って改札を通って、蒸気機関車の運転席に乗り込んで、運転手の首を締めて気を失わせて、私は運転手になりました、蒸気機関車の運転は、馬車よりもずっと簡単ですね、簡単過ぎて、あまりおもしろいものではありませんでしたけれど、」アリスはニッコリと笑い、ソフィアの袖を触った。「とにかく、魔女さま、クァンドのマスタから言付けです」

「……怒ってた?」ソフィアはアリスは本当に何者なんだろうと思いながら、聞く。

「ええ、とってもお怒りになられまして、正直、困ってしまいました」

「ああ、やっぱり、そうだよね、」ソフィアは少し憂鬱になる。「そうだ」

「お土産を買って来なかったらただじゃおかないからな、」アリスは笑顔で言った。「マスタからの言付けです」

「それだけ?」

「はい、」アリスは一歩後ろに下がって、五人に向かってお辞儀した。「それでは失礼致します、私はビゲロ邸のエラリィ様の元に行っています、マリエ様、お呼びの際は光を打ち上げて頂ければ」

 アリスは馬車を走らせる。馬車が去り、ソフィアたちが降りた反対側にロープで縛られた馭者の老夫の姿があった。気を失っているようでぐったりと道の真中に横たわっている。駅前のロータリーで馬車に乗せてくれるようにソフィアが話しかけたのは、確か、この人だった。

 ……本当に彼女は何者なんだろう?

 とりあえず老夫を歩道に運び、ロープを解いた。パブの壁を背に座らせた。さて、どうしようと思っていたら、シデンが老夫の肩に触って魔法を編んだ。「ディスチャージ」

 彼女の髪がほのかに紫色に輝き、そして老夫の体が大きく痙攣した。

 老夫は目を覚まし、周囲を見回す。

 シデンはソフィアに笑いかける。

「料金はコレくらいでよろしいですか?」マリエは十枚の金貨を、まだ焦点が定まっていない老夫に渡した。「馬車の代金もこれで賄えますよね?」

 老夫は要領を得ない顔をしながら両手で金貨を受け取り、マリエを見上げる。「……あの、コレは?」

「さあ、中に入りましょう」

 老夫をその場に残し、マリエを先頭に五人はゴールド・シンフォニィの中に入った。人の出入りが激しい両開きのドアを潜り、狭い通路を真っ直ぐに歩く。通路の両脇は墨で絵が描かれている。どこの国の風景だろうか? 少なくともシンデラではないようだ。地面から付き出したような垂直に近い傾斜を持つ山の岩肌に、小屋が立ち並んでいる。その数は多くない。山の低い位置にあって、その周囲は細い木々が描かれている。天高いところに尾の長い鳥が一羽。山の右隣には何も描かれない空白。それを経て再び山が出現する。それは圧倒的に近い距離で描かれる。そこにいる鷹は巨大に描かれ、細かく描写され、威圧的に丸い目でこちらを睨んでいる。思わず脚が竦んでしまった。

「わぁ、コレ、日本のものだよ、」立ち止まったソフィアの隣でシデンが言った。「誰のものかな、あまり見慣れない画風だけど、京の方かしら」

「日本人が書いたもの?」

「うん、きっと、そうだと思う、けど、」シデンもじっと絵の中の鷹を見ていた。シデンは鷹に睨まれ、睨み返していた。それが少し可笑しかった。「どうしてこんな場所にあるんだろう?」

 通路の突き当りを左に折れる。正面は分厚い両開きの扉に遮られ、右手に受付カウンタがあった。背が高くて、蝶ネクタイの似合うタキシード姿のウェイタが立っていて、素敵な笑顔をソフィアに向けた。「いらっしゃいませ」

「ああ、えっと」ソフィアは素敵な笑顔から視線を逸らし、マリエを見る。

「支配人に挨拶がしたいのだけれど、いらっしゃいますか?」背の低いマリエはウェイタを見上げて言う。

「あの、失礼ですが、」ウェイタは腰を屈めマリエに顔を近づける。「どちらのお嬢様でございますか?」

「マリエです」

「ああ、」ウェイタはすぐに反応した。「ただいま、呼んで参ります」

 ウェイタはカウンタの後ろの扉へ消えた。しばらくすると扉が開き、ウェイタが戻ってきた。「すみません、その、今、取り込み中のようで、それが済み次第挨拶に伺うと」

「ええ、それで構いません」

「お食事はなさいますか?」

「そうですね、」マリエは頷く。「お願いしますわ」

「それでは、こちらへ」

 素敵な笑顔を作り直してウェイタは両開きの分厚い扉を開け、中へ誘う。扉が開いた瞬間から、オーケストラが聞こえた。

 フロアの中央には傾斜が急な階段があり、低いところに降りられるようになっていた。階段の先には一段高くなった半円形のステージ。そこに歌手が立ち、歌っていて、その後ろにオーケストラが並び、曲を奏でている。天井は高く、その中心には巨大なミラーボール。細かな光が暗いフロアを幻想的に眩しくしている。フロアは横に広く、階段を中心にして左右に曲線を描くようにソファが続き、それに沿って丸いテーブルが並べられている。

 ウェイタは中央の階段へは案内せず、壁に沿って歩き、正面から右手にある登り階段へ案内した。そこを登ると、バルコニィのように丸くせり出しているところがあった。ここからステージを上から見下ろすことが出来る。そこには脚の太い円卓と背もたれが大きい椅子が並べられていた。

 ウェイタは椅子を引き、マリエを座らせる。「何かご要望は?」

「ソフィア、何か食べたいものがありますか?」

「何でもいいです」ソフィアは椅子に座りながら答える。

「何でもいいですわ、」マリエはウェイタに言う。「ああ、人参はあらゆる料理から抜いてくださいね」

「ええ、承知致しております」

「好き嫌いは駄目よ」ソフィアは言う。

「別に私が嫌いな訳じゃありません、嫌いな人がいるのです」

「誰?」ソフィアはミッキィとドナルドとシデンを見る。

 皆、首を横に振る。

 ソフィアはマリエを見る。

「私じゃありませんよ」マリエは可笑しそうに返答する。

 じゃあ、誰なのよ。

「それでは、すぐにご用意致しますので」ウェイタは頭を下げ、足早に階段を降りていく。

「……支配人には悪いけれど、」マリエはオーケストラを見下ろして言う。「上品で技巧の施された音楽ですけれど、私が好きな音楽じゃありません、ソフィアのような情熱的なものがありません、つまらない、歌も下手だわ、ソフィアもそう思いませんか?」

「そう?」ソフィアは指先でリズムを取りながら、横に揺れていた。でも、ミケのピアノの方が素敵だと思っていたし、自分の歌声の方が今ステージで歌っている女性よりもずっと、素敵だと思っていた。「悪くはないんじゃない?」

 料理は本当にすぐに用意された。瞬く間に狭くはないテーブルの上が満たされる。見たことのないご馳走ばかりだ。ソフィアの食欲に火が付いた。夢中で肉を食べ、酒を飲んだ。ソフィアのエネルギアはしっかり充填された。

 そして、少し。

 飲み過ぎたみたいだ。

「ソフィア、大丈夫?」ソフィアの三倍はワインを飲んでいるシデンが顔を覗きこんで言った。「顔がピンク色だよ」

「そう? 全然、酔っている、なんて自覚ないけどな、」でも自分の理性が少し大胆になっていることは分かっていた。「まだ、飲み足りないし」

 対面に座るミッキィがソフィアに謎のウインクをしてグラスにワインを注ぐ。

 ミッキィの隣のドナルドは腕を組んで、小さないびきを掻いている。

「デザートが来ませんね、」マリエは片方の頬を膨らましている。「甘いものが食べたいのにな、遅いです、ドナルド、ウェイタを呼んできて」

「……ぐぅ」ドナルドの反応はない。

「ドナルド!」マリエは怒鳴った。「起きなさい!」

「……ん?」ドナルドは片目を開けた。「……どうしました?」

「デザートが来るのが遅いのよ!」

「え?」ドナルドの反応は鈍い。「なんです?」

「だから!」

「マリエ、」ソフィアは怒鳴るマリエの頬にキスをした。「うるさいよ」

 マリエは赤面し、信じられないくらい可愛い表情をする。ソフィアがキスした部分を指で触って、丸い目をさらに丸くして、震える声で言う。「そ、ソフィア? いきなり、その、急に何をするんですか? 酔っているんですか?」

「キスをしたからって酔っている訳じゃないよ、マリエのほっぺたがとても白いからキスしてみたくなっただけ、デザートがなかなか出てこないからね、そうね、マリエはデザート代わりね、マリエは私をデザートにする? キスしてもいいわよ」

「……んもう、」マリエは黒目を左右に忙しなく動かしながら、ソフィアがキスした場所を指でいじっている。「……しませんよ、しません」

「ねぇ、マリエ、」ソフィアはマリエに顔を寄せる。「頭巾を取って髪の色を見せてよ、見たいな」

「……ああ、もう、」マリエは丸い目でソフィアを睨む。「完全に酔っているじゃないですか!」

「理性が少し大胆になっているだけよ、」ソフィアは言いながら、マリエの黒頭巾に手を伸ばす。「理性が少し大胆になっているだけなのよ」

 マリエはソフィアの手を掴んで、黒頭巾を取られないように抵抗する。「い、嫌ですぅ」

「じゃあ、マリエ、そうね、マリエ、私はステージで歌ってくるわ、それがいいわね、ね?」

「ね、って、ええ?」

「私が歌ってあげるからマリエは髪の色を見せること、」ソフィアは指を立ててマリエに言った。「決まりね、うん、ああ、歌が歌いたい気分だったし、マリエがそう言うなら、仕方がないね」

「私は何も言ってません!」マリエはソフィアの顔の近くで怒鳴った。

 その時だった。ウェイタではない、男が階段を登ってソフィアたちのテーブルに近づいてきた。髪が長く、顔立ちは少年のように幼い。穴の空いた黒いズボンに、シワの多い黒いシャツ。特徴的なのは頭につけた羽根の髪飾り。不思議な雰囲気を持つ男はマリエをじっと見ている。「あの、あなたがマリエ博士、ですか?」

「ええ、」マリエは頷き、その男に向かって立ち上がった。「あなたが支配人の?」

「はい、僕がここの支配人のカサブランカです、」彼は無理に、という感じで笑顔を作って小さなマリエに向かって手を差し出す。「初めまして」

「初めまして、」マリエは拍手に応じて首を傾げる。「素敵なお店ですね」

「えっと、ありがとうございます、本当に、その、あなた方のお陰で、僕は自分のお店を開くことが出来ました、演奏の方は楽しんで頂けていますか?」

「微妙ですね」マリエは笑顔で正直に答えた。

「そう、ですか、」カサブランカは苦い表情をした。苦笑いも出来ない様子だった。「いや、さすが博士です、耳が肥えていらっしゃる、僕も、ええ、演奏には満足していなくて、まだまだこれからです、あ、でも、そろそろ一流のピアニストが演奏に加わりますので、少しは聞ける演奏になるかと」

「ねぇ、支配人?」ソフィアはグラスに注がれたワインを一気に飲み干し立ち上がる。ソフィアはさらに大胆になっていた。それはきちんと自覚している。「歌い手も変えましょうよ、私が歌ってあげるわ、いいでしょ? よし、決まりね、そうね、支配人がそこまで言うんだったら、仕方がないわね、よぉし、歌ってあげましょう、支配人、ステージまで案内しなさい」

「えっと、……僕は何も言っていないのですが」

 ソフィアはカサブランカの腕を掴んで階段を降り、ステージに向かった。優雅な演奏が中断され、客席がざわついていた。カサブランカは歌い手に事情を説明した。歌い手の女性はソフィアを一度睨み、ステージ袖に消えた。

 ソフィアは誰もいなくなったステージに立った。真上のミラーボールを見上げる。眩しい。ソフィアはミケから借りたドレスを来ている。だからステージの上にいても全然おかしくない。おかしくないと思う。とにかく、気分がいい。普通じゃない、特別な気分だから、とっても歌が歌いたくてしょうがない。客席を見回す。こんなに大勢の人に見られるのは初めてだ。とっても、なんていうか、愉快だ。

 オーケストラの方に振り返ると、全員困っていた。当然だ。どこの誰かも分からない女がステージに立っているのだから。この状況も、とても愉快だ。楽しい。

 オーケストラに事情を説明していたカサブランカが近づいてきてソフィアに曲のリストを見せた。「これが僕らのレパートリーですが」

 リストを見る。「うん、全部知っているわ」

「本当ですか?」

「うん、なぜか全部知ってる、」ソフィアは微笑んだ。「なんでだろう?」

「えっと、それじゃあ、なんでもいいんですね?」カサブランカはリストを眺めながら、上目でソフィアを見て、ある曲を指さした。「じゃあ、最初はコレを」

「うん、とっても好きよ、その曲」

 カサブランカは頷き、オーケストラにその曲名を告げる。

 そのタイミングでステージ上に二人のウェイタによってグランドピアノが運び込まれた。歌い手の立つ半円形のステージから近い距離に設置された。

 ソフィアは正面を向いてピアニストの登場を待つ。ソフィアは五指を組み発声練習をする。客席はソフィアの声に静まった。なんでだろう?

 もっと騒げばいいのに。

 そう思ったときに。

 声が聞こえた。「もう、なんでこんな短い裾のドレスしかないの!?」

「いや、それが君に一番似合うと思って」

「信じられない」

「ごめん」カサブランカは小さな声で謝る。

「もういいから、」ピアニストが椅子を引いてピアノの前に座る音がした。「それで曲は何?」

「これなんだけど」

「分かったわ」

 ソフィアの後ろでピアニストは指を慣らしている。

 その慣らし方をなぜか。

 ソフィアは知っていた。

 そういえば。

 ピアニストの声も。

 はっと気付いて後ろを振り返った。

 耳が良いソフィアの反応が遅れたのは、きっと酔っていたせいだ。

 ピアノの前に座っていたのは、ミケだった。

 ソフィアは驚いた。「……ミケ?」

 ミケも驚いた表情をこっちに向けた。「……ソフィア?」

「え、なんで?」

「いや、それはこっちの台詞だって」

「クァンドはどうしたのよ!?」

「いや、それはこっちの台詞だって!?」

 ソフィアとミケは視線を交わした。二秒の沈黙。そして二人とも笑った。ミケがどうしてここにいるのかは凄くミステリィだけど、でも、ミケはここにいる。それは事実。だからやることは決っている。二人が揃ったらやることは決っている。歌を歌うことはソフィアの未来ではないけれど、ミケと一緒だったらやることだ。互いのミステリィを解き明かすのは後でいい。「話は後にしよ、今は、とにかく歌いたいから、とにかく歌いたいの私」

「奇遇ね、私もとってもピアノが弾きたいんだ、なぜかアレをとっても弾きたい気分なんだ」

「うん、それじゃあ、ミケ、」ソフィアは正面に向かって姿勢よく立ち、息を吸った。そして歯切れよく発声する。「いくよ」


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